漆
鷸宮と離れた後、藍晶は別の山の奥地へと飛び人毛を処分した。その作業を終えて下山すると、彼は帰路に着いた鷸宮との合流を図る。時刻は既に宵の口を過ぎていた。
道中、繁華街の路地裏へと入る。遠くで響く喧噪を聞き流しながら、藍晶は考え事をしていた。
(これはちょっとばかり雲行きが怪しくなって来たな。辻の世界が派遣した調査員か。僕の計画に対して、彼方はもっと好意的な印象を抱いてくれると思ったのだが、いやはや意外と理性が強い様だ)
無意識に藍晶の口から「気に入らない」という呟きが漏れた。
門に仕掛けを施したのは彼であった。鷸宮が担当した場所は作業時に彼女の目を盗んで、他の者に割り振られた所に関しては後から行って穴の痕跡が完全に消え去る前に手を加えたのだ。
誰にも明かさないが、藍晶の本質は不吉の象徴たる怪異だ。その本能と理知で後付けした言い訳に従い、彼は今回の事件を引き起こした。目的は辻の世界から現世に怪異を招き入れ、現世に災厄を齎すこと。計画は未だ途上の為、今回は仕掛けの処分を引き受けて疑いの目を反らさせたが、断じて野望を捨てた訳ではない。
(どうやら、騒乱の種は辻の世界側にも必要らしい。何、彼方も一枚岩ではない。付け入る隙は幾らでもあるだろうよ)
口の端が歪に緩む。物事が思い通りに行かず腹立たしく感じるけれども、同時に楽しくて仕方がない。藍晶は今、確かに生きる実感を得ていた。一方で、子供染みた情動を恥じ入る気持ちもあり、彼は腹の中で自分自身を窘める。
暗闇に包まれた道を通り抜け、眩い光が漏れる場所へ至ろうとする。だが、前方に立つ何者かに邪魔をされた。藍晶は目を凝らすが、逆光の所為で相手の姿を正確には捉えられない。とは言え、眼前の存在は控え目ながらも妖気を放っていたので、妖怪であることは認識出来た。藍晶は眉間に皺を寄せ、足を止める。すると、相手は彼に声を掛けて来た。やや掠れた低い男の声だった。
「お初に御目に掛る。儂は世間では『ぬらりひょん』と呼ばれておる者だ。あんたに少々話があって来た。鳥妖怪の藍晶――いいや、『鵺』」
「何?」
正体を看破された藍晶は警戒心を露わにした。その様子をどう判断したのか、ぬらりひょんを名乗る妖怪は含み笑いをする。
「とは言えあんた、見るからに嘘吐きって風貌だ。鵺の特性的にも多分間違ってはいないだろう。真面な会話は成立すまい。だから、此方の主張を一方的に告げる。耳をかっぽじって良く聞きな」
こつりと音を立てて、ぬらりひょんの持つ杖がコンクリートの地面を突いた。
「儂は現世の平穏を望む。そして、それを脅かす者を排除する。よって、あんたの悪さも見過ごさない。本当は今直ぐにでも常世へ送ってやりたい所だが、あんたが取り憑いている娘や背後の組織には多少なりとも価値がある。特にあのお嬢ちゃんの懸命に動き回る姿に、儂は頭の下がる思いすら抱いているんだ。だから、あの子に免じて一度だけ延命の機会をくれてやろう。今回限りで手を引けば、あんたを見逃してやる。しかし、止めなければ――」
ぬらりひょんは杖を持たない手の親指と人差し指を伸ばし、人差し指の方の先端を自身の米神に当てた。次の瞬間――。
――ぱんっ。
何処かで乾いた音が一つ鳴り、間を置かず藍晶の背後から別の音が響いた。最初の音は聞き慣れず正体は思い出せないが、彼にも覚えのあるものだった。
(何だ?)
藍晶は嫌な胸騒ぎを覚え、周囲を見回して音の元を探った。だが、発生源を見付けることは出来ない。胸の内に湧いた焦りがじわじわと増していく。そして、頭の方は音の正体に辿り着いていた。とは言っても、確証はなく根拠は直感だけであるのだが。
(否、まさか……流石に考え過ぎだよな。確かに風体はそれらしいが、奴は曲がりなりにも妖怪だぞ)
藍晶はゆっくりと顔を正面へと戻した。ぬらりひょんの表情は相変わらず見えないが、何となく笑っている様な気がする。嗄れた声が再び路地裏に響いた。
「こう見えても儂は顔が広くてな。妖怪、人間、老若男女、職業問わず、色んな知り合いがいるのさ。実は今日も、そんなお友達の一人に付いて来てもらったんだがね。奴さん、ちいとばかしシャイなもんで、何処かに隠れちまって。挨拶がなくて済まねえな。まあ、ともあれあんまりお痛が過ぎると――」
お道化た調子で「ばあん」と言って、ぬらりひょんは米神に当てた人差し指を上へ向ける。然る後に、こう続けた。
「そいつ御自慢の鉄の筒が火を噴くことになるぜい」
藍晶の推測は正しかった。彼は息を呑み、心の中で叫んだ。
(やっぱり銃かーっ!!)
片やぬらりひょんは期待通りの反応を得られたのだろう、呵々と笑う。実際には短い時間の出来事だったが、藍晶には長く屈辱的に感じられた。伝え聞く話を参考にすれば、相手は見掛けに依らず彼よりも遥かに年若い筈だから尚更だ。
やがて、満足したぬらりひょんは咳払いをした後に告げた。
「じゃ、今日の用事は済んだんでな。これで帰らせてもらうぞ」
その宣言通りにぬらりひょんは踵を返し、表通りへと消えていった。恐らくは連れて来た友達とやらも、彼に付き従って去ったことであろう。ただ一人取り残された藍晶は、暫く無言で立ち尽くしていた。しかし、暫くして彼は正面の光を睨み、呟いた。
「調子に乗りおって、若造めが……!」
憤怒の声は車の走行音に掻き消され、握り締められた拳は闇の中に沈む。新たな火種の誕生を知る者は、先程までこの場にいた数名以外には誰もいなかった。