壱
現世と常世の狭間に「辻の世界」と呼ばれる場所がある。人間と妖怪と神が共存する不可思議な空間だ。彼の地は今でこそ多くの街が造られ、全域に渡って住民が存在しているが、元は先述の二つの世界を繋ぐ唯の通り道であった。その何もない場所で気紛れに足を止めた神々が、別荘地として整備したのが集落としての彼の地の始まりだ。以降、辻の世界は長い時を掛けて迷い人と自発的な移住者を溜め込み、現在の姿へと至った訳である。
今回の話は、辻の世界における国造りの神の一柱に仕えていた者達が起こした内紛から始まる。とは言っても、切っ掛けとなった事件は既に収束していた。問題の集団は蛇の化生で、主には「蛇城」の姓を名乗る一族だ。古くから彼の神に奉仕しており、名家として広く知られていた。けれども、先頃本家の後継者達が死傷者の出る事件を引き起こし、当主である蛇城白弥は汚名を雪ぐ為、苦渋の決断をせざるを得なくなる。具体的には、次期当主を分家より選ぶ決断を、だ。
その話を聞いた時、候補者の一人として挙げられた尾ノ橋宇多は不満の声を上げた。
「納得出来ません。どうして無関係な我々が尻拭いをさせられるのですか? しかも、本家があるのは三和の街でしょう。暮らしやすい都会を離れ、あの様な僻地で生きよと? 通り道としてすら行きたいとは思えない土地に? 何かある度に呼び出されて、私が愚痴を零していたのはお父様だって知っておられるでしょうに」
だが愛娘の訴えに対し、父親たる吉次郎の返しは冷淡だった。
「お前の意志は関係ない。全ては本家当主の白弥殿が決められたことだ」
「本家の問題は本家だけで解決して頂きたいものです。日頃散々分家を卑しき者と見下しておきながら、自分達はこの醜態ですか? 堪りませんね」
「確かにな。だが、今回の決定は我々にとって好機だ。本家に不満があるならば、尚のこと、お前が上に立って奴等に身の程を教えてやるべきだ」
積もり積もった憤懣と野心が透けて見える発言だった。娘の宇多でも初めて目の当たりにする裏の顔だ。不意に宇多の背筋が寒くなった。
「我等が神、は果たして我々の行いをお許しになるでしょうか?」
苦し紛れの諫言だけではない。率直な本音でもある。分家を含む今の蛇城家の有り様を部外者は神に纏ろう者にあるまじき姿と感じるだろう。無論、彼等が仕える神も。しかし、吉次郎は認めない。険しい表情をして首を横に振る。
「白弥殿は神意に背く行いは決してなさらない。此度の決定についても、恐らくは彼方の御意向を確認してから伝達された筈だ」
飽くまでも推測である。吉次郎の本心は「真偽の程はどうあれ、そう信じたい」といった所だろう。粗を指摘しても変心はないと悟った宇多は、別の方向から攻めてみる。
「打診は他の分家にも行ったのですよね?」
「ああ。しかし、可能性は高い程良い。本家の子供達に挽回の隙は与えない。だから、分家衆はより多くの候補者を出すと決めた。必ず分家より当主を――それが我々の総意なのだよ」
有無を言わせぬ圧を込めて告げた後、吉次郎は文机に目を落とし、そこに置かれていた書類を拾い上げた。宇多の視線もまたその紙へと吸い寄せられる。
「とは言え、実際に後継者の指名が行われるのは、まだずっと先だ。故に宇多よ。まずは白弥殿の命に従い、都へ向かえ。お前は見聞を広げる必要がある。そして、人脈作りも。『当家の家督は何者にも言い訳させぬ実力でもって奪い取れ』というのが白夜殿からの伝言だ」
当主になるには実力不足、けれども選択権を握っているのはお前ではない――吉次郎の言葉には暗にそういった意味が込められていた。宇多が長年の努力の末に獲得した能力も自由意思も徹底的に否定したのだ。まるで駒の様な扱いである。もし仮に彼女が当主の座に就いたとしても、待っているのは傀儡同然の人生なのかもしれない。宇多は唇を噛んだ。今直ぐ父親を殴りたかった。だが、その行為は無意味と知っていたから、彼女はしなかった。父や家に対する恩義も影響していた。
「畏まりました、お父様」
宇多は畳に手を突いてそう応じた。
それから数か月後、宇多は生まれて初めて都の土を踏む。彼女の実家があった街も都市と呼べる規模であったが、辻の世界の中枢たる「都」の賑わいと景観の威容はその遥か上を行っていた。
けれども、駅を出た宇多は街の景色を見てこう呟く。
「気持ちの悪い街」
子供染みた反骨心と望郷の念の表れだ。宇多は一度だけ鼻を啜って、新たな住まいへと向かった。