■八時三〇分 ◎物部由衣、式条桐、新田美希奈
一年の教室があるのは三階だ。いつも階段で上らないといけないのはそれなりにきつい。そんなことを由衣が考えていると階段から一人のコートを着た女学生が走りながら下りてくる。
「美希奈ちゃん、おはようございます」
切羽詰まった表情の女学生に由衣は丁寧にお辞儀をして挨拶をする。美希奈と呼ばれた女学生は由衣の正面で立ち止まる。
全速力で走っていたようにあったが、まるで息が切れていない。振り乱した長い髪を左手で軽く後ろにやる。
「由衣ちゃん、のんきに挨拶してる場合じゃないよ」
美希奈は由衣に鬼気迫る表情を見せる。
「どうかしたんですか?」
「いま市内に緊急事態宣言が発令されたわ。学校は休校よ」
そんなことを言われても由衣は首を傾げるだけだ。状況が呑みこめていないらしい。
「とりあえず。学校を出ましょう。迎えを外に待たせているの」
美希奈は由衣の右手を半ば強引に掴んで下駄箱のほうへ向かう。
「桐君はどうなるんですか?」
「式条君は既に救助が向かっているわ。いまは自分の安全を考えて」
美希奈は振り返る仕草も見せずに言い放つ。それに違和感があった。彼女は誰が桐を救助に向かったのか言っていない。ただ、彼女が急いでいる。いや、この場合は焦っているというほうが正確かもしれない。
「美希奈ちゃん、大丈夫なんですか?」
「いまならまだ間に合うわ」
由衣は美希奈からどんな返答を期待したのだろうか。ただ由衣は眉根を寄せていた。
下駄箱で靴に履き替えて、校門へ行くと黒塗りの車両が停まっている。その運転席に乗っているのはこれまた黒服でサングラスをかけた男だ。警護の人だろうか。
「由衣ちゃん、乗って」
「う、うん」
美希奈は由衣を押しこめるようにして車の後部座席に乗せてから自身も乗りこむと運転手に「出して」という指示を出す。
「予定通り、市役所へ向かいます」
運転手は車を発進させつつ、美希奈へ伺いを立てるように訊ねる。
「ルートは?」
「寺町通りを下り、丸太町通りへ出てから河原町通りを抜けます」
美希奈は顎に手を当てて視線をしばらく足下に向けたあとに顔をあげて運転手にこう伝えた。
「わかりました。そのルートでお願いします」
「市役所に何かあるんですか?」と由衣が美希奈に問いかける。由衣としては他にも聞きたいことはあったが、とりあえず絞り出せた質問がこれだった。
「広場に脱出用のヘリを待たせてあるの。大丈夫よ。政府の人たちは市民を見捨てないわ」
美希奈は右手で由衣の左手を力強く握る。
「いま何が起こっているんですか?」
「軍事クーデターらしいわ」
「それで京都市内を戦場に?」
由衣は首を傾げる。
二〇〇五年から始まった隕石落下騒ぎは日本にどれほどの衝撃を与えたのか。例えば国民の関心は郵政民営化から一〇〇年後の隕石落下にすり替わった。
世界中の国家がこれを決起に隕石対策をはじめた。それは結果として武力の強化に繋がり、日本周辺国の安全保障問題が大きく変化しつつあった。
以降、幾度か憲法は改正されて、二〇一七年に自衛隊は防衛軍と名称を改めている。宇宙開発競争が国家間で激化して、制宙権の認識が強くなっていたために取った措置だ。
もはや国内において軍事力の所持はデリケートな問題ではなかった。だからといって、この過程でクーデターは飛躍してはいないだろうか。
「軍部はある要人の確保を目的に動いているらしいわ」
美希奈の口から具体的な内容が出てきたので、由衣の口が思わず開く。
「それで軍事クーデターなんですか?」
美希奈の言い方だと要人の保護とも解釈がとれる。やはりだが、それでもクーデターと話が繋がらない。
「そうらしいわね」と美希奈ははぐらかす。
「その要人ってどんな人なんでしょう?」
「さあ? 案外、私たちが知っている人かも」
冗談めかしながら言っているが、由衣は彼女があきらかに意図しながら情報を選んで話をしているようにある。一方で、やり方そのものに悪意は感じられなかった。あくまでこちらの不安を緩和させるためにそうしている節がある。
車は河原町二条の交差点を通り過ぎる。すると押小路通りの交差点付近に車両停止装置が敷かれて、道路を封鎖している。その後方に迷彩服を着た人影が控えている。
「停車します」
運転手が後方に視線をちらりと向けてくる。こちらの賛否を聞いたわけではないらしく車両を減速させて速やかに停車させる。
「仕方ありませんね」
美希奈はふうとため息をつく。それからシートに深々と腰を沈めて天井を仰いだ。
「由衣ちゃん、車を出なさい」
「美希奈ちゃんはどうするんですか?」
「少なくとも、あなたとは一緒にいられない」
美希奈は由衣と視線を合わせようとしない。
「どういうことですか?」
「ごめんなさい」
由衣の問いかけに美希奈はただ謝罪をした。
「あなたを保護しようとしたのは軍の方。私たちは保護を邪魔しようとした側よ」
「ますますわかりません」
「いまはわからなくていい。さあ行きなさい」
由衣がいた側のリアドアが独りでに開く。それでも由衣は状況に戸惑っていた。
「軍はあなたを悪いようにしないわ。式条君によろしくね」
美希奈は弱々しい笑みを浮かべる。それはここにはもう戻ってくるなと言っているようにもあった。
由衣は軽く頷くもののおそるおそる一人で車を出た。先ほどの「式条君によろしく」とはどういうことだろうか。
その答えは車の外にあった。
迷彩服にゴーグルとマスクをつけた集団が銃を構えつつ車両を取り囲んでいる。その中で一人が銃を下ろして不意に手を上げる。
「由衣、こっちだ」
ゴーグルをしているが、その声には聞き覚えがあった。
「桐君、ですか?」
「そうだよ」
ゴーグルとマスクを外した少年の素顔は間違いなく、彼女がよく知る式条桐だった。
「どういうことなんですか?」
どうして桐が軍服を着ているのか。武装をしているのか。聞きたいことは山ほどあった。しかし言葉にできない。
由衣の質問に対して、桐は口を開く。
「物部由衣。俺は君にあることを伝えなければならない。いまから言うことをよく聞いて欲しい」
桐は由衣の瞳をまっすぐ見つめながら、一言告げた。
「――世界が君に嘘をついている」
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