夫が戦死しました
夫が死にました。戦死です。
私はメレヤーヌ・イディスケント伯爵夫人です。つまり、亡くなった夫はイディスケント伯爵。名はローレンスと言いました。
半年前から行われていた隣国との戦争は、先日決戦が行われて、我が王国が勝ったのだと伺っていましたのに、夫は戦死してしまったのだそうです。なんとも、運の悪い話です。いかにもあの人らしいツキのなさです。
私と夫が結婚したのは十四年前。私が十八歳の時の事でございました。夫は二つ年上でしたかね。私はエーベルト侯爵家の次女でしたから、次期伯爵だった夫との結婚は良縁の部類でした。ですから特に不満に思うこともなく嫁入りしましたよ。
ですけど、貴族の結婚なんて家同士の契約ですからね。私も夫も特にお互いのことを何とも思わないまま結婚しました。別に上手くいっていなかった訳ではありませんよ? 翌々年には長男も生まれましたし、特に大きな問題は何も起こらず結婚生活を送って参りました。
ああ、でもどうしましょうね。息子はまだ十二歳です。最近しっかりしてきましたけど、まだまだ子供ですし教育も途中です。それに十三歳で成人するまで家督が相続出来ないではありませんか。その間は私が伯爵夫人の権限で領地経営をしなければならないでしょう。
まったく。あと一年、いや二年後ならこんな事で頭を悩まされずに済んだのですよ。あの人は本当に間が悪い。
運もそうですけど要領も悪くて、国王陛下にお仕えする上位貴族の中では高い家格のイディスケント伯爵家の当主でありながら、あまり国王陛下のご信任を得られず、良い役職を与えて貰えずにいました。私はご夫人方の社交で、他のご当主様がご出世なさるのを聞いて歯がゆい想いをしたものでございます。
それなのにあの人はいつも飄々としていました。背は大きく少し太り気味で、のんびりした顔立ちをしていました。一人息子で大事に育てられたからでしょうかね。急ぐという事を知りませんでした。
私と息子を大事に丁重に扱い、伯爵領の領民にも慈愛を注ぐ実に「良い人」でしたよ。野心も何も無く、日々をのんびり過ごせればいいと考えているようでした。そんな人を戦死させてしまうのですから戦争とは残酷なものですね。
夫の遺体が帰って来たのは知らせがあってから半月後でした。戦死の知らせと同時に捷報が届いて王都が勝利で大きく湧きましたが、我が家は喪中ですからお祝いの祝宴にも出られませんでしたよ。残念な事です。
遺体には魔法で完全な防腐処理が施されていて匂いも何もしませんでした。服装も、戦死した時には鎧兜姿だったと思うのですけど、立派な礼服姿になっていましたね。
夫の遺体を届けてくれたのは伯爵家の家臣達で、彼らは私の姿を見ると一斉に崩れるように跪きました。
「申し訳ございません! 閣下を! お守り出来ませんでした!」
みんな泣いています。私は彼らを宥めました。
「戦場では生死は紙一重と聞きます。貴方達の責任ではございません。よくぞ無事に夫を届けてくれましたね」
実際、夫の姿は首を取られる事も無くきれいなものでした。彼らが必死に夫の遺体を護ってくれた事が分かります。私は夫の最期の姿を彼らから聞きました。戦闘での指揮中に胸に矢を受けて馬から転がり落ちたそうです。ほとんど即死だったという事でした。
「さぞやご無念だった事でしょう……」
その割には夫の死に顔は安らかなものでしたよ。のんびりして寝ているのかと思いました。この人はなぜか私の膝枕で寝るのが好きで、そういう時はこんな顔をしてました。私はそんな事はしたくなかったのですが、母親に膝枕をしてもらった良い思い出があったそうで、それで妻の私にもせがんだのですね。私は渋々要求に応じましたよ。
ふと見ると、胸の前に置かれた夫の手が変でした。本来であれば両手は胸の前で組まれている筈ですのに、なぜか右手が握りしめられたままだったのです。怪訝な表情をする私に家臣が説明します。
「亡くなられた時から右手がぎゅっと握られて、どうしても開かなかったのです。閣下のご無念を表しているかと思うと……」
家臣はまた泣いてしまいました。私は首を傾げます。この人はそんなタイプの人ではないと思うんですけどね。
遺体が到着したので葬儀の準備を始めます。夫の両親は既にお亡くなりになっているため、伯爵家の一族、私の実家に葬儀の連絡をします。今回の戦いでは貴族の方にも何人かお亡くなりになった方がいらっしゃって、そういう方々と葬儀の日程が被らないようにするのが大変でした。
式場は王都の礼拝堂。墓地は伯爵家累代の墓所がありますから埋葬の場所を決めて墓石の手配をして墓所の教会に寄付をします。後は紋章院に私が伯爵家当主代理になるための手続きをして、国王陛下から賜っているお屋敷の契約者変更の手続きなどをしなければなりません。
色々忙しくて大変でしたよ。季節は春でこんな事でもなければ花を見る会が方々の貴族の屋敷で開かれ、私もそういう席に招かれて楽しい時期でしたのに。まさか喪中にそういう楽しい席には行かれません。
そういえば夫は花粉症でしたから、屋敷の庭園には花が何もありません。「君が植えたければ植えれば良い。私が我慢するから」と言っていましたけど、夫を苦しめてまで花が見たいわけでもありませんからね。庭園には木々と花の咲かない植え込みしかありません。夫が亡くなったのだから花を植えてもいいのかしらね。
そんな風に忙しくしていると、王都に遠征軍が凱旋して参りました。王都は派手に飾り付けられ、屋敷のある貴族街でも旗や飾りが風に靡いていましたけど、我が家はひっそりとしていますよ。
ところが私に王宮から戦勝式典への招待状が届いたのです。しかも国王陛下直々のお手紙でした。葬儀の準備が佳境に入っていて大変忙しい時期でしたけど、まさかお断りは出来ません。私は式典用のドレスを着て王宮に向かいました。息子は成人前ですから連れてはいけません。
式典の会場である大広間には一人で入ります。ああ、私は未亡人になったのだなぁ、と思いましたね。貴族夫人が式典や社交に一人で来ることはありませんからね。未亡人にだけ一人での入場が許されるのです。
戦勝の式典ですから凄い熱気で皆様興奮していますし、表情も明るいです。しかし私は腕に喪章の黒い布を巻いている身です。一緒になって喜ぶわけには参りません。知り合いの貴族夫人の皆様も声が掛け辛いらしく、ご挨拶とお悔やみの挨拶を下さった以外は遠巻きにしていらっしゃいます。私は溜息が出てしまいます。どうして私を御招きになったのですかね。国王陛下は。
式典が始まりました。今回の戦いは大戦でしたから、国王陛下自らご出征なさったのです。まだ三十代。夫と同年代の国王陛下は、高位貴族の将軍の皆様を引き連れて鎧姿で会場にご入場なさいました。皆様が熱狂的な拍手と歓声でお出迎えになります。
ところが、入ってきた皆様のお姿を見て全員が息を呑みます。それは国王陛下以下、凱旋将軍である筈の皆様がボロボロだったからです。
どの方の鎧も汚れて凹んでいます。怪我をなさっている方も多いようで、国王陛下からして頭に包帯を巻いている有様です。今回の戦いは勝ったとはいえ随分と苦しい戦いだった事が伺わなくても伝わってくるようです。
大扉から玉座に進む国王陛下に笑顔はありません。厳しい表情をしています。私もさすがに驚いてその様子を見守っていました。
すると、国王陛下が私の姿を認めました。目が合います。陛下とは頻繁にではありませんがお話しさせて頂いた事はありますから、面識はあります。私は頭を下げました。
すると、国王陛下はいきなり方向を変えて私の方に向かって来たのです。私の周囲の方々が慌てて身体を避けます。私が呆然としている内に国王陛下は私の目の前に立っていました。私よりずっと背が高く威厳のある美丈夫です。陛下は厳しい目でしばし私を見下ろしていらっしゃいました。
そして、いきなり陛下の頭の位置が下がりました。陛下が跪いたのだと分かるまでに少し時間が必要でしたよ。
陛下が家臣の、しかも女性に跪くなど前代未聞の事です。私の周りの方々が騒めきます。しかし、それだけではありませんでした。陛下に続く凱旋将軍の皆様、その全員が次々と鎧を鳴らして私の前に膝を突いたのです。私は呆然としてしまいました。な、何が起こっているのでしょう。
「すまぬ。イディスケント伯爵夫人。其方の夫を、ローレンスを死なせてしまった。許してくれ」
国王陛下が私にそう謝罪なさいました。私は驚きます。
「こ、国王陛下のお為に亡くなったのなら、王国貴族としては誉と言うべきもの。陛下が謝罪なさる事はございません」
「そうではない。夫人。我が軍は、いや、我が王国は、ローレンスのおかげで救われたのだ!」
「イディスケント伯爵の犠牲のおかげで王国は勝利できたのです!」
「ローレンスこそ真の英雄だ!」
国王陛下だけでなく将軍の皆様も涙を流しながら口々にそう仰いました。一体どういう事なのでしょうか。
……式典が終わってから私は別室に招かれて国王陛下から説明を受けました。陛下は怪我をしてお疲れなのに、休むのは私に説明をした後だと言って、どうしても周囲の制止を聞かなかったのだそうです。
国王陛下のお話によると、今回の戦いで、実は王国軍は緒戦で敵に大敗したのだそうです。敵の奇襲を受け、狭隘路に追い込まれあわや全滅。国王陛下までが剣を振るう状況に追い込まれたのだとか。
窮地を逃れるには狭隘路を整然と撤退しなければなりませんでしたが、敵の追撃を受けながらではそれも難しい。兵士が混乱して我先に逃げ出せば身動きが取れなくなって敵に恣に殺戮されてしまうでしょう。
誰かが敵の追撃を食い止める必要がありました。しかし、勢いに乗って追撃してくる敵に立ち向かうのですから容易な事ではありませんし、撃ち破られれば本軍の危機ですから生半可な将を充てるわけには行きません。
国王陛下は悩みました。そこへ……。
「ローレンスが手を挙げたのだ」
夫は「自分が必ず敵を食い止めるので、後退して狭隘路の先で陣形を立て直し、敵を待ち受けなさいませ」と言い残すと、自分の手勢を引き連れて敵に立ち向かって行ったのだそうです。
「ローレンスの手勢は精々二百。しかし伯爵は勇敢に戦い、一万の敵を何度も押し返したのだ」
その間に国王陛下や将軍達は軍の動揺を鎮め、整然と撤退し狭隘路を抜けました。そしてようやく夫の殿軍を突破して追撃してきた敵を逆に待ち受けてこれを壊滅させる事に成功し、大勝利したという事なのでした。
国王陛下は涙ながらに仰いました。
「殿軍を引き受けたのがローレンスでなければ、敵を食い止められなかっただろう。伯爵は私の命の恩人。この戦いの真の英雄だ!」
なんでも夫は、これまでも戦いの度にいつも厳しい局面で難しい任務に立候補していたのだそうで、国王陛下は随分と信頼なさっていたのだそうです。だから夫が殿軍で敵を食い止める事が信じられたのだということでした。
「政治でも私を助けて欲しいと言ったのだが『家族と領地を大事にしたい』と断られていたのだ。そのローレンスを夫人の元に帰せなくて、本当にすまぬ事をした……」
陛下は泣きながらそう仰いました。私は全然知りませんでしたが、夫は国王陛下からちゃんとご信任を得ていたのです。
陛下は夫に勲章を授け、伯爵領に大幅な加増を(今回の敵国からは大幅に領土を奪う予定とのこと)約束して下さいました。葬儀にもご参列下さると仰せでしたけど、もう日程も決まっていますし、陛下も戦後処理でお忙しいでしょうからと辞退して、名代の派遣で済ませて頂く事にしました。これだって大変に名誉な事です。
その日以来、次々と戦いに出征なさった将軍の皆様が屋敷にいらっしゃいまして、夫の遺体に丁重に礼をして下さいました。私にもしきりに感謝の言葉と、夫を無事に帰せなかった事の謝罪をなさって下さいましたよ。
……なんとも、不思議な気分でしたね。あんなにのんびりして穏やかだった夫が、戦場では随分と皆様から頼りにされる勇将だったというのですから。私の前ではそんな素振りは一つもなかったのです。
そういえば息子に剣の手解きをしたり軍略の基礎を学ばせる時は夫が手ずから教授していましたね。でもその時もスパルタとは縁遠い優しい指導で、見守っていた私の方がもう少し厳しく教えても良いのではないかと思うほどだったのですよ。
夫が率いた手勢も一度王都に帰還しましたので、出征手当を払って労を労う必要がありました。二百人出征した手勢ですが百五十人になっていました。厳しい戦いだったのに一人の逃亡者もいなかったようです。
私は領民代表の者達を労って手当を(国王陛下からの慰労金も頂いたので予定より多めです)渡し、戦死者の弔い金を預けようとしました。
しかし領民の代表者達は言いました。
「閣下がお亡くなりになったのにこのような物を頂くわけにはまいりません!」
なんでも夫は領民を守って最前線で戦い続け、領民達が後退するように言っても決して聞かなかったのだそうです。
そもそも方々で領主による苛政も聞く中、公平で穏やかな大変良い領主だったそうです。ですから領民は夫を大変慕っていまして、戦いの時は夫のために懸命に戦ってくれていたようですね。
私は泣く彼らを宥め、どうにか手当と弔い金を受け取らせ、引き続き私と息子の為に尽くしてくれるように頼んで領地に帰らせましたよ。あれほど慕ってくれる領民では私も息子も大事にしないわけにはいきますまい。貴族の領主など恐れられるくらいで丁度良いと言われていますのにね。
どうやら私の知らない夫の一面が随分あったようです。まぁ、亡くなってみたら愛人と私生児が雨後の筍のようにポコポコ湧いて出たとか、物凄い借金が隠れていたとかいう話も聞きますしね。そういう隠された話でなくてホッとしたのは確かですよ。
少し落ち着いた時間に、私は夫の遺体が安置してある屋敷の礼拝堂に向かいました。国王陛下から勲章が送られて来ましたので夫の胸に着けてあげようと思ったのです。こんな物を私が持っていても意味はありませんからね。夫と一緒に埋葬するのが良いでしょう。
大きなマホガニーの棺の中、礼服を着た夫が横たわっています。花が沢山供えられていますね。花粉症の夫でしたけど、死んだらくしゃみが出ることもないでしょうから良いのではないでしょうか。
呑気に寝ているようにも見えるその顔を見ていると、なんだか無性に腹が立ってきます。
そりゃ、本人は英雄と称えられて見事な死を賞賛されて、亡くなった事を惜しまれて栄誉に包まれて満足かもしれませんけどね。残された未亡人の私と息子は大変なんですよ。領地の加増だって夫がいればこそであって、私では見知らぬ新たな領地なんてとても治めきれません。
正直、これからどうしたら良いか私は途方に暮れているんですよ。どうしてくれるのですか! 呑気に死んでいる場合ではありませんよ。
……そんな事を今更言ってもせんなき事です。私はため息を吐きました。どうも夫が死んでからため息がやたらと出るのですよ。
私は気を取り直して勲章を手に取ると、夫の右胸に着けようとしました。赤い礼服。その胸の上には夫の大きな両手があって、右手は不自然に握りしめられています。
勲章を着けるのに邪魔なので、私は動かせないかと夫の手に触れました。本来は手袋をさせるのですが、握りしめられているので手袋は上に乗っているだけです。触ると、ひんやりしました。
すると不意に、固く握りしめられていた夫の右手が、スルッと緩んで開いたのです。私は驚きましたよ。生き返ったのかと思いました。しかし。硬直しながら見守ってもそれ以上の変化はありません。
開いた夫の右手から、何かがこぼれ落ちて夫の胸の上に落ちました。銀色の、丸い何かです。私は恐る恐るそれを見つめ、驚きました。私はそれを知っています。
「……あなた、あなたという人は……」
それはペンダントでした。銀で出来た丸いペンダント。
細工物で、開くと中に、私と赤子の頃の息子の小さな肖像画と、私の髪の毛が一房入っている筈です。
……私が作らせたものです。もう十年も前、夫が結婚後に、最初に出征する時に夫が「お守りに欲しい」とせがんだのです。
私はそんなものは必要ないと嫌がったのですが。夫が「心の弱い私の助けになるから」と言うので仕方なく作らせたのです。その後、私は一度も目にしていませんでしたから、すっかり存在を忘れてたものです。
……夫は今際の際にこれを握りしめて亡くなった、という事なのでしょう。そして死んでも、ずっと今の今まで大事に握って離さなかったらしいのです。
……馬鹿なのではないですか!
こんな物を出して掴んでいる暇があったら、刺さった矢を抜くなり、傷口を手で押さえるなり、他にやるべきことがあったのではないですか! どうしてこんなどうでも良いものを手に取ったりしたのですか!
そうすれば、もしかしたら、もしかしたら……。
「本当に、あなたという人は……」
私は冷たい夫の手をギュッと掴んだまま、俯いてしまい。しばらく顔が上げられなかったのでした。
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