孤立していた私ですが、お菓子に釣られた貴公子が友達になってくれるらしいです
談話室には、午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。高い天井から吊るされたシャンデリアが光を受けて鈍く輝き、磨き上げられた木製のテーブルや椅子に穏やかな影を落としている。この時間帯は人影もまばらで、部屋全体が静寂に包まれていた。
その一角に、ビアンカ・ディ・ルチェリアは座っていた。彼女は長い薄紫色の髪を肩にかけ、青灰色の瞳を伏せたまま、小さな包みを膝の上に置いている。その佇まいは美しい肖像画のようで、周囲の静けさをより際立たせていた。
ビアンカの誰もが振り返るほど妖艶な容姿をしている。透き通るような肌、波打つたっぷりとした髪、そして気位の高い猫を思わせる目元。
彼女は膝に置いた包みをぎゅっと握りしめ、静かに息を吐いた。誰もいない談話室はあまりにも広く、寂しさが胸を締め付けるようだった。
「おや、君がここにいるなんて珍しいね」
軽やかな声が突然響き、ビアンカは驚いて顔を上げた。
声の主は、ルシアン・ド・ベルモンだった。男女ともに友人が多い彼と話したことは一度もない。ビアンカにとっては眩しい存在だ。
くすんだ金髪が光を受けて優しく輝き、貴族らしい品のある微笑みを浮かべている。その姿はまるで物語に出てくる貴公子そのものだった。
彼は肩を軽くすくめ、自然な動作でビアンカの向かいの席に座った。彼の柔らかな表情には親しみやすさがあり、同時に、どこか軽やかで掴みどころのない雰囲気を纏っていた。
ビアンカは戸惑いながら彼を見た。その青灰色の瞳が不安げに揺れるのを見て、ルシアンは少しだけ微笑んだ。
「それ、その包みは何? お菓子かな?」
彼は膝の上の包みを指さした。その目は興味深げで、少しだけ茶目っ気を感じさせる。
「あ、これは…」
ビアンカは少し顔を赤らめながら答えた。
「…私が作ったものです」
「君が?」
ルシアンは片眉を上げ、意外そうな声を上げた。
「見た目からして、てっきり一流の菓子職人が作ったものかと思ったよ」
「そんなことはありません。ただの素朴なクッキーです」
ビアンカは静かにそう言いながら、包みを開いた。焼き上がったクッキーの甘い香りが広がり、談話室の空気を柔らかく包み込んだ。
「ほう、香りも見た目も完璧じゃないか」
ルシアンは笑みを浮かべながら、包みの中から一つ摘まんだ。
「試してみてもいい?」
「どうぞ」
ビアンカは少し緊張した様子で答えた。
ルシアンはクッキーを口に運び、サクッとした音を立てて噛んだ。ゆっくりと味わうように咀嚼し、ほんの少し目を細めた。
「…なるほど、これは美味しい。いや、君が思っている以上に美味しいぞ」
その一言に、ビアンカの青灰色の瞳がわずかに輝いた。
「君みたいな冷たい薔薇がこんな家庭的なものを作るなんて、ちょっとした衝撃だな」
ルシアンは肩をすくめながら冗談めかして言った。
「冷たい薔薇…ですか?」
ビアンカは呟くように繰り返した。
「ああ、君の噂だよ。君の美しさに圧倒されて、誰も近寄らないだけだ。実際、こうして話してみると、君は案外危なっかしいな
「危なっかしい…?」
ビアンカはきょとんとした表情で尋ねた。
「そうさ。君は警戒心が薄すぎる。こんな俺に焼き菓子を分けるなんて、どうかしてるだろう?」
彼は笑いながら言ったが、その目にはどこか本気の心配が混じっていた。その琥珀色の瞳に見つめられ、ビアンカは戸惑いながらも微かに笑った。
「また作ってくれる?」
彼の突然の問いかけに、ビアンカは驚き、少しだけ頬を赤らめながら小さく頷いた。
「じゃあ決まりだ。放課後、ここで話すのはどうだ?お菓子友だちだね」
「…友だち!本当ですか?」
その言葉に、ビアンカの顔が少しだけ明るくなった。
ビアンカの胸には、ささやかな夢があった。この談話室で誰かとお菓子を分け合い、笑い合うこと。
「ああ、もちろん」
ルシアンは立ち上がり、微笑みながらウィンクをした。
「じゃあまた明日。次はもっと甘いやつを期待してる」
彼が立ち去る背中を見送りながら、ビアンカは包みを抱きしめ、小さく息を吐いた。胸の中に、小さな光が灯るのを感じた。
談話室は夕暮れの柔らかな光に包まれていた。大きな窓から差し込む陽光が床に長い影を描き、部屋全体を温かく染めている。木製のテーブルには磨き上げられた光沢があり、シャンデリアが反射する光を穏やかに散らしていた。
ビアンカは窓際の席に座り、小さな包みを手にしていた。昨日のルシアンとの会話を思い出しながら、その包みをそっと膝の上で整える。
「おや、君が先に来ていたんだね。急いだつもりだったんだが、待たせてしまったかな?」
軽やかな声が談話室の静けさを破った。振り向くと、琥珀色の瞳を持つルシアンが扉のところに立っていた。彼のくすんだ金髪が光を受けて柔らかく揺れ、肩にかかるコートを無造作に片手で持っている。
「ルシアンさん」
ビアンカは微かに微笑みながら彼を迎えた。
「約束の甘いもの、ちゃんと持ってきてくれたのか?」
ルシアンは軽やかに歩み寄り、彼女の向かいの席に座った。彼の飄々とした笑みは、いつものように余裕に満ちているが、その目にはどこか興味深げな光が宿っていた。
「はい、母に教わったレシピで焼きました。まだ上手くできているか分かりませんが…」
ビアンカは膝の上の包みをそっとテーブルの上に置き、リボンを解いた。中から現れたのは、ほんのりと焼き色がついたマドレーヌ。甘い香りが部屋に広がり、ルシアンは眉を上げた。
「へえ、これはいいな。香りだけで既に店のものを超えてるぞ」
彼は一つを手に取り、焼き菓子を口に運んだ。サクッとした表面の食感の後に、ふわりとした甘さが広がり、彼の琥珀色の瞳がわずかに柔らかくなった。
「…うん、これなら誰に出しても恥ずかしくないな」
彼は軽く頷き、微笑みを浮かべた。
「本当ですか? 良かった…」
ビアンカの顔がぱっと明るくなり、頬がほんのりと赤らんだ。彼女は緊張が解けたように小さく息を吐き、その表情には無邪気な喜びが溢れていた。
その瞬間、ルシアンは思わず視線を止めた。ビアンカの笑顔は、彼が知っているどんな美しさとも異なっていた。控えめで、無垢で、そして危ういほどに魅力的だった。
「君、その笑顔は危険だね」
彼は軽い口調で言ったが、その言葉にはどこか本気の響きが混じっていた。
「危険…ですか?」
ビアンカは不思議そうに首を傾げた。
「ああ。君がそんな風に笑えば、誰だって君を特別だと思ってしまう」
彼の冗談交じりの言葉に、ビアンカは戸惑いながらも小さく笑った。
「でも、私はただ…友達ができたことが嬉しくて…」
その言葉に、ルシアンは短く息をつき、肩をすくめた。
「君、本当に無防備だな。でも、それが君の良さかもしれない」
「ありがとうございます?」
褒められているのかよく分からず、ビアンカは少しだけ首をかしげて礼を言った。
ルシアンはそんな彼女を見つめながら、もう一つマドレーヌを手に取った。
「こんな甘い時間を提供してくれる友達なんて、そうそういないね。俺は幸せ者だ」
その軽口に、ビアンカは思わず笑みを浮かべた。彼女の笑顔を見て、ルシアンはどこか胸の奥がざわつくのを感じながら、二つ目のマドレーヌを口に運んだ。
夕陽が中庭を柔らかく照らし、噴水からこぼれる水音が静けさを引き立てていた。空を染める茜色が、石畳や花壇の薔薇に温かな輝きを与えている。その一角、ビアンカは刺繍針を動かしながら、一人静かに座っていた。
彼女の膝に広げられた布には、色とりどりの糸で織りなされた繊細な花模様が描かれていた。彼女の細い指が布を扱うたびに、模様は少しずつ形を成し、その様子はまるで魔法のようだった。刺繍の合間、時折吹く風に彼女の薄紫色の髪が揺れ、陽光を受けて銀色に輝いた。
ビアンカの青灰色の瞳は布地に集中している。
そんな彼女のそばに、見慣れない影が近づいた。
「やあ、ビアンカ様。美しい手だね。その手でこんな可愛らしい刺繍をしているなんて、少し意外だな」
低く親しげな声に、ビアンカは顔を上げた。そこには、黒髪の男子生徒が立っていた。彼はどこか馴れ馴れしい笑みを浮かべ、少し芝居がかった仕草で彼女を見下ろしていた。
「ありがとうございます?」
ビアンカは自然に微笑みながら礼を言った。
その無邪気な反応に、男子生徒はさらに笑みを深め、彼女の隣に腰を下ろした。
「こんなところで刺繍なんて、だれか男性と待ち合わせかな?」
「いえ。特に待ち合わせはしておりませんが……」
「君みたいに美しい人がこうして静かに座っているなんて、少し寂しくないか?」
「寂しい…ですか?」
ビアンカは一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「いえ、こうして刺繍をしていると、落ち着くんです」
「でも、一人でいるより誰かと話していた方が楽しいだろう?」
男子生徒は彼女に身を寄せるようにして、馴れ馴れしく話を続けた。
「それは、確かにそうかもしれません」
ビアンカは純粋に頷き、膝の上の刺繍布に目を落とした。頭の中で、学園で初めてできた友人の顔が浮かぶ。
「誰かとお話しできるのは、とても嬉しいことです」
その言葉に、男子生徒は目を輝かせた。
「じゃあ、君のその気持ちを満たすために、僕が君の話し相手になろうか? それだけじゃなく、君の綺麗な手をずっと見つめていたいな」
「手…?」
ビアンカは首を傾げた。
「刺繍はまだ完成していませんが……」
彼女のその純粋な答えに、男子生徒は微かに眉を上げたが、すぐに笑いを浮かべた。
「いや、完成していなくても十分美しいよ。君も、君の刺繍もね」
「…ありがとうございます」
ビアンカは、まるでその言葉をそのまま受け止めるように静かに礼を言った。その無防備な反応が、さらに男子生徒を乗せてしまう。
「ねえ、もっと話をしないか? それから、君が作った刺繍や作品を見せてもらえたら嬉しいな。それに――」
その時、不意に別の声が割り込んだ。
「それ以上はやめておけよ」
軽やかで飄々とした声が中庭に響き、男子生徒の言葉を遮った。その声の主は、琥珀色の瞳を持つルシアンだった。彼は薔薇のアーチの向こうからゆったりと歩いてくる。
「ベルモン様……これは僕たちの会話だ。君には関係ないだろう?」
男子生徒が不満そうに言う。
「そうかもしれない。でも、彼女がどう思っているかが大事だろう?」
ルシアンは穏やかな口調でそう言うと、ビアンカの方を振り向いた。
「なあ、君。今の話、楽しかったか?」
その問いに、ビアンカは少し考え込みながら首を傾げた。
「楽しい…というより、少し困ってはしまいましたが…」
ルシアンは短く息を吐いた。そして、再び男子生徒に向き直った。
「聞いただろう? ここまでにしておけ」
「…分かったよ」
男子生徒は何も言えず、肩をすくめて去っていった。
「君、本当に危なっかしいな」
男子生徒がいなくなった後、ルシアンはため息交じりに言った。
「どうしてですか?」
ビアンカは刺繍を膝の上に広げながら、素直に尋ねた。
「君みたいな美人が、そんなに無防備だと誤解される。あの男も、まさにそれだ」
彼の言葉に、ビアンカは少しだけ目を瞬かせた。
「ええと……たぶん彼は刺繍に興味を持ってくださったみたいで……親切に話をしてくれました」
その答えに、ルシアンは短く笑った。
「君、本当に純粋すぎる。それがいいところでもあるけど、それが危ない時もある」
「そうなんですか…」
ビアンカは少しだけ考えるように目を伏せた。
「ま、俺がいる間は心配するなよ。君の友人として、それくらいの役には立つさ」
彼の軽口に、ビアンカは微かに微笑んだ。
「ありがとうございます、ルシアンさん」
ルシアンはその笑顔を見て一瞬だけ言葉を失ったが、すぐにいつもの調子を取り戻し、軽やかに歩き去っていった。
談話室の片隅に、柔らかな光が差し込むテーブルがあった。そこに座るビアンカは、刺繍針を丁寧に動かしながら、布地に鮮やかな薔薇の模様を浮かび上がらせていた。彼女の表情は穏やかで、その場の静けさと調和していた。
「また君か。ここで静かにしてるなんて、君らしいね」
飄々とした声とともに、ルシアン・ド・ベルモンがいつもの軽快な足取りで近づいてきた。琥珀色の瞳が楽しげに彼女を捉えている。彼は椅子を引き、自然な動作で彼女の向かいに座った。
「こんにちは、ルシアンさん」
ビアンカは手元の作業を止め、控えめに微笑みながら彼を見た。
「君は刺繍が好きだね。上手だ」
彼はテーブルの上の刺繍布に視線を落とし、指先でその端をつまみ上げた。布地に縫われた薔薇の模様をじっくりと眺め、感心したように口角を上げる。
「母に教わったものなんです。家族と一緒に過ごしていた頃、よく刺繍や焼き菓子を一緒に作りました」
ビアンカの瞳が懐かしさに揺れ、柔らかな笑みが浮かぶ。その様子を見たルシアンは、少しだけ首を傾げた。
「君の家族ってどんな人たちなんだ?」
「母はとても優しくて、いつも私の話を聞いてくれます。弟はまだ小さくて、やんちゃですけど可愛いんです。時々お菓子をねだられるんですよ」
彼女の声には穏やかな愛情が滲んでいた。ルシアンは肘をテーブルについて頬杖をつき、彼女を観察するような目で見つめた。
「まるで絵本の中の家族みたいだ。そんな温かい家庭が本当に存在するのかって、ちょっと疑いたくなるね」
「噓じゃありません。本当にそうなんです」
ビアンカは少しほほを膨らませて答えた。その笑顔を見たルシアンは、短く息をつきながら視線をそらした。
「嘘なんて思ってないよ。なんというか…君の家は幸せそのものだな。少なくとも、僕の家じゃ考えられない光景だ」
彼の口調にはいつもの軽さがあったが、その奥に微かに寂しさが漂っていた。それに気づいたのか、ビアンカは彼を見つめたまま、何かを言おうとして口を閉じた。
数日後、寮の廊下でビアンカがたくさんの紙束を両腕に抱えるようにして歩いていた。重みで足元がふらつきそうになりながら、何とか階段を上ろうとしている。
「君、それを一人で運ぶつもりか?」
軽やかな声が背後から聞こえた。振り返ると、ルシアンが立っていた。彼は驚いた顔をしてから、口元に笑みを浮かべて近づいてきた。
「そんなに無理してどうするんだよ。ほら、貸せ」
彼は当然のように紙束を彼女から取り上げ、肩に軽々と担いだ。
「ありがとうございます。でも、こんなことまで手伝ってもらうのは申し訳ないです」
「申し訳ないって? 君、僕の手を煩わせるのは光栄なことだと思うべきだよ」
彼はいたずらっぽくウィンクしながら笑った。
「じゃあ、お返しに焼き菓子でも作ってくれないか?」
「また食べたいんですか?」
ビアンカは思わず笑い、彼の顔を見上げた。その控えめな笑顔に、ルシアンの胸が少しだけざわつく。
「当たり前だろう。あの焼き菓子は、僕の寮生活の楽しみの一つになってるんだから」
彼は冗談めかしてそう言うと、軽々と運んで階段を上り始めた。その背中を見つめながら、ビアンカは心の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
図書室の中は、ほとんど物音がしなかった。高い天井に広がるアーチ状の窓から、午後の日差しが差し込み、机や本棚を柔らかな光で包み込んでいる。広々とした空間には規則正しく並んだ本がずらりと並び、静寂の中に紙の匂いが漂っていた。
その一角、窓際の席にビアンカは座っていた。薄紫色の髪が自然光を受けて銀色に輝き、長いまつげの影が青灰色の瞳の下に落ちている。彼女は静かに本を開き、ページをめくっていた。その指先は細くしなやかで、まるでその動作が一つの儀式のように美しく見えた。
その姿に気づいた数人の女子生徒たちが、ひそひそと囁きながら近づいてきた。目立たないようにしているつもりの声が、図書室の静けさの中では妙に大きく響く。
「ビアンカ様が本を読むなんて意外ね」
「勉強なんてしなくてもいいんじゃない? あの顔があれば、誰だって何でもしてくれるんだから」
嫌味が込められた声に、ビアンカは一瞬だけ肩をすくませた。青灰色の瞳が少し揺れ、視線が本から離れて手元へと落ちた。彼女は返す言葉を探したが、その場の空気に押され、何も言えなかった。
彼女の困惑を無視するように、女子生徒たちはさらに言葉を続けようとした。
その時、軽やかな足音が図書室に響き、聞き覚えのある声が静寂を破った。
「おやおや、君たち」
ルシアンが図書室の奥から現れた。彼のくすんだ金髪は午後の光に揺れ、琥珀色の瞳が楽しげに輝いている。その飄々とした笑みは、いつものように余裕に満ちていた。
「こんな静かな場所で大声を出すなんて、図書館のマナーを知らないのか?」
彼の声が空間を満たすと、女子生徒たちは一瞬動きを止めた。視線が彼に向けられる。
「それにしても、彼女のことをそんなふうに言うなんて、君たちは随分と正直だね」
「どういう意味ですか?」
女子生徒の一人が戸惑いながら問いかけると、ルシアンは肩をすくめ、微笑を深めた。
「だって、美しいだけじゃなくて賢いなんて、君たちには羨ましいことだろう?」
その軽やかな一言に、女子生徒たちは言葉を失い、気まずそうに顔を見合わせた。
「まあ、僕も彼女みたいな存在を近くに持てたら嫉妬するかもな」
ルシアンがさらに続けると、女子生徒たちは何も言わずにその場を離れていった。
「君、狙われやすいんだな」
彼はいたずらっぽく笑いながら、ビアンカの隣の椅子を引いて座った。彼の声が優しく空気をほぐし、彼女の緊張を和らげる。
「…ありがとう」
ビアンカは静かに礼を言った。その声には彼への感謝と少しの安心感が含まれていた。彼女の青灰色の瞳がほんのりと柔らかい光を帯びているのを見て、ルシアンは微笑みを浮かべた。
「君、もっとこういうときに上手くかわす方法を覚えたらどうだ?」
彼はそう言いながら、テーブルの上にあった彼女の本を手に取った。
「そうだねえ。次にああいう子たちが来たら、君の焼き菓子を渡してみるといい。甘いものは人を黙らせる効果があるからね」
彼の軽口に、ビアンカは目を瞬かせた。
「焼き菓子…ですか?」
「そう。君が作るお菓子なら、たとえ嫉妬深い彼女たちでも、その口を閉じさせるくらいの力があるはずさ」
彼の冗談めかした態度に、ビアンカはほんの少しだけ笑った。
「試してみます。でも、私にできるでしょうか」
「もちろんさ。君ならできる。焼き菓子を渡すだけで、きっと彼女たちも君を見直すよ」
彼の言葉にはどこか本気の響きが混じっていた。それを感じたビアンカは小さく頷いた。
「やってみます」
彼女のその一言を聞いて、ルシアンは満足げに笑った。
「その調子。君はもっと自信を持てばいいんだ」
彼は立ち上がり、本棚の方へと歩き出した。その背中を見送りながら、ビアンカは胸の中に少しずつ芽生えた変化を感じていた。彼の提案が、ただの軽口ではないことを理解していた。
図書室の静寂が戻り、窓から差し込む光が再び机の上を照らしていた。ビアンカは自分の指先を見つめ、小さく息を吐いた。
柔らかな日差しが中庭に降り注ぎ、花壇の花々が風に揺れていた。芝生の上では、数人の生徒たちが笑顔で談笑しながら、手に持った焼き菓子を口に運んでいる。甘い香りが漂い、穏やかな雰囲気が広がっていた。
その中心にいたのは、ビアンカだった。薄紫色の髪が陽光にきらきらと輝き、控えめな微笑みを浮かべながら、彼女は小さな包みを手渡している。
「これ、母に教わったレシピで作ったんです。もし良ければどうぞ」
彼女の声は静かで柔らかく、受け取った生徒たちは「ありがとう」と嬉しそうに礼を言った。その姿は、いつもの孤高な印象とは違い、周囲との距離を少しずつ縮めているように見えた。
たまたま通りかかったルシアンの琥珀色の瞳がわずかに細められ、軽く組んだ腕が彼の苛立ちを表していた。
「少し寂しいな…」
彼は低く呟いた。木の葉が風に揺れる音が、その小さな声をかき消した。
目の前で焼き菓子を配るビアンカの微笑み。つい数日前、自分にだけ向けられたと感じたあの笑顔が、今は他の生徒たちにも惜しげなく向けられている。その事実が、彼の胸を鋭く刺していた。
それから少しして、ビアンカが焼き菓子の包みを手に木陰に向かって歩いてくるのが見えた。彼女の青灰色の瞳が、木陰に立つ彼を捉えた瞬間、微かに驚いた表情を浮かべたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻った。
「ルシアンさん」
彼女が小さな声でそう言いながら近づいてきた。
「こんにちは。焼き菓子、持ってきました。良かったらどうぞ」
彼女は手にした包みを差し出し、静かに微笑んだ。
しかし、ルシアンはそれを受け取らなかった。彼は腕を組んだまま、冷たい表情を浮かべていた。
「ずいぶんと人気者になったものだね」
その言葉に、ビアンカの表情が曇る。
「何か気に障ることをしましたか?」
彼女の青灰色の瞳が真剣な光を宿し、彼をまっすぐに見つめた。その視線に一瞬戸惑いを覚えたルシアンだったが、すぐに目を逸らして肩をすくめた。
「何でもないよ。ただ、君が皆に笑顔を振りまいているのが少し面白いと思っただけだ」
「そうですか……」
彼女の声は少しだけ落ち着きを失っていた。差し出した焼き菓子の包みをそっと下ろし、彼女は困惑したように俯いた。
その夜、ルシアンは自室の窓辺に立っていた。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、彼の横顔を青白く照らしている。
彼は胸の奥に渦巻く感情に苛立ちを覚えながら、頭を振った。
「俺に愛なんて信じられるのか?」
彼の家族は冷え切っていた。両親の愛情の欠片もない結婚生活を目の当たりにして育った彼には、愛というものがどんな形であれ信じられなかった。恋愛も、友情も、全て仮面を被ったゲームだと考えていた。
「どうしてこんな風に思うんだろう」
ビアンカの柔らかな笑顔が、彼の頭から離れない。自分だけに向けられたのではないと分かっていながら、心のどこかで、それが自分だけのものだったと思いたかった。
彼は目を閉じ、深く息をついた。
「俺がどう思おうと、君には関係ない」
そう言い聞かせるように呟きながらも、月明かりの下で彼の胸は静かに疼いていた。
夕暮れの中庭は、薄紅色の光に包まれていた。薔薇のアーチの向こうに広がる芝生の上で、ビアンカ・ディ・ルチェリアは立ち尽くしていた。青灰色の瞳が困惑で揺れ、少しだけ硬い表情を浮かべている。目の前には、学園の男子生徒が一人。彼は不躾な笑みを浮かべながら、彼女に詰め寄っていた。
「いいじゃないか。そんなに堅い顔をしなくても。君みたいな美人、もっと気軽に楽しめばいいんだ」
男子生徒の声には軽薄な響きが混じり、その態度からは彼女を一人の人間として尊重している様子は感じられなかった。
「…私は、そういうのは考えていません」
ビアンカは毅然とした声で答えた。しかし、その落ち着いた物腰が、かえって彼の軽率な態度を助長させたようだった。
「そんなこと言わなくてもいいさ。君だって、本当は少し寂しいんだろう? 誰かがそばにいてくれた方がいいに決まってる」
男子生徒は一歩踏み出し、ビアンカの距離を詰めようとした。
「そこまでにしておけよ」
鋭く低い声が、夕暮れの静寂を裂いた。振り向いた彼の目に映ったのは、薔薇のアーチの向こうから歩いてくるルシアン・ド・ベルモンの姿だった。彼の琥珀色の瞳は冷たく光り、くすんだ金髪が風に揺れている。その姿には、いつもの飄々とした余裕はなく、凛然とした威圧感が漂っていた。
「ルシアンさん…」
ビアンカが驚いた声を上げた。
男子生徒は眉をひそめた。
「ベルモン様、これは僕たちの話です。割り込まないでいただけますか?」
「お前の言い分には興味がない。ただ、彼女が困っているのが目に見えて分かるから、出てきただけだ」
ルシアンは低い声で答えた。彼の視線が鋭く男子生徒を射抜き、その場の空気が一瞬で変わる。
「困っている? そんなことないだろう? 君、助けなんて必要ないよな?」
男子生徒は無理やり笑みを作りながらビアンカに振り返ったが、彼女は口を開こうとせず、少し身を引いた。
「見て分からないか?」
ルシアンは一歩前に出て、彼女と男子生徒の間に割り込むように立った。
「お前がどう思おうと、彼女はお前を必要としていない」
その言葉には一切の余地がなかった。男子生徒は顔を強張らせたが、ルシアンの冷徹な視線に気圧され、何も言えなくなった。
「分かったなら、ここから消えろ。今すぐに」
ルシアンがさらに低い声で告げると、男子生徒は視線をそらし、何も言わずにその場を去っていった。
「大丈夫だったか?」
彼はビアンカの方に振り返り、その瞳が柔らかくなる。
「…ありがとうございます。また助けられてしまいましたね」
ビアンカは小さく頷き、俯きながら礼を言った。
「いいさ。ただ、君はもっと自分を大切にしろ」
ルシアンは少し苛立ったように言った。
「誰にでも優しくするから、ああいう奴が勘違いするんだ」
ビアンカは驚いたように彼を見上げた。
「この間ルシアンさんに教えてもらったように焼き菓子を渡そうかとも思ったのですが、いまは持っていなくて…」
その言葉を聞いたルシアンは一瞬息を止めた。そして、ため息をつきながら視線を遠くに向けた。
「君は本当に危なっかしいな」
彼は少し皮肉っぽく笑う。
ビアンカは何も言わず、彼の言葉を待っていた。
「俺はずっと、愛なんて信じないつもりだった。家庭の冷たさを見て育った俺にとって、愛はただの幻想だと思っていた。そう思って、何も感じないように生きてきた」
彼の琥珀色の瞳がビアンカをまっすぐに見つめる。
「でも、君を見ていると、それが崩れそうになる。君は俺にとって危険だ」
ビアンカの唇が微かに動き、穏やかな微笑みが浮かんだ。
「ええと……私、またなにか危険なことをしてしまいましたか?」
彼女の静かな声が、夕暮れの中庭に響いた。その瞬間、ルシアンは何かが胸の奥で解けるのを感じた。
ルシアンが笑うのを、ビアンカは不思議そうに見つめる。
「君の焼き菓子は、俺だけのものにしてもいいか?」
ルシアンは冗談めかして言ったが、その瞳にはどこか本気の色が混じっていた。
ビアンカは小さく笑いながら答えた。
「まあ。ルシアン様ったら、意外と食いしん坊なのですね」
その言葉に、ルシアンは柔らかく笑った。
「食いしん坊か」
「それなら、ルシアン様のためだけにお菓子を作りますね。あなたの分が減ってしまうことはもうありませんよ」
「なら、今はそれでいい。ほかの人に欲しいと強請られたら、必ず俺にあげると言って」
ふふと笑うビアンカの優しく穏やかな声が心地いい。
庭園には、ただ二人だけの静かな時間が流れている。
ルシアンは頭の中で、この妖艶で可愛らしいお嬢様をどうやって囲い込もうかと思いをはせていた。