ある建築学生のほろろ
大学の建築学科は卒業のために論文でなく、卒業制作というものによって卒業をするところがある。すなわちそれは建築家としてのはじめての立場表明であり作品の発表といっても過言ではないのかもしれない。これはその卒業制作というものに全身全霊で取り組んだ一人の学生とそのどうしようもない、やりきれない気持ちの過程である。
まず私はとても大きな課題に取り組んだ。それは建築という枠組みというよりむしろ国家あるいは民俗のようなもので、いってみれば身の丈以上の大風呂敷を広げまくったわけである。この大きな問題に対してわたしは小さな身体ながらも一年という時間をかけて、その大風呂敷を広げる作業から設計によって建築家としての立場を表明するまでに取り組んだわけであるのだが、これを読んでいる者にはすでにおそらくご察しのようにうまくはいかなかったのである。これも建築学科特有の文化であろうものだと思うのだが、その卒業制作というものはたいてい学内で賞レースという形で評価される。つまりはなんたら賞、ほにゃらら賞、何選、みたいなかんじで評価されていくわけだ。案の定わたしはそのどれにもひっかからず、広げた大風呂敷がよりどころなく風に揺れてしまったのである。まったくもってやりどころのない虚しさと、ぐつぐつと爆発しかけている悔しさを未だ乗り越えきれていないわたしである。さて、したがってわたしはそのやりどころのないムカつきをここに垂れ流そうとしているわけである。
わたしは大学生らしく研究室というものに所属している。我が大学の卒業制作というものは、何十個もの設計物の中から好評会という名の選ばれし優秀な者たちの発表の場へ数名が選ばれるのであるが、そこにはわが研究室十人のうち七名が選ばれるという快挙を成した。しかも今回のいわゆるなんたら賞なぞはその七名がほとんどを勝ち取ったのである。まったくもって素晴らしい。snsなどでも我が先生や先輩なぞは褒めに褒め、全国レベルの作品だなんだとおっしゃっておられる。ちなみに全国だなんだというのは卒業制作の全国的な大会がいくつか存在するからであるが、ではなんぞということでもちろんわたしはその七名に入っていない。落ちこぼれ。これだけ褒められている人たちを見ているとわたしなど本当に何も価値がないのではないかという心持ちになって来てしまう。だがまあ評価されたものに対して褒めるのは当たり前のことだよなあと。きっとこの先この研究室にいつづければわたしなこのコンプレックスをささいなことで逐一さいなまれ、苦しみ続けることは火を見るより明らか。この時点で大学院にこのまま進学する選択肢はなくなった。もうほんとうにつらいものである。
そして次に。そう。もちろん苦しみのたねは今言ってきたようなことだけではない。わたしの彼女がとても評価され、それを間近で見続けなければならなかったことや、くそみたいな作品を見てこれよりわたしは評価されないのか、と絶望したり。つまりは書いていないことの方が多いであろうのだが、このあたりにしておく。こんな私にもひとつだけ救われたことがあったので、それだけ記しておわりにしようと思う。実はこの制作において非常に一人の先輩、いわゆる博士の称号をとらんとする先輩にお世話になったのであるが、その方が好評会をききおえて絶望している私にメールをくれたのである。仮にその先輩をモリハラさんとするならば、そのメールに付録されていたpdfのデータには、モリハラ賞、と書かれていた。ここをこうこう評価する、や、大変挑戦的、など、丁寧に書かれたその文面を見てわたしは涙が出そうになった。わたしは全く評価されなかったわけだが、一人の人に丁寧に評価されたように感じた。これは先輩の同情かもしれないし本当に評価してくださったかは、これはわからないことであるが、すくなくともわたしはそう信じたいし、これほど嬉しい賞はいまだかつてない。
なにもまとまらないめちゃくちゃな文であるがこれによって少し落ち着けた。結びとしては、この卒業制作というものにわたしはもう少しだけあがいてみようと思っている。少し話題に出したが、全国の大会というものである。わずかばかりの時間があるので手をつけるだけ手をつけて再び評価を求めて泳ぎたい。評価、なんていうものに承認欲求を求めてしまう弱い私であるが、だからこそもう少しだけ。もう少しだけあがいてみる。