9 通過点
午前3時。功太は目覚めた。目を開くと、瞬時に眠気は霧散した。それはまるで雷に撃たれたような目覚めだった。布団から起き上がり、彼は歩き出す。フローリングの上を裸足で歩く。暗い部屋の中を彼は静かに歩く。淀みも歪みもない均一な足取りで。その歩みは、精巧な歩行玩具のそれのようだった。
「水だ」
猛烈な喉の渇きを覚えていた。前日、仲間たちと飲み交わした赤ワインのせいだろうかなどと考えながら歩く。キッチンまで行き、シンクの上の照明を点けた。蛍光灯の光に彼の顔は照らされる。その明るさに目がなかなか慣れない。功太は目を細めながら食器棚からグラスを出し、蛇口からそれに水を入れる。なみなみ注いで、一気に飲み干した。もう1杯。さらにもう1杯。止まらない。喉の渇きはなかなか癒えなかった。
「ぷは」
5杯目を勢いよく飲み終えたとき、彼はそのような声を発した。それは溺れる者がどうにか水面から顔を出したときに上げる声とほとんど変わらないものだった。空になったグラスを置いて、後頭部をさすりながら、彼は思う。今日は特にひどいと。こういうことはここ数年の間に何度もあった。喉が渇いて目が覚める。水を飲み出すと、止まらない。それは酒を飲んだ翌日に起きる傾向がある。だから、普段からなるべく飲酒は控えるようにしていた。しかし、宴会の席ではつい飲んでしまうし、昨日は特に仕方のないことだったと彼は思う。昨日のパーティーは彼にとってとても実りのあるものだった。作家の仲間たちが集まり、互いに話し合い、高級品を食べて、飲んだ。その会場には嘉島の伝手で、功太が話したことも、会ったこともない、何人かの著名な作家も来てくれていた。そんな彼らとも、短い時間ながら談義することができた。とても有意義で、刺激的なパーティーだった。また、彼はその会場で多くの祝福の言葉をもらった。展示した作品がいくつも売れたことについて、仲間たちは彼に惜しみない賛辞を送った。ここまで好評になるとは彼自身も予想していなかった。個展の会期はまだある。これからどこまで評価を高めることができるだろうかと彼は自身の未来に期待を寄せていた。
「寝るか」
彼は呟き、ふらふらと布団に戻る。布団に入り、目を閉じると一気に眠気はやってきた。おめでとう。よかったね。思い出される祝福の言葉。思わずにやりと笑って目を閉じる。そうして、芳しい蜜のような眠気に彼は身を委ねた。
携帯電話が鳴って、彼は目覚めた。枕元の置き時計は10時を示していた。さすがに眠り過ぎたと彼は反省する。むくっと起き上がる。電話が鳴り続けている。画面に目をやると、発信者には「嘉島惣太郎」の名前。寝起きの声で電話に出る。
「はい、井村ですが。どうしました?」
「とんでもないことになった」
電話の向こうで、興奮気味に嘉島は話す。
「どうかしたんですか」
「とにかくギャラリーまで来てくれないか」
とにかく来てくれとはどういうことか。功太は首をひねる。その日、ギャラリーに行く予定はなかった。昼までに作品を1点仕上げ、あとはゆっくり家で読書をして過ごす予定だった。しかし、嘉島の様子から一体何が起きたのか気になり、行ってみることにした。
「分かりました。行きましょう」
と言って電話を切り、シャワーを浴びて、着替えて、外へ出る。駅まで歩き、電車に乗り、バスに乗り、ギャラリーに着くと、時刻は正午になるところだった。
「やあ、井村君」
ギャラリーに入るなり、嘉島は両腕を広げて言った。功太を待ち構えていたという様子だった。カウンターの向こうでは、田山が静かに、そして、どこか悲しげな様子で立っている。
「今日はどうしたんですか。急に」
「THAT’S ARTだ」
「なんですって?」
「編集部から、連絡があったんです」
「ザッツアートとは、なんのことでしょうか」
「なんと、知らないのか」
「ええ、あとで調べてみます」
のんびりと受け答えする功太に、嘉島は急かすような口調で言う。
「とにかく、連絡をもらいたいそうなんだ」
「そうなんですか?」
嘉島は電話番号の書かれたメモを功太に手渡した。そのメモには、「03」から始まる電話番号と、「ナミキ」という人名が書かれている。メモをじっと見つめる功太に嘉島は言った。
「いいかい。井村君。THAT’S ARTはそれなりに伝統的な、そこそこ権威のある雑誌だ。君が生まれる前から、その時代の最新情報を提供している。アートに関して。その会社が私たちに連絡を取ってきた。どういうことか、分かるかい」
「取材ですね?」
「そういうことだ。君の個展について知ったのだろう。今朝、このギャラリーに電話がかかってきたんだ。最初、田山君が受けてくれたのだが。えらく冷たく接してきたそうだ」
「冷たく?」
「そうだ。彼らは興味がないのだろう。作り手と対話ができればそれでよい。君にアクセスするために必要な通過点。そんな風にしか田山君のことを考えていなかったのだろう」
「ひどい話だ」
そう言いながらも、功太は胸の片隅に誇らしい気持ちを抱いた。受付係など歯牙にもかけない、伝統的な、権威ある情報媒体を作る者たち。そんな者たちが、自分に近付こうとしてきている。よい気分にならずにはいられなった。その一方で、そのような心がひどく浅ましく、醜く思えた。そんな浅ましさと醜さを打ち消そうとするかのように、田山の近くへ歩み寄り、そっと慰めの言葉をかけた。
「田山さん、あんまり気にしないでください」
急に彼女は目に涙を浮かべて俯いた。そして、震える声で話した。
「あの人は、私を人として扱っていなかったんだと思います。そのことが、とても悔しい。罵倒されたとか、そういうことではないのですが。ただ、本当に伝わってくるんです。声の感じで分かるんです。あなたになんて関心がない、興味がないって、つくづくそう言いたいということが、骨身に染みて伝わってくるんです。それは素っ気ない対応だとか、そういうレベルのものじゃ断じてありません。その声を聞いているだけで、心の底まで冷え込んでしまうような。話しているだけで震えて、凍えてしまうような。あの人、ナミキさんという人は、そんな話し方をする人なんです。電話越しでも伝わってくるんです。どうぞ、お気を付けて」
「分かりました」
功太は握りこぶしを作った。彼女をここまで悲しませるナミキというのはどのような人物なのか。彼は気になった。電話1本でここまで人を悲しませ、落ち込ませる。そんな極悪の人間に立ち向かう。嫌でも彼の戦意は高まった。
「ちょっと、井村君」
電話をかけようとしたまさにそのとき、嘉島に呼び止められる。
「はい」
「いけない。そんな気持ちで電話をかけてはいけませんよ。私も少し話をしました。ナミキさんと。田山君から、急ぎの案件ということで携帯電話に連絡をもらったんです。それで、私から直接電話をかけた。相手の要求は、とにかくギャラリーのオーナーか、作家本人と話をさせてくれということでしたから。田山君から話を聞いて、私もいささか横柄な手合いだと思ったが、THAT’S ARTという名前を聞いてハッとしましたよ。ここは、慎重にいくべきだとね。丁寧に話をしてください。いいですか、丁寧に」
「ええ、それはもちろん。権威のある雑誌なのでしょうからね」
少しふてくされたような態度で、皮肉めいた口調で功太は言った。すると、嘉島が大きな声で言う。
「君は分かっていないんだ!」
功太はその迫力に押され、一瞬ひるむも嘉島に問いただす。
「何をですか?」
「THAT’S ARTには権威がある。それがどういうことか」
「どういうことですか」
「THAT’S ARTに認められれば、一気にその作家の評価は高まる。その逆も然りということだ」
「逆、つまり」
「消えていった作家も大勢いるということ。その中の何人かは将来を嘱望されながらも、紙面で批評家たちから、雨のような批判の言葉を浴びせられ、すっかり制作意欲を失った者もいるんだ。そして、そのまま行方が分からなくなった者も。私は何人か知っているんだ」
「そんなバカな」
「バカな話ではありません」
嘉島の堂々とした言い振りに功太は戸惑い、やがて確信する。嘉島の話していることは、決して誇張されたものではないのだと。
「分かりました。話をしてみましょう。そのナミキという人と」
嘉島は無言で頷いた。そして、メモに書かれた番号に功太は電話をかける。1回、2回と呼び出し音が鳴る。