河川敷サニーデイズ
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受験を終え、もう残り少なくなった高校からの帰り道、俺たちはすっかり人通りの減った夕暮れの並木道を手を繋いで歩いていた。思えば、こうして帰るのは初めてのことだ。手を握りながら、ふと思う。幻想的な彼女の手の静かな温もりを、俺はどこかで知っている、と。
あの日は、夜も更けていた。ましてや彼女がうつむいていたというのもあり、あまり顔は覚えていない。——そうだ、あれは中学3年の冬、散歩に出かけて以来帰って来ないにゃん吉を探しに出かけた時、泣き腫らして目元を真っ赤に染めた女の子が青のベンチに腰かけながら、にゃん吉をぎゅっと抱いていたのだ。
あの後、高校に進学した俺は浮かれきって最初の1年は理玖たちと遊び呆けていたからそれ以前の記憶が薄い。あの時は、毎日が楽しくて最高に充実していた。将来は素晴らしい可能性に満ちていて、何にでもなれると信じていた。それは、今も変わらないけれど。
隣に歩く少女の揺れる肩に、繋いだ指の触れる感覚。それを悟られないように確かめながら、俺は忘れてしまっていた大切な過去に想いを巡らせることにした。
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「おーい、にゃん吉〜〜?どこに行ったんだ〜〜?出てきてくれ〜!にゃん吉〜〜!どこだ〜〜?」
んにゃあ……。ごろごろごろごろ…………。
この声は、きっとにゃん吉のそれに違いない。そう思うと、たまらなくなって音のした方向、すなわち遊歩道の先、賀茂川デルタの流れの上の方へ向けて僕は一目散に駆けていった。と、街頭の薄明かりに照らされて、三角の影がふたつと丸い背中、揺れるしっぽの輪郭と、どうやら少女らしき人影が目に映った。もしかして、にゃん吉といっしょにいるのだろうか?
近づくにつれて、その少女の姿が鮮明になっていく。彼女は、襟付きのブラウスにノースリーブのワンピース、そのうえにジャケットを羽織っていた。さっきまで走っていたからだろうか。自分の動悸と息切れも相まって、彼女はひどく取り乱しているように見えた。寒いためか、それとも訳があるのかは分からないけれど、彼女の肩はひどく震えていて。——放っておくわけにもいかず、僕は、声をかけてみることにした。
「その子、あったかいでしょ?にゃん吉、って言うんだよ」
見れば、にゃん吉も随分心地良さそうにくつろいでいる。初対面のはずだけど、これほど懐くのは珍しい。目を細めてゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らすにゃん吉は、こちらに気がついていないようだった。
「ごめんなさい、勝手に……。この子はあなたの家の子?」
谷間に咲く百合の花を思わせる少女は、どこか消え入りそうで、それでいて僕の胸にいつまでも残り続けるほどに凛としていた。彼女は、美しい微笑を湛えながらこちらを向いて首を傾げている。
「そうだよ、この辺はにゃん吉のお散歩コースなんだ。でも夜なのに帰って来ないから、心配してたんだ」
「そっか、ううん。見つかって良かったわね」
彼女はにゃん吉の背を撫でては彼の顎を掻いてと、よほど珍しいのか、感触を楽しんでいるようだった。
「お姉ちゃんは、ここで何していたの?」
「そうね、私もお散歩していたの。気分転換にね」
対岸に浮かぶ月に目をやりながら、そう呟く。
「そうなんだ、でも女の子が夜中にひとりなんて危ないよ。お姉ちゃん可愛いもの」
「心配してくれるの?——ふふ、ありがと。————それと、私可愛くなんてないわ」
いたずらっぽく、艶やかな声でそう言い放った。
「そっか」
こういう時、なんて返事すれば良いのかな。
「気分転換って、お姉ちゃんは何かあったの?」
「キミは?」
「はぐらかさないでよ」
「だって、答えたくないんだもん」
「可愛くないなあ!」
「だから、そう言ったでしょ?」
「————」
なんだか、猫じゃらしか何かで遊ばれている気分だ。
「僕で良かったら、相談に乗らせてよ」
彼女は、伏し目がちに口を開けて何事か口にする。彼女からすれば、見ず知らずの相手だ。きっと、断るつもりなのだろう。だから僕は、その前に言葉を続けた。
「だって、誰にも話さないよりも、話した方が気が楽になるじゃない?僕なんかに話してもどうにもならないかもしれないけど、できることならなんでも力になるよ」
彼女は、ためらいがちに唇を開いて————。
「ありがとう。……じゃあ、話してみようかな」
……実はね、私————。そう言って、彼女は重たい口を開いて話し始めた。
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なるほど、プライベートな色恋沙汰を他人に話してもどうにもならないというのは妥当な判断だと思った。
「ありがとう、話してくれて」
「ね、どうしようもないでしょ?」
いつしか繋いでいた手を少しだけ固くしていた彼女は、喉元につかえていたであろう息を細長く漏らした。けれど、なんて幸運なのだろうか。その一途というか、猪突猛進を絵に描いたような男には心あたりがある。
「もしかして、その男の子って川崎龍也って子じゃないかな?——それに、女の子は加藤陽菜さんだよね」
少女は、心臓が飛び出るんじゃないかという様子で大きく息を吸い込むと、目を見開いて
「……どうして、彼女の名前を!いえ、彼の名前も」
と、驚いた様子で訊ねた。
「2人とも、学校は違うけれど昔からの友だちなんだ。龍也は、いつも無鉄砲っていうかさ。でも、本当は悪い奴じゃないんだ。僕が謝るのも変だけど、迷惑かけてごめんね。陽菜にも、迷惑かけないように言っておくからさ。その高校、っていうのもきっとなんとかなるよ」
「どうして、そこまでしてくれるの?」
彼女が目をテンにして、そう訊ねる。
「——————、あえて言うなら……、うちのにゃん吉を見つけてくれたお礼かな。もし、その男の子が赤の他人だったらきっと何もできなかったかもしれないよ?」
「ほんとに、なんてお礼を言えば良いのかしら」
彼女にはあまり似つかわしくなく思えるその言葉に、
「いらないよ、お礼なんて」
僕は、笑ってそう言った。だって、君の笑顔がいちばんのお礼なんだから。なんて伝えるのもなんだか恥ずかしかったので、その言葉は胸の内側にそっとしまっておくことにした。ああ……、笑うとなんて綺麗なんだろう。
「また、いつかきっと会いましょう?」
「うん、そうだね。きっと、また遠くないうちに会えるよ。じゃあ、またどこかで会えると良いね」
そう言って、繋いでいた手をそっとほどくと僕はにゃん吉を肩に乗せて元来た道へと体を向ける。と、
「ちょっと、待って?」
「ん、何かあるの?」
彼女は少しだけ目を伏せて、
「私たち、まだ名乗っていないわ」
オロオロとした様子で、たどたどしくもそう口にした。
「そういえばそうだったね」
そんな姿さえ、僕の目には可愛らしく映った。
「私、渡辺凛花って言うの。あなたは?」
「僕?僕の名前は————」
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「俺の名前は、中島晴翔、だけど、君はもしかしてあの時の……?」
彼女はようやくこちらを振り向いて、
「そ、ようやく思い出してくれた?」
そう、小悪魔のように口元に手を当てて、悪戯っぽく微笑みながら言うのだった。けれど、その頬には1滴の滴が伝っていて。——その目元は、反射する夕陽によってほんのりと染められていて。それは、永遠にも思える瞬間だった。そして色香を残すように、またくるりと妖艶に顔を背けた彼女は、いつしか通りの先へ目をやっていた。
河川敷のベンチを通りかかった俺たちは、示し合わせることなく、流れるままに、そこに腰を降ろして2人で横にならんだ。そうして彼女が落ち着きを取り戻すまで、手を繋ぎ、言葉を交わすことなく互いに体を寄せ合っていた。2人には、もはや言葉は必要のないもののように思えた。
その姿を、穏やかな夜空に浮かんだ蜜柑色の月だけが、雲の茂みをかきわけて見つめているのだった。一瞬、琥珀色の視線を感じたような気もしたけれど、きっと、気のせいだったに違いない。その時、どこからか「にゃあ」と猫の鳴く声が聞こえた気がして、俺たちは、日が見えなくなってからもしばらくの間、誰かの瞳にそっくりなお月様をずっと、ずっと眺めていた。




