参
宇多が配属された部署は、異界関連の問題への対応全般を担っていた。勤務初日に語られた現世の門の調査のみならず、辻の世界への移住手続や生活相談等、その仕事内容は多岐に渡る。内勤と外勤の両方があり、新人の宇多はまず内勤からと説明されていたが、そもそも急増する問題に対応する為に新設された部署であり、現状は常に人手が足りていなかったので、結局は彼女も入社数日で現場へ回されることとなった。
この日の仕事は人為的に開かれたと目される現世の門の調査であった。これには現世側の周辺調査も含まれる。つまりは先日話題に上った起案書の仕事だ。必然的に担当者の取り纏め役は発案者――雪国出身の女妖怪「雪女」たる氷川夢が担っていた。「取り纏め」とは言っても、氷川と宇多の二人しかいないが。
氷川は態とらしく半泣きになってみせながら、顔の前で手を合わせた。
「ご免なさいぃ。まさか、こんなことになるなんて思わなかったんですぅ。危なくなったら即撤退するから、許してぇ」
「いえ、大丈夫ですけれども」
息が掛かる距離まで身を寄せる氷川に辟易しつつも、宇多は既の所で顔を引き攣らせて後退りしそうになるのを堪える。そして、本来の担当者である先輩役人について考えた。宇多は急病で倒れた彼の代理で此方に回されたのだ。他の者は皆手持ちの仕事から離れられなかったらしい。
(がしゃどくろでも病気になるのね。否、流石に仮病か)
強大な骸骨の姿をした妖怪「がしゃどくろ」。既に死した状態の彼が果たして病に罹るだろうか、という疑念は当然湧く。恐らく、彼が休みを取った理由は他にあるのだ。では、その理由とは何か。一つ考えられるのは、彼が現世で憂き目を見た末に現世から逃げて来た類の移民である可能性だ。もしそうならば――無論、社会人としては問題のある行動だが――忌まわしき故郷から逃れようと任務を拒否したのも理解出来る。
そこでふと、宇多の頭に別の疑問が浮かんだ。先日氷川や狐坂も語っていたが、現世の妖怪に伝わる異界間の往来に使われる術とは具体的にどの様なものなのか。今、眼前の空間に空いている黒穴が一例であるのは確かだが。
「あの、付かぬことをお伺いしますが――」
「私には敬語を使わなくても良いですよぅ。仕事は私の方が先輩ですけど、年齢はそんなに変わんないですしぃ。私はそういうポリシー? ううん、スタイルが気に入ってるから、使いますけどぉ」
「す、『すたいる』? 『ぽりしい』?」
聞き慣れない言葉だ。氷川の故郷でもある現世で使用されている語句なのかもしれない。言うまでもなく、宇多には氷川の考えが伝わらない。すると氷川は短く笑声を漏らし、雑な説明を付け加えた。
「様式美って奴ですぅ。ちょおっと、意味が違いますけどねぇ」
「そ、う、ですか。しかし、私の方も癖ですので」
「成程ぉ、了解ですですぅ。それで、質問って?」
宇多は無理矢理気持ちを落ち着かせ、一つ頷いた後に口を開いた。
「氷川さんはどういった方法で辻の世界にいらしたのですか? 差し支えなければお聞かせ願えないでしょうか。今迄のお話から推察しますに、迷い込まれた訳ではないのですよね? もし先日仰っていた御実家伝来の知識を利用されたのであれば、門外不出の教えやもしれませんから、無理にとは申しませんが」
「そうですねぇ。本来だったら他所の方に教えてはいけないんでしょうけどぉ、そんなことを言ってられる状況でもないのでお話ししますねぇ。多分、尾ノ橋さんもある程度察しが付いてますよねぇ。これと同じですぅ。現世と辻の世界の狭間を貫通する穴を開けるんですよぅ。細かい差異はあるのでしょうけどぉ、基本的な仕組みはどの家も同じだと思いますよぅ。あっ、今言った方法は何もない所に道を作る場合の話ですよぅ。元から境界のある場所はぁ、普通に徒歩で行けますからねぇ」
そう言って黒穴を指差した後に、氷川は再び宇多の方へと振り返る。彼女は悪気ない風を装う為か、小首を傾げて尋ねた。
「やっぱりぃ、蛇城家には似た様な術は伝わってないんですかぁ?」
先日、宇多が否定した件だ。どうやら氷川はあの時の方便を信じていなかったらしい。思惑を見透かされていたのだ。宇多は決まりが悪そうに俯いた。
「もしかしたら、伝わっているのかもしれません。ただ当家の場合、異界に関する事物の殆どはお仕え申し上げている神が管理しておられまして、下々が許可を得ず触れたならばお叱りを受けるかと」
「あぁ……成程ねぇ。神様がいらっしゃる所はねぇ。大変ですよねぇ」
氷川は顎に指を当て、何故か明後日の方向を見る。少なくとも人間の寿命よりは長く生きた妖怪だから、過去に何処かの神と直に接し、且つ不快な経験をしていたとしてもおかしくはない。だが、末端とは言え神に仕える一族の者として、宇多は彼女に同調する訳にはいかなかった。故に、氷川に対し「いいえ、その様なことは決して」と否定の姿勢を示す。そして、話の軌道修正を図った。
「では、やはり氷川さんは御自分の意志で辻の世界に来られたのですね」
「そうですそうですぅ。自発的な移住者なんですぅ。意外ですかぁ?」
「少し。氷川さんはその、現世の文化に馴染んでいると申しますか、満喫しておられる様に見受けられたので」
「そんな風に見えましたかぁ? でもこれ、実は現世では少し流行遅れなのですよぅ」
微笑を苦笑に変え、氷川は自分の服を摘まむ。宇多は僅かに目を見開いた。
「知りませんでした」
「現世は人間の世界なのですよぅ。意図的か否かに関わらずぅ、世界の全てを人間が決めてしまっているのですぅ。住民もほぼほぼ人間ですからねぇ。昔からいる妖怪は随分と数を減らしましたぁ。でも、今の時代に見合った怪異が跋扈するようになったからぁ、怪異の総数は減ってないんですよぉ。それでも、どうにもならない位に人間が強い世界なんですぅ。だから、古い妖怪である私にとっては少しばかり暮らしにくい場所ではあるのですよねぇ。勿論生まれ故郷ですからぁ、現世の方が良いって思う面も無きにしも非ずなのですけどぉ」
「はあ……」
話の内容は哀愁を誘うものの、如何せん口調が宜しくない。台無しだ。宇多は疲労を感じ始めた。
「あっ、話し込んでる場合じゃありませんねぇ。私達ぃ、お仕事に来てるんでしたぁ。そろそろ中に入りましょうかぁ」
唐突な氷川の呼び掛けに、宇多も漸く自身の仕事を思い出し、申し訳なさ気に謝罪と同意を告げる。そして、先導する氷川の後ろに従った。
宇多の今日の身形は現世に合わせて洋装だ。危険な任務かも知れないので、お守り代わりの「藤」も身に着けている。長い黒髪を纏めた紐に挿し込んだ簪の先――暗い通路を流れる生臭い微風に揺らされている飾りがそれだ。普段は殆ど重みのない作り物の花であるが、現世に近付くに連れて地面に引っ張られる感覚が増していく。それが神の警告の様に思えて宇多は気を引き締めた。
◇◇◇
同じ頃、現世側の門周辺には一組の若い男女が立っていた。否、男の方は若く見えるだけで人間の寿命を遥かに超える年月を生きた妖怪だ。傍らにいる十代後半の少女は彼を使役する人間の術者で、共に眼前に浮かぶ身の丈よりも大きな黒穴の中に妖気を感じ取って顔を強張らせた。
「この気配は……」
先に呟いたのは妖怪の方である。片や少女は緊張に不安を一匙加えた面持ちで尋ねた。
「藍晶、気付いた?」
「うん、強い妖気だ。しかも、自然に馴染んでいる。野生たる怪異。そこそこ大物なんじゃないかな」
「なら、人里に出る前に退治するか、辻の世界へ戻さないと」
少女はしゃがみ込み、地面に置いていた鞄を漁り始める。しかし、彼女に藍晶と呼ばれた妖怪はより厳しい表情になって彼女を止めた。
「待って。このクラスの妖怪は君の力では太刀打ち出来ない。正直、僕でも厳しい。一匹だけなら物凄く頑張れば何とかなったかもしれないけど、二匹だからね」
「二匹もいるの!?」
弾かれた様に少女は藍晶を見上げる。すると、嘲り混じりの微笑を湛えた端正な顔が目に入った。
「それも分からないかあ。そうかそうか。なら、もう応援を呼んだ方が良いね。麓との連絡はまだ取れそうにない?」
少女は直様鞄へと視線を戻し、携帯電話を取り出す。そして画面を確認し、項垂れた。
「ご免、まだ電波が通じない」
「じゃあ、一旦山を下りよう。兎に角、人手がないとどうにもならない」
相手の返事を待たず踵を返した藍晶に対し、少女が「でも」と言い掛けた時、門の方向から土を踏む音が響いた。彼等は驚いて同時に振り向き、続いて同じ様に身体を強張らせる。
門の前には二人の女性が立っていた。若く容姿端麗で、今風の衣服を纏っている。無知な所為で山歩きに相応しくない装いで来てしまった若者に見えなくもない。されど、彼女達の身から溢れ出す妖気が、その本性は見た目通りではないと強く訴えていた。
「しまった。妖気の拡散範囲が広過ぎて、正確な位置を読み違えたか」
相手にとっても想定外の事態であったのだろう。女妖怪達は最初の内、目や口を軽く開けて硬直していた。しかし、やがて一方の目付きが険しくなる。敵意がある、と判断した少女は再び鞄に手を突っ込み、武器を取り出そうとした。だが、藍晶が彼女の腕を掴み上げて止めた。
「馬鹿、逃げるぞ!」
少女は鞄の紐を手放さなかったものの、それ以外は藍晶の指示に従い、女妖怪達に背を向けて走り出した。
「あっ!」
「待ちなさい!」
背後から怒声が聞こえたが、少女は立ち止まることも振り返ることもなかった。