予感
――あの少女は誰だろう。
僕はアスファルトの廊下をトボトボ歩いている。窓越しに日差しが当たり、脳がとろけてしまいそうだったが思考はあの女の子のことで一直線だ。
一目惚れという感覚ではないと思うが、何か突っかかるモノがある。と、言ってもその何かがわからないのだが。
校内の生徒はほとんどいなかった。そう言えば、今日は水曜日だったな。毎週水曜日は部活動がおこなわれない日で、部活動に入っている生徒も早々と帰ってしまったのだろう。僕の教室には、少人数ではあるが勉強に励んでいる生徒もいた。勉強ばかりして頭が腐らないのかな?
まぁ、勉強してれば将来には役に立つと思うけどな、でも一度きりの学生生活なんだからもっと青春しても何も文句はないんじゃないか。
――青春か。
自分で言って、自分で落胆に暮れる。
もし僕に恋人がいたら、どうなんだろう。デートしたり、一緒に弁当食べたり、キスしたり、セックスしたり……。
って、僕は何を考えてるのだろう。前言撤回。妄想に耽っていても、そんなことは出来ないのだから、彼女なんていないのだから。
……しかし、そんな僕でも時折オナニーはしてしまう。僕だって人間。思春期なんだからオナニーしたり、妄想に耽ってしまうことだってある。これだってlastに近づいている証拠で、人生1回は通る道。命と同じで抗うことは出来ない。そう思うと、勉強に浸っている生徒も家に帰ったらそういうこともしてしまうのかもしれない。でも、決していやらしいことではないと僕は思う。
けれどよくわからない。友達が言うほど、自分が思うほど、青春とか恋とかは簡単ではないのかもしれない。
「いろいろなことがあるよな、ホントに」
独り言をつぶやき、勉強をしている人のじゃまにならないようにそっと教室を出て行った。
コツコツとリズムよく階段を駆け下りる。階段の手すりは錆びていて、あまり触れたくなかった。触れてしまうと、鉄独特の臭いが手にこべりつくからだ。
最後の一段を踏み終え、前を向いた瞬間。
「あ……」
屋上で見た女の子がそこに立っていた。
「あ、君」
すると、彼女は俯いてしまった。僕は立ち尽くしたまま目の前にいる女の子の様子をぼんやりと見ていた。というか、完全に見入ってしまった。
背丈は僕の胸元までしかないけれど、髪は小川のようにサラサラで瞳の奥に宿っている何かが僕を金縛りにしてるみたいだ。今まで、あまり人間というモノに感じは入ったことがなかった。15年間生きてきて、ここまで何かに魅了されることはなかった。ここまで我を忘れて見入る事はなかった。
――そう、ここまで。
美しいと感じた事はなかったんだ。
でもやはり、何か突っかかっているモノが女の子からオーラーのようにモヤモヤ感じる。
「君。名前は?」
女の子はビクつきながら顔を上げ、小さく呟く。
「……来島……奈々」
耳を傾けなければ、微塵も聞こえないほどだった。
来島奈々。彼女には悪いが一度も聞いたことがない名前だ。おどおどしてることから、大人しい性格だと確定できる。しかし、同学年の生徒ならほとんどの名前と顔を知っている僕が知らないなんてことは学年が違うのか、それとも転校生か、多分前者だろう。転校生なら校内に情報が流れるはずだ。
「君って何年生?」
「……」
再び俯いてしまう。おどおどしすぎだな。これじゃ、話が円滑に進められないよ。
「お、おにーちゃんだ」
沈黙の中に美希のなんとも言えないフニャフニャ声が割り込んできた。
「美希」
軽く流すように答えたが、美希はすねたように顔を膨らませ僕に近づき、口に自分の手をあてた。おいおい、奈々ちゃんが見てるのに。こんなとこ見られたら――
――いない。
奈々ちゃんが立っていたところには、日にあたって浮かんでいる、白いチリしかなかった。そこに立っていたことすら疑問に思われるくらいに存在の気配がなかった。
――消えた。
「どうしたのおにーちゃん。……もしかして、恥ずかしいの?」
僕の視線が逸れていたことを美希は恥ずかしさを紛らわすための行為だと勘違いしている。
そんなことではない。――消えた? いや、僕と美希のやり取りの間にいなくなったのか。でも、ほんの一瞬目をそらしただけなのに。なんで?
「でも、ダメだなー。人がいないところでは私のこと『みー』って言うんだよ」
美希の言葉にピクッと頭が反応した。誰もいなかった?
「美希。誰もいなかったってどういう意味だ」
「うー。『みー』って言ってよ」
「ふざけたことは後で言え。誰もいなかったってどういう意味だ」
美希の顔がみるみる怯えた顔になっていく。どうやら、言葉と共に顔まで強ばってしまったらしい。
「え……だ、だって誰もいなかったよ。おにーちゃんを見かけたとき」
「嘘だろ。さっきまでここで話してたんだ。奈々ちゃんって子と」
美希の肩が少しだけ揺れた。美希の視線が僕の心を射抜くように鋭かった。
「奈々って……え、誰?」
「何だ。お前も知らないのか」
「う、うん。知らないよ」
「そうか――でも、ここで話してたんだ……」
ぽつりと呟く。背中からこみあげる悪寒が僕の心を歪ませる。
それで、悟った――