渡辺凛花との出会いと馴れ初め
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実を言うと、ほんの刹那の関係ではあったけれど、俺には彼女がいたことがある。カノジョというよりもガールフレンドと言った方がしっくりくる。
子どもらしい苛烈さと実直さとによって、彼女との関係は壊れかける寸前の所で支えられていた。彼女は寡黙で、たとえば休日の予定だとか、お互いの好きな所だとか、なぜかあまり話してはくれなかった。警戒心の強く、気まぐれで「ごろにゃ〜ん」と近づいてくる美しい野良猫に思えた。彼女の姿は、自分の目にはいつもどこか所在なさげに映った。
——学生の恋愛とは、いつだって荒削りなもので、ピースの欠けたパズル本体のようなものだ。一般的な恋愛とは異なり俺たちの場合は、周辺でなくて中心のピースがぽっかりと大きく欠けていただけに過ぎない。たしかに彼女は美しかったが、話している時の表情も反応も単調で、何を考えているかよく分からないこともあった。男の子はいつだって、女の子のことを隅々まで知りたい生き物なのだ。だから、あたりまえに心細くもなった。そうしているうちに、いつだったからか自分を、自分たちの現在地を見失ってしまっていたらしい。
そんな彼女だからこそ、時折り見せる笑顔が雲間から覗く太陽のようで何よりも好きだったけれど、それでも言葉にならないもどかしさはたしかにそこにあって——。
——それは彼女に対してだったのか、果たして自分自身に対してだったのか、今となっては確かめる術もなく。こうして物想いに耽ることも次第に多くなっていったのである。
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彼女の名前は渡辺凛花。初めての彼女で、彼女も初めての彼氏だと話してくれたのが、面映くもあり、それでもやっぱりなんだか嬉しかった。彼女との出会いは、そうした話とは裏腹に、思い返すと吹き出してしまうような愉快なものだった。思い返してみると、友の偉大さが身に沁みて感じられる。
おそらく、彼女ときちんと話をしたのは高校3年生も終わりに差しかかったくらいの、少し肌寒い冬の頃だったと記憶している。その日、俺は借りた本を返しに友だちの理玖と放課後の図書室に来ていたのだった。彼は佐藤理玖といって、小さい頃から付き合っている幼馴染だ。
「この本、返却お願いできますか?」
リュックサックから2冊の本を取り出すと、そう言ってバーコードを見せながらカウンターに本をならべた。1冊はライトノベル、もう1冊は大学受験用の赤本だった。目の前に座っている図書委員の男の子は雰囲気的に後輩、つまり1年生のように思われた。うちの学校は上履きの色で学年が分かるようになっていたが、カウンターを挟んでいたので死角になっていた。こう見えて俺は臆病な所がある。人と会う時、その人間が信頼に値するか、怖くないか考えてしまうのだ。彼は大丈夫そうだ。目をぱっちりと開けて光が宿っており、純粋そうで良い子に見える。
「はい!図書カードはお持ちですか?」
彼は元気に短くそう返事すると、続けざまにそう言った。図書カードならたしか朝、家を出る前にポケットに仕舞おうと思って玄関に置いたはずだが、もしかすると忘れたか?そう思ってポケットを調べると、そこには薄い布の感触だけがあった。
「あ……」
となると、図書カードは家の玄関に置きっぱなしだということになる。返却期限までは、たしかまだ何日かあったはずだ。手間はかかるが、明日にするしかないみたいだ。
「晴翔?どうかした〜?」
すぐそばの漫画コーナーでストーブで温まりながら『ジャンピ』の「ツーピース」を読んでいた理玖が様子を察したのか俺の方を振り返ってそう訊ねる。実に柔らかく、丸みを帯びた優しい声である。
「悪ィ、図書カード忘れたみてえだわ」
そう、頭をかきなから応えると、理玖は目を丸くしたかと思うとくしゃっと笑って、
「そっか、じゃあまた明日だな」
と、続けた。理玖はバスケ部に入っているだけあって、快活でさっぱりしている。誰にでも分け隔てなく親切で、顔は良くも悪くもない普通の男だが、特に後輩の女子には一定層からの人気があるそうだ。今も、チラホラと遠くから視線を感じる。でも、まあいつものことだ。とはいえ、どういうわけか彼には恋人がいない。俺に気を使っているのだとすれば、どうぞ気にせず自分の幸せを見つけてほしい所ではある。
「ああ、そうするか」
その言葉に、なぜかありがたく思いながらも彼に返事する。幼稚園に上がるよりも前から親しくしている理玖は、どんな時だってこうして付き合ってくれる。高校でこそ俺は部活に入らなかったものの、小中の頃は理玖と同じサッカークラブで川崎龍也というやけに無鉄砲な奴と3人で大会で無双したものだ。図書委員の男の子にひとこと謝ると、理玖と2人、踵を返して図書室の扉へと来た道を戻っていった。
中学3年の秋の終わり頃、龍也とはちょっとしたことで口喧嘩になり、それ以降は俺はサッカーから身を置くことになった。体を動かすのは好きだったが別に未練はなかった。そんな俺に、陽気な龍也らしくも、彼は翌日からはケロッとした様子でふだん通りには話しかけてきた。今となれば、少し無理をさせていたのだろうと分かる。あの時は陽菜、サッカークラブのマネージャーのような存在だった子が龍也と仲が良かったはずだ。彼女が何か口添えしてくれたのだろう。その後、彼とは別々の高校に進学したけれど、龍也は向こうでもプロを目指して活躍しているのだそうだ。大会でも成績を残して注目の的だと、嬉しそうに陽菜が話してくれた。龍也は自分からそういう話はしない奴だった。
そうして扉付近に近づいた頃、右手の書架の奥の方にある勉強机のあたりに視線が吸い寄せられ釘付けになる。絹の糸のように美しい漆黒の髪、アルビノの白鳥を思わせる透明な首筋、そして触れるだけで壊れてしまいそうな細い肩。かの少女が視界に入った途端、稲妻にでも打たれたかと錯覚するほどの衝撃が身体を襲った。図書室の隅でひとり机に向かう彼女は雪山に凛と咲いている一輪の花のようで、図らずも俺の身体は微動だにしなくなっていた。
「……と?……は、と??」
黒く、腰にかかろうかというほどのつややかな長髪が彼女の肩越しに参考書の隅にかかるのを、彼女はすらりと伸びた細い指でそっと除ける。その様子は、決して見てはいけないプライベートなものを意図せず覗き見てしまったかのように、背徳的で、どこか扇状的にも思えた。
「お〜い、晴翔?そっちに何かあるのか?」
「っわぁあッ!」
急に視界に割り込んできた理玖に、驚きのあまり思いがけず叫んでしまう。だが、身体も、視線も、依然として黒髪の美少女に固定されたままで。そうなると……、
「何かしら?————、あなたは……」
自然な流れとして、こうなる。ああ、それにしても鈴のように綺麗な声だ。どうしよう、またしても緊張の波が押し寄せてくる。
「コッ、ココココッッ!!!!」
図書室にちらほらいた生徒たちが、ひとりは吹き出し、またひとりは怪訝そうに様子を伺いと、大勢の生徒達がこちらを注視している。さながら、舞台のうえにでも立たされている時のような浮遊感だけがある。
「なんだよ、晴翔!まさか『そういう』ことか〜?」
悪戯っぽく微笑みながらこちらを見る理玖に、俺は涙ながらも懸命に視線で助けを求めた。なにしろ、こちらは緊張のあまり声が出せないのだ。なんとかしてくれ、理玖!お前のマックドゥで培ったそのスマイルはこういう時のためにこそあるんだ!!
理玖は白い歯を見せて「グッ」とサムズアップする。……おい、待て?
「……コロン」
何を思ったのか、そう言いながら俺のお尻の先へ向かってそれはもう美しいでんぐり返りを決めた。
「……って、なんでやねん!!」
いけない、変な関西弁が出てしまった。
「へ?鶏のモノマネしてたんじゃないの?」
バタッと起き上がると、目をキラキラさせた理玖が、胸の前で組んだ両指をくねくねと乙女のように動かしながらステップを踏むように詰め寄ってきた。
「ちげえ!」
驚いて両目を見開かせながらそう突っ込んだ。
「え〜!!」
理玖は頬をぷくっと膨らませ、こちらの様子を薄目で窺いながらあっちの方角を向いて拗ねていた。こ…、こいつまさか本気だったのか……!?!?ふだんは爽やかな理玖だが、時々、こういう暴挙に出ることがあるから油断ならない。でも、そういう所が彼の持ち味で好きな所ではあった。
「……、ぷっ」
「「へ?」」
予想外の反応に理玖と俺の声が偶然ハモる。
「ふふっ、あはははは」
一瞬、静寂に満たされた教室に彼女の笑い声が響いた。俺たちは目を丸くして顔を見合わせる。理玖はなんだか面白い顔をしていた。したり顔、というやつだ。け、やかましい奴め。うまく言葉にならないが、なぜだか胸の裏を掻きたくなるような焦燥感を覚えた。
「ごめんなさい、笑ってしまって。でも、あなたたちがとてもおかしなことをするものだから」
そう言って、少女は微笑む。と、
「やったな、晴翔」
ピースサインをする理玖がニカっと笑みを浮かべながら勝利宣言した。俺は、ほっとして胸をなでおろす。————まったく、こいつってやつは。
「それで、あなたかしら?私に用があるのは」
こうなると、もう誤魔化すのは野暮というものだ。もうすでに注目の的になっている。素直に打ち明けてダメなら、考えたくはないけど、あとで美味しいものでも食べて、にゃん吉の大きな胸でも借りればいい。
「……あの、俺、つい君に見とれてしまって。良かったら俺たちと一緒に帰りませんか?」
ふふ、と少女がおしとやかに笑うと、
「——ええ、もちろん。晴翔くん」
と、美しい唇で言葉を紡いだ。が、最後の言葉はうまく聞き取れなかった。名前を呼ばれた気もしたけれど、俺たちのやりとりに周囲が騒がしくなっていたから、聞き間違いでもしたに違いない。
さておき、まさかこんなにも早くお話しができるなんて思ってもみなかった。絶対断られると思ったのに!いやいや、待て待て待て。おかしくないか?いや待て、おかしくなんてないはずだ。大丈夫、落ち着け俺。せっかくそう言ってくれているのだから、乗らないというのは男が廃るというものじゃないか。あんまりはしゃぎ過ぎないようにしよう。ひょっとすると、ガッカリされるかもしれないぞ?
「でも……、」
言いづらそうに、少女は一拍置いて口の端を上げて
「……?」
いったい、何なのだろう?
「ご友人、とっくの前に帰られましたよ?」
「——へ?」
無慈悲にも、衝撃の事実を告げるのだった。
前回の投稿から数日空いてしまいましたが、さて彼はこれからどうなるんでしょうか。。。ぜひ、お楽しみに!




