にゃん吉との幸せな一日
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「(不思議だ、現実味がないんだ。どこだ、ここは?輪郭が溶けて、木々も水面も何もかもが朧げだ)」
そこには、光があった。視界は「白」でいっぱいに満たされていたのだ。そんな世界はないと分かっているような、そうでないような。重たい頭では思考がその実を結ぼうとしないのだ。もどかしくはなかった。ただあるがままに、それはそこにあった。陽の光はあったが眩しいというほどではなかった。脳裏に春の匂いがすべりこんでくるような不思議な感じがする。
自分は、どうやら川沿いのベンチに腰掛けているらしかった。時折、透明なもやのようなものが行き交っていたが、そのもや越しには緑の木々、流れる川、両岸を架ける橋、そして遠くに青い山々が視えた。
ふと、呼ばれたような気がして遊歩道の先を見やる。そう遠くはない所に影が見えたので目を凝らすと、見覚えのある影が景色を縁取っていた。
「————、——、——————」
と、影は短く何事か呟いたようだった。
直観的にそれは少女の影だというふうに気がつくと、それはすぐに霞のような細かい粒子となった。そして、一瞬淡く光ったかと思うとたちまち淡い水色の空へと解けて消えていった。それは幻想的で、どこか夢心地の感だった。全身は淡くそして甘くしびれていた。
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「……いやだ、やめてくれ」
————違和感、そう違和感だ。何かがおかしい。
「どうして、そんなに突然……」
ぼやけて、霞んでいた思考が次第にクリアになっていく。————そうだ、俺は今。
視界に薄明かりが入り込む。少しだけ眩しい。そろそろ起きないといけない。
「ふぁ〜っ、……んあ?」
「んにゃ?」
砂のように重たい頭を覚醒させるべくあくびをすると、俺が身じろぎしたのに反応して、にゃん吉が顔をあげる。外はすっかり陽が傾いて、もう夜になろうかという頃合いだった。春の陽気が息を潜めたかのように、あたりは少しだけ肌寒くなっていた。先ほどまで何か考えていたようだけれど、思い出そうとすると頭が痛くなる。こんなことはよくある。俺は考えることを放棄した。そういえば、
「今日は…、大学休みだったっけか?」
時々、こうして寝落ちすると大学に寝坊することがある。講義の隙間に家に帰ることもあり、そういう時は尚更危ないのだ。俺は縁側に敷かれた座布団の底にしまっておいた携帯電話を取り出すと、日付と日時を確認する。18時23分。晩御飯を食べる頃だ。念のため日付も確認すると、4月7日だった。アルバイトの勤務形態から俺は不定休だったから日付と曜日を確認したのにはそれほど意味がなく、単に習慣に過ぎなかった。ともあれ、今日は月曜日で講義もアルバイトもないというのは朗報だ。もっとも、心の奥ではなんとなくそんな気はしていた。そうでなければ、優雅に昼寝なんてするはずもない。よほど眠たくない限りだが。
そんなことより、今は大事なことがある。
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「そうだよなあ、にゃん吉〜」
俺は、カツオ節のこんもり乗せられたカリカリを頬張っている、まん丸な愛猫に向かってそう呟いた。
「んにゃ、にゃっにゃっ」
カリカリに夢中で何も聞こえていないらしい。にゃん吉は猫用の丸いエサ皿に顔を突っ込んで、すっかり食事に耽っていた。無我夢中という言葉が似合っている。
「俺も飯でも食うとするか」
俺は、季節外れにもコタツに足を突っ込むとばあちゃんの用意してくれた夕飯をかき込む。やっぱりばあちゃんの焼き魚は最高だ。小さい頃は鼻をつくようなあの香りと小骨の刺さる感覚が苦手だったけれど、大人になるとパリッと焼けた皮に脂の乗ったアジの身が体に染み渡る。
「にゃん吉もアジ食べるか?」
早々に食事を終えて毛づくろいにいそしんでいるにゃん吉に向けてそう訊ねると、こちらに駆け寄ってきたにゃん吉にひとかけら分けてやる。にゃん吉は口の端を上げて「んにゃっ、んにゃっ」と歓喜の声をあげながら、それはもう美味しそうにほおばっていた。
こうしてにゃん吉の幸せそうな姿を見ているとどんなことだって忘れられるから不思議だ。どれだけ気がかりな出来事があったとしても、こうしてお互いに信頼し合える存在がいるだけで気が楽になる。それは、美味しいものを食べたり、誰かと気晴らしをするだけでは満たされない類の、ある種の幸福だった。と同時に、大切に思う恋人との感情的な交流によって得られる幸福に代わるものでもなかったが、充分だった。
何せ、あれから2年にもなる。彼女との再会から数えれば3年ほど、記憶は曖昧だが出会いから数えれば6年ほどだ。寡黙な彼女はどこか秘密主義で、いつだって自由気ままで。あまり多くは話してくれなかった。これから語るのは、そんな彼女の話だ。




