二億年の監獄
どうしようもない人生に、どうしようもない選択をして、どうしようもない状況に陥った主人公が、たった一つの出来ることを成し遂げる、救いの物語。
目が覚めた。半身を起こして辺りを見回した。まだ夜なのか、真っ暗だ。ぼんやりとした白い明かりが天井に光っている。
のそのそと身体を起こすと地面にそのまま寝ていたことに気がついた。しかも、学校の制服のままだ。
寝ぼけた頭を掻きながら、何が起きたのか思い出そうとした。僕はいったい…。
「あっー!」
思わず叫び声をあげた。そうだ、そうなのだ。さっき、俺は屋上から飛び降りたんだった。
中学の頃から人との関わりに違和感が芽生えた。高校に入ったらさらにひどくなり、学校にもほとんど通えなくなった。教室という空間に大勢の人間と閉じ込められているのが耐えられないのだ。劣等感と罪悪感にさいなまれ、ただ生きていることが辛かった。誰もいない世界に逃げたかった。一人の世界に閉じ籠りたかった。
その日は珍しく登校した。定期テストなので仕方ない。もちろん解けるわけがなかったし、登校したことを後悔した。逃げるように帰ろうとしたら、担任に呼び止められた。
これ以上休むと出席が足りず留年するかもと言われた。わかりました、頑張って学校に行きます、と答えた。その時、心の中で何かがぷちっと切れた。
そのまま屋上に向かった。屋上の扉は南京錠で施錠されていたが、扉の横につまれていた荷物の中から手頃な物を見つけて開けた。南京錠はやり方とコツさえ知ってれば鍵が無くても開く。
屋上から見下ろすと、誰かが俺に気付き騒ぎ始めた。
「お前らに何が分かる?」
つぶやいた刹那、身体が宙に舞った。
想像の何倍もの早さで地面が近づいてくる。激突の瞬間、目をきつく閉じた。覚えているのはそこまでだ。
「目が覚めたようだな。」
突然背後で得たいの知れない声がした。
「うわっ!」
思わず叫んで振り向いた。振り向いた瞬間、固まってしまった。どう反応してよいのか分からない。
声を発した人物は、金色の光を放ちながら空中に浮かんでいた。光を放っているのはその人物の身体自身だった。
金箔を塗ったような金ではなく、透明な身体の内部から黄金の光が放たれてるようだ。手足が以上に長く、ミケランジェロの彫刻のような精悍な体つきの青年に見える。片ひざを立てたポーズで空中に座っているようだ。
その身体には虹色に輝く絹のような衣を天女のように纏っていた。顔は非の打ちようもなく整っており、中性的な美しさだ。その目は宝石のような煌めきでこちらを見つめている。
「だ、誰ですか?…。」
やっと言葉を絞り出した。
「我が名を名乗っても、お前達には聞き取ることは出来ない。お前達に理解出来る言葉を使うならば、我は神だ。」
神?どうして神さまが俺の前に?そもそもここはどこ?一体何がどうなった?あまりに分からない事が多く、何をどこから問えばいいかすら分からない。呆然としている僕に向かって、神が話し始めた。
「お前は罪を犯した。」
神の声は、その口から発せられてるようでもあり、頭の中に直接届いているようにも感じられた。一人が発しているようでもあり、何百人の声が一斉に話しているようでもあった。
「僕が何をしたというのですか?」
コミュ症らしいボソボソした話し方で必死に質問した。神が答える。
「与えられた命を途中で投げ出すことは許されない。だから、その罪を償ってもらう。」
「自殺をしたのがそんなにダメなのですか?毎日のように誰かが自殺してるじゃないですか。」
「その通りだ、いちいち相手にしていられないほどだ。ただ、お前は我が目の前で罪を犯した。さすがに見過ごせん。よって我が罰を与えることにした。」
たまたま神の前で自殺したらのが悪かったと言うのか?そんな無茶苦茶な。
「今の内に話すことを楽しむがよい。もう、他者と話をすることはないだろうからな。」
「罰って何なのですか?!」
「お前に相応しい場所で過ごしてもらうだけだ。」
周囲を見渡しても、どこも真っ暗だ。泣きそうな声で僕は訴えた。
「ここはどこなんですか?どこもかしこも真っ暗だし。」
「望み通り、誰もいない場所だ。罰とも言えぬのかも知れぬ。お前達は光が無いと見えないようだから、穴だけは開けておいたぞ。」
天井の光は穴から射し込んでいるのか。しかし、それ以外は辺り一面真っ黒だ。
「光があっても、真っ黒で何も見えないです。広いのか狭いのかも分からない。」
「広さを知りたいのだな。お前達に理解出来る単位を使えば、半径1光年だ。」
は?!今、何て言った!?
「な、一光年って、なにそれ、も、元に戻してください!お願いです!」
必死に食い下がるが、神は露骨に不機嫌な顔をきた。
「もう少しましな事は言えぬのか。それでは問う。お前の罪が消えるほどのことを、これまで何かしてきたのか?あるならばその願いを聞こう。」
そんなことを言われても、確かに人に誇れるようなものは何もない。
ゴミクズのような人生だ。でも、それでも僕なりに必死で生きてきた。それではダメなのか、何か伝えなければ…。絶句している僕に向けて神は言った。
「何も無いようだな。では、これまでだ。お前達の言葉で話すのは少々面倒になってきた。我らの言葉であれば瞬時に伝わるものも、時間がかかりまどろっこしい。」
神は同じ姿勢のまま、徐々に上昇を始めた。昇るにつれて姿が消えていくようだ。やばい!
「待ってください!ここから出して!お願いです!」
必死にすがる僕に神が最後の言葉を発した。
「出口はある。出たければそこから出ろ。」
やがて神は完全に姿を消した。静寂と闇だけが辺りをつつんだ。
しばらく立ち尽くしていたが、もう一度辺りを見回した。四方は完全な闇に包まれている。地面も全く光沢がなく真っ黒だ。
そしてこちらも真っ黒の頭上の真ん中に、ぽっかりと丸い光が浮かんでいる。神の言うところの天井の穴らしい。穴の縁にうっすら浮かぶ形から、ここは巨大なドーム状の建物(?)らしいことが分かる。
暗闇の中を一歩足を踏み出してみた。障害物は何もなくただ闇が続くだけだ。何歩か歩いると得体の知れない恐怖がこみ上げ、狂ったように走り出した。
「うわっー!」
思わず叫び声をあげた。空を見上げると白い光が浮かんでいる。その時、子供の頃の記憶と共に、新たな恐怖が襲ってきた。
小学校の2、3年の頃だろうか。日暮れまで公園で遊んで、夜道を走りながら家に向かった時だ。空には満月が浮かんでいる。家や電柱はどんどん通り過ぎて行くのに、月だけは同じ場所から動かない。
「月が追っかけてくるー!」
友達とはしゃぎながら夜道を駆け抜けた。月はあまりに遠く、子供の走る速度では位置が変わらないように感じるのだ。
頭上の白い光も同じだった。いくら走っても微動だにしない。半径一光年、確かにそう言った。本当に半径一光年の巨大なドームの中にいるのか?あり得ない、あり得ないが本当にそうかも。
無我夢中で走ったが、次は動けなくなった。出口はある。これも確かにそう言った。しかし、途方もない広さの中で、どちらに進めば出口があるのか検討もつかない。間違った方向に進めば取り返しがつかない。その場に座りこんで頭をかかえた。様々な思考がぐるぐると頭に浮かぶ。
そもそも、半径一光年の建物など物理的に不可能なのではないか。少なくともこの地面は直径が二光年なければならない。そんな星は存在しない。
しかし、それを言えば、あの神さまが存在も、ビルから飛び降りた僕がここに居るのも同じだ。もしかしたら、テレビのドッキリ番組ではないか?ほら、あの『収録中!』とかいう。いや、飛び降りた僕をどうやってセットに運ぶ?そもそも僕を出演させることなどあり得ない。では、夢か?ならば早く目を覚まさねば。いや、よく考えれば、僕は死んでいるのではないのか?胸に手を当てると、心臓の鼓動を感じた。間違いなく呼吸もしている。
「落ち着け。」
深呼吸をして、パニックになりそうな気持ちを辛うじて抑えた。冷静になろう。
ドッキリカメラや夢ならいい。怖いのは、この現実離れした状況が現実だった場合だ。そして、その可能性が高いことだ。感覚で分かる。では、どうすればいい?答えは一つしかない。出口を探さねば。
立ち上がり、周囲を見渡した。どこを向いても吸い込まれそうな暗闇が広がっている。普通に考えたら、出口は壁面にある。まずはそこにたどり着くしかない。一体どのくらいかかるのだろう。胸ポケットからメモ帳と鉛筆を取り出した。
僕の唯一の夢は小説家になることだ。そこなら自分だけの世界を作り出せる。しかし、何度書き始めても、主人公は途中で動けなくなり途中で進まなくなってしまう。もっとアイデアを集めないとと思い、ネタ帳を持ち歩いているのだ。ネット動画や本から自分の興味のある事を片っ端から書いた。だから雑学はそれなりに知っている。
光速は約秒速30万kmだ。なので一光年の距離は300000×60×60×24×365km。歩くスピードを時速5キロにして、どのくらいかかるか計算すると。
「…二億年。」
全身の力が抜けた。その場に仰向けになって倒れこんだ。どうしようもないじゃないか。止めどなく涙が流れてくる。同時に笑いもこみ上げてくる。泣きながら笑い、笑いながら泣いた。もう動く気力もない。そのまま真上に浮かぶ白い光を見つめていると、いつの間にか眠ってしまった。
目を覚ますと、相変わらず丸い光が浮かんでいた。動く気にもならなかったが、不思議なことに気がついた。全く腹が減らないのだ。喉も渇かない。あれほど涙を流し、泣き叫んだというのに。
もう一つ可能性がある。ヴァーチャルリアリティだ。それならどんな世界だって可能だ。昔観た映画のように、本当の自分はどこかにケーブルで繋がれていて、今見ているのは、僕の脳内に送られたAIが管理するデータということだ。それなら辻褄は合う。しかし、これほどリアルな世界を構築することが今の技術で可能なのか?なぜ俺がという疑問も相変わらず残る。そもそも、もしそうだったとしても、どうしようもないことには変わりないではないか。
暗闇の中で考えた。いくら考えても、選択肢は二つだけだった。進むか進まないか。僕は立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。
先の見えない暗闇を進むのはとても心許ない。ただし、上から光はあるので、障害物があれば気付けると思う。試しにメモ帳を一枚破ってくしゃくしゃと丸めて放り投げたら前方をコロコロと転がって行くのが確認できた。地面の材質がほとんど光を反射しない素材なので真っ暗に感じるようだ。何も考えずに進んで行くしかない。
とはいえ、何も考えずにただ歩くというのは難しい。どうしても色々な思いが浮かんでくる。暗闇への恐怖。この方向でいいのかという不安。寂しさ、悲しさ、情けなさといった感情。なによりこんな目に会わせた神への怒りが湧いてきた。
罪と言ったが、それほど悪いことをしたのか?これだけの力があるのなら、僕の苦しい状況を何とかしてくれたらよかったのではないか?心の中で神に助けを求めたことは何度もあったぞ。いつもそうだ。誰も助けてくれない。苦しみばかり与えてくる。何のために生まれてきたんだ。生きてて苦しいだけなら、何で生まれて来たんだ。周りにも迷惑なだけだから、そのまま消えてしまえばいいじゃないか。それなのに、それなのに。思わずしゃがみこんで拳を地面に叩きつけた。
「ちくしょーっ!」
何度も地面を殴り、その勢いで頭を地面に打ち付けた。
「ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!…。」
何度も額を地面に叩きつけた。頭を割って死ねたらと思った。地面は衝撃を吸収して、血すら出ない。そのまま両手で首を締めた。
「ぐうっ。」
涙と鼻水は垂れてきたが、死ねなかった。いや、元々僕は死んだからここに居るんだった。死ねないのも当然だ。すごくシンプルに考えたら、ここが死後の世界ということか。
死んだら楽になれるというのは、生きてる人間の願望で、死んだ人間が行き着いたのがここということか。死んだか人間がすべてそうなるのか、僕みたいな死に方をした者だけが行くのかは分からないが。
いずれにせよ、このままここで生きる、いや、生きてないとしても、ここで過ごすしかないようだ。何度考えても堂々巡りになってしまう。仕方なく僕は立ち上がり、また歩き始めた。
歩きながら気をまぎらわせるために小説の事を考えた。僕がこの話を小説にするなら、ここら辺りで何かイベントを発生させるか、新しいキャラクターを登場させるだろう。さもないと、こんな退屈な話を誰も読まない。
どんなイベントやキャラクターがいいだろう。出口はまだ見つからない方がいいだろうな。でも何かヒントを手に入れるのはありだと思う。何かのモニュメントが現れるとか、空中に何が暗号のような文字が浮かんでるとか。すごく重要なヒントだけど、簡単には分からない。そんな感じだな。それからどうしよう。
また、いつものように途中で止まってしまった。そして目の前の景色は全く変わらず暗黒のままだ。
お話を考えてる時だけ少しは気がまぎれた。新しい登場人物を考えてみよう。ここで女の子は違うよなぁ。恋愛なんかはどう進めたらいいか分からないから、僕の話にヒロインは出てこない。別に人間にこだわらなくてもいいんだ。妖精とか妖怪とかどうだろう。ロボットもありかな。でも、何か唐突過ぎるかな。主人公の知ってる人間が現れるというのはどうだろう。生き別れた家族とか…。
しまった。決して考えまいと思っていた単語を出してしまった。親、そして兄ちゃん。僕の家族。
親父のことを僕は「あの人」と呼ぶ。自分の価値観だけを押し付けてくる人間だ。ほとんど話さないが、話す時は毎回僕を否定しかしない。嫌いと言うより憎んでいる。
母のことは「あいつ」だ。いつも憐れんだ目で腫れ物に触るように僕を扱う。「お前のために」と言っているが、僕の望むことを一つとして理解してない。でも、、。
でも、実は分かっている。母も父でさえも自分のことを大事に思ってくれているのを。それでも親の望みと実際の自分とのギャップに苦しみ、どうしようもなくなってしまった。
兄ちゃんは優秀だった。年が離れていることもあり、すごく優しい兄だった。親から直接言われることは無かったが、常に比べられてるようで、兄を見ていると自分のダメさが目の前に突きつけられ、劣等感が日に日に増していった。でも、自分にとっては唯一尊敬出来る人間だった。
しかし、その兄も社会人になって精神を病んでしまった。あんなに真面目で努力家の兄が、どうしてそこまで苦しむのだろう。それが世界に対する憎悪と恐怖に拍車をかけた。
僕がいなくなったことを家族はどう思っているのだろう。衝動的に飛び降りたので、そこまで考えてる余裕は無かったが、改めて家族のことを考えると、罰を受けるのも不思議じゃない気がしてきた。
同時に孤独感が押し寄せてきた。あれほど孤独を望んでいたのに、孤独というのを自分に都合よく解釈していただけだったことを思い知らされた。
ここに来て最高の落ち込みだった。孤独、罪悪感、恐怖、焦燥感、絶望…ありとあらゆる負の感情が、いつまでも心に渦巻いた。全身に力が入らず、止めどなく涙を流し続けた。もう動くことが出来なかった。
どのくらい経っただろう。2、3時間のような気もするし、3日ぐらい経った気もする。時間の感覚も分からなくなってきた。いつまでもここに座り込んでいてもやることが増えたりしない。
あの時は、どれだけ苦しかろうとやることや、やらないといけないことはあった。もっと言えば、やりたいこともあった。ゲームやネット動画を観ること。小説も上手く書きたかった。それらがどれほど大事なものかを、何もかも無くした今、初めて気がついた。
ここでじっとしている以外に自分が出来ること。それは進み続けることだけだ。それはやらないといけないことなのかも、やりたいことなのかも分からない。前に向かってるかさえ分からない。でも、それしかないならそれをやろう。ようやくそう思うことができた。
進む方向は今まで歩いてきた方向にすることに決めた。日数を数えてメモすることにしたが、日が昇ったり沈んだりしないので、日数という概念が無い場所だと気がついた。腹も減らないし、喉も渇かないが、なぜか眠くはなるので、眠くなったら寝て、それを1日の区切りとすることにした。
進む方向に足を向けて寝て、次の日はそこに向けて進んで行く。寝相は悪くないので大丈夫だろう。
最初は色々な思いが浮かんできたが、苦しくなるだけなので、無理矢理考えないようにした。しばらくすると、ただ歩くだけに徹することが出来るようになってきた。眠くなるまで無心で歩き、やがて眠気が来たらメモ帳に小さな線を引いた。正の字で日数を数えることにした。それが終われば仰向けに横になった。一日中歩いた分、すぐに眠りに落ちることが出来た。
豆粒のような正の字が半ページを埋めた頃、足の裏に違和感を感じた。靴の底に穴が空いたのだ。正の字が73文字で一年だ。メモを始めて5年と176日目だった。地面はそれほど固くは無いが、よくもったものだ。よく見たら靴のつま先に穴も空いていた。制服の裾も擦りきれてる所があった。歩くのに不自由はないのでそのまま進んだ。
メモが6ページほど進んだ時、インクが切れた。仕方ないので紙にペン先を押し付けて印をつけることにした。その頃には裸足で歩くようになっていた。靴の残骸はとうの昔にどこかへ消えていた。
メモのページが終わる前に、メモ帳とペンは姿を消した。ポケットに穴が空いて、途中で落としたようだ。探すことはしなかった。見つかるとは思えなかったし、何よりもう必要はなかった。
日数は自分で数えることにしたのだ。その数を呟きながら歩く。次の日起きたら一を足して、呟きながら歩くのだ。今日は十二万四千七百五日目だ。
いつの間にか、身体には何も身につけていなかった。衣類は繊維というより粉となって少しずつ散っていった。ここは暑くも寒くもないので気にならなかったし、そもそも誰にも会わないので、衣服を着ていても着ていなくてもどちらでもよかった。足があれば進める。
三十六億五千百八万二千二百五日のことだった。朝、目を開けると違和感があった。仰向けに寝ていたが、視線のまっすぐ先が白い光ではなく、穴の縁に辺りであることに気がついた。
全く変化の無い景色で暮らし、毎日目が覚めると初めに見るのが白い光だった。毎日同じ位置にあると感じていたが、感じることが出来ないほど少しずつ位置を変えていたのだ。おそらく、ずっと前からその状況だったが、その意味に今やっと気づいたというのが正しいだろう。
「ちゃんと進んでいたんだ。」
つい独り言が漏れた。日数以外の言葉を発するのはどれくらいぶりだろう。やがて立ち上がり、また数字を呟きながら歩き始めた。いつもより少し足取りが軽い気がした。
歩き、寝て、歩き、寝た。唯一変化するのは頭上の白い光の位置だけだ。いつしか光は後方に移動して、振り返らなければ見ることができなくなっていた。少しだけ困ったのは、目覚めた時に目が開いているか閉じているか分からなくなることだった。そんな時は視線を移動させて白い光を確認して、その反対の方向へ歩き始めるのであった。
七百八十八億四千百一万六千八百七十二日目。困ったことが起きた。どうした訳か前に進めなくなった。目の前に壁があるようだ。歩いて進もうとするのだが、何かに阻まれてそれ以上前に行けないのだ。思わずうろたえてしまった。
「どうした、なんで進めない。どうしよう…あっ!」
考えることを一切していなかったので、理解するのに時間がかかってしまった。進めないのは当たり前だ。ついにドームの壁面に辿り着いたのだ。
壁はやはり漆黒であったが、何もない暗闇と違い、白い光の加減で壁であることは認識できた。ドーム状になってるはずだが、あまりに巨大なせいか、垂直の壁がそそり立っているとしか見えなかった。
何の前触れもなく到着したので心の準備が出来てなかった。そもそも思考や感情を長い間停止していたので、それを取り戻すのにしばらく時間がかかった。まあ、ここまでの道のりを考えたらほんの一瞬ではあるが。
「やっと着いたんだ。」
何もない壁があるだけで、出口らしいものは見当たらなかった。しかし、落胆はしなかった。ここまで進んで来て、目標に到達したことの方が重要だった。
「進めてたんだ、壁まで来れたんだ。何も最後までやったことのない僕が、最後まで歩けたんだ!」
じわじわと達成感が湧き上がってきた。壁に張りついて全身で感触を確かめた。
「僕はやった。出来たんだ。」
うれし涙を流したのは初めての経験かもしれない。やったのはただ歩いただけだ。しかし、ただ歩いただけではない。この想像を越える世界で、誰も歩いたことのない距離を進んだんだ。
改めて見える範囲の壁を見渡した。やはり出口はなさそうだ。まあいい。探せばいいだけだ。次は壁に沿って歩いていけばいい。円周ならば、ここまでの約三倍の長さだが、途中で出口が見つかるかもしれないし、無ければ円の中を探す方法を考えよう。その時はその時だ。
目標を達成した成功体験が、僕に力を与えた。右に視線を移し、時計回りに進むことにした。左側に壁、右側の遥か上空に白い光がぽっかりと浮かんでいる。
歩き始めるために左手を壁につけた。その時、僕の手の触れた壁がかすかに光り始めた。驚いて見ていると、光はますます強くなり、徐々に広がっていった。白い光だ。
壁に向き直り成り行きを見ていると、壁が光っているのではなく、壁の向こうから光が漏れてきていることに気がついた。頭上の白い光の穴と同じだ。
穴は地面から僕の背丈の少し上まで広がり、壁にぽっかりと穴が開いた。穴の向こうは白い光で満たされている。その時、僕は悟った。
「出口だ。」
自分で思い付いたのではなく、誰かにメッセージをもらったような感覚だ。もしかしたら神様?神の言葉なら一瞬で伝わると神は言っていた、遠い過去の記憶が蘇った。
一瞬で全てを理解したようだ。これが出口だ。ここを出ると、僕は生まれ変わり、新たな命として誕生する。そこで精一杯生きる力を持てるかどうか。それがここから出る唯一の方法だったのだ。
出口から漏れるまばゆい光を見つめた。先がどうなってるのか全く分からない。ここに入ると新しい命になる。僕が僕でなくなることに少しためらった。しかし、すでに魂は新しい命を欲していた。何よりも僕自身がこれまでの僕ではないじゃないか。踏み出そう、新しい命に。
光の中に足を踏み入れ、僕は一歩ずつ進んで行った。全身が白い光につつまれていった。
ここは南太平洋ミクロネシア。二千以上の島が点在する海に浮かぶ環礁の、遠浅の海の中。珊瑚礁に張りつくようにして彼はいた。
シアノバクテリア。藍藻とも言われ地球史の中で初めて光合成をした菌類だ。赤道直下の太陽に照らされた彼の身体からは、小さな気泡が浮かび上がっていく。酸素だ。
無数に存在するシアノバクテリアは太古の地球に酸素をもたらし、今も変わらず二酸化炭素から酸素を生み出している。
何かが近づいてきた。エビとカニを合わせたのような姿の動物プランクトンだ。彼にとっては巨大な存在だが、人間にとっては肉眼では見ることが出来ない大きさの生物だ。
プランクトンは無心に顎を動かし、岩場のバクテリアを口に運び続けている。やがて彼もプランクトンの口に吸い込まれていった。
彼を食べたプランクトンも次の瞬間には小魚に飲み込まれていった。
こうして彼が太陽エネルギーから生み出した有機物は、様々な生物の生きる糧となっていくのであった。
誠に見事な生涯であった。
了
人間が人間に生まれ変わるなんて嘘っぱちだ。
個体数から考えたら、バクテリアに生まれ変わるのが確率論から言えば正しい。