年末調整顛末記
神田律子は派遣社員。
十一月の下旬から、律子は以前派遣された事がある会計事務所に年末調整と確定申告の仕事で行く事になった。
例年通り、幾人かの派遣社員と十数名のアルバイトの専門学校の学生が仕事をする事になっている。
律子はいつも思うのだが、専門学校の学生は税理士志望や会社の経理部門に就職したい者がアルバイトに来ているにも関わらず、書類の書き方はともかく、計算ミスをする子、検算をしない子、わからない事があってもそのままにしている子が多いのに驚いている。
(一体、採用の面接の時、何を基準にして選んでいるのだろうか?)
毎年、その事を疑問に思っている。
「神田さん」
その中でもとりわけ事なかれ主義のような男子学生に声をかけられた。
「はい」
律子はそんな心の内を噯気にも出さずに微笑んで応じた。
「できました」
その男子学生は書類一式を抱えてきて、律子に差し出した。
「はい」
律子はその男子学生ーー平井拓海ーーから書類を受け取ると、席に戻って確認作業に入った。
思わず溜息が出る。チェックリストに書かれている確認作業をほとんどこなしていない。
書類を書いて提出しているのは、年末調整は税理士事務所の仕事と考えていて、きちんと内容を読んだりしない人がほとんどだ。
だから、より慎重に中身を確認する必要があるのに、平井はほとんどチェックリストを無視して、書いてある通りに年末調整ソフトに入力し、入力ミスも全く気にせずに突合作業もせず、律子に渡してくる。
その事を責任者である会計事務所の担当者に言っても、
「まあ、アルバイトだから」
そう言って、何も対応してくれない。
(バカバカしくなってくる)
律子は自分が最初から確認している方が効率的で、時間も短くて済むと思った。
「ああ、私も思った。あの子、お祖父さんが税理士だったらしいんだけど、遺伝子受け継いでないのと思うくらい、鈍感よね」
お昼休みに派遣の同僚に愚痴を言うと、そんな事を言われた。
「やる気が感じられないし、私なんかこの前、直接指摘したんだけど、『はあ』とかしか言わないで、ムカついたわ」
他の同僚も酷く怒っていた。
「担当のおじさんは、専門学校の先生と揉めたくないので、アルバイトの子に何も言えないのよ。就職を斡旋してくれなくなると、困るんでしょ」
そんな意見も出た。
「神田さんも、言った方がいいよ。私達、舐められてるんだと思うから」
そうも言われ、律子は今度いい加減な仕事をしていたら、直接言おうと思った。
午後一番の仕事は、その平井のこなした書類の確認作業だった。
案の定、ほとんど何も見ていない状態で、訂正だらけだった。これじゃあ、確認作業じゃなくて、私が入力しているんじゃないの! 猛烈に腹が立ってきた律子は平井の席へ歩いていき、
「ちょっと、平井君、いい?」
すると平井はハッとしたように律子を見上げて、
「あ、はい、何でしょうか?」
ドギマギしたように立ち上がった。あまり慌てているので、
「どうしたの?」
律子は首を傾げて尋ねた。すると平井は、
「神田さんみたいな美人にいきなり声をかけられると、パニックになってしまうんです」
そこから先、律子は何を話したのかわからなくなってしまった。そして結局、平井はその後もとんでもない仕事を続けた。
「神田さん、美人で言われて、舞い上がっちゃったでしょ? あれ、あの子の常套手段なのよ」
隣の席にいる派遣の同僚に小声で言われた。
「そ、そうなんですか」
舞い上がってしまったのを自覚した律子は顔を赤らめて応じた。
数日後、流石に業を煮やした派遣組の有志が、担当者ではなく所長に直訴した。
平井と担当者は所長に叱責された。平井は何も感じていないような顔をして仕事に戻ってきたが、担当者は担当を外されて、別の職員が来るようになった。
そのうちに平井も居づらくなったのか、来なくなった。律子は何か心に靄がかかったような気がした。
(平井君、大丈夫かな?)
少しだけ平井の事が心配になった。
そんな事があった週末、律子は夫の陽太、愛娘の雪の三人で、公園に出かけた。
雪が陽太と追いかけっこをしているのをベンチに座って見ていると、聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
「クソババア共が所長に告げ口したせいで、怒られて、挙げ句の果てにみんなでシカトしやがって、冗談じゃねえと思ったんで、そのまま行くのやめたよ」
平井の声だった。友達とゲラゲラ笑いながら、律子達派遣社員の悪口で盛り上がっていたのだ。
(嫌な事聞いちゃった……)
律子は落ち込んでしまった。その様子に気づいた陽太が雪を伴って駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
陽太は律子の隣に座った。
「さっき、同じ職場のアルバイトの子が通りかかって、私達の事をクソババアって言ってさ……」
律子は聞いた事を全部話した。陽太は律子の肩を抱いて、
「気にしない、気にしない。所詮、そんな奴はどこかで痛い目を見るからさ。りったんは何も悪くないよ」
「そうかな」
律子は陽太の優しさに目を潤ませた。
「ママはわるくないよ」
雪が言った。律子はとうとう堪え切れずに泣き出した。
周囲の人々が驚いて注目するのも気にせずに。