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海底ギャラリー  作者: roak
8/30

8 出来事

 ティルルル、と携帯電話が鳴った。

「おっと、失礼」

 と嘉島は言い、胸のポケットから電話を取り出して話し始める。

「どうした?おお、そうか。分かった。私も立ち会おう」

「どうされました?」

 雄人は尋ねた。嘉島はにこりと笑い、答えた。

「売れたのです。また1点」

 嘉島の嬉しそうな顔。功太の作品が売れた。雄人はどうにも現実のこととは思えず、力ない声色で言った。

「そうですか」

「では、急で申し訳ないですが、私はこれにて」

 嘉島は言う。

「はい」

 雄人と真利子は返事をする。嘉島はそそくさと立ち上がり、ネクタイを締めて上着を着る。そして、言った。

「私の名刺を置いていきます」

 テーブルの上に置かれた1枚の名刺。横書きで、大きく、堂々とした楷書体が印象的。「嘉島 惣太郎」と書かれている。肩書きは「海底ギャラリーオーナー」。下部には、小さな文字でギャラリーの所在地と固定電話、携帯電話の番号、そして、メールアドレスが記されていた。

「どうも。ありがとうございます」

 彼に連絡することが、この先果たしてあるだろうかと雄人は思うが、置かれたその名刺を丁重に拾い上げ、受け取った。

「それでは、さようなら」

 嘉島は背を向けて歩き出す。2、3歩進んだところで突然振り返り、言い放つ。

「1つ、はっきりさせてください」

 不意を突かれ、きょとんとした顔の雄人と真利子に、弁解するような口調で嘉島は言った。

「彼は、確かに普通でないかもしれない」

 彼とは、功太のこと。嘉島は言う。今度は店内に響き渡るような声で。高らかに宣言するように。

「しかし、普通ではないからといって、作品の価値が下がることはない。これだけは今、ここで、断言しておきましょう」

 言い終えると、彼は足早に去っていった。雄人と真利子は呆然と嘉島の背中を見送った。ふと真利子がテーブルの上に視線を落とすと、1万円札が1枚置かれていた。コーヒーがわずかに残ったグラスの後ろに隠れるように、それはひっそりと置かれていた。

「これはちょっと、もらい過ぎだよね」

 真利子が言う。彼女が拾い上げた現金を見て、雄人は言う。

「ああ、後でギャラリーへ返しに行こう」

「そうね」

 ホットサンドを食べながら、飲み物を飲み、雄人と真利子は話した。ギャラリーで会った井村功太について。そして、学生の頃の井村功太について。

「あいつがあんなことになってたとは」

 最初に、雄人が独り言のように呟いた。

「彼は、変わった?」

 真利子に問われ、雄人は答えた。

「いや、変わってはいない。普通に話をする分には、昔のあいつのままだった。前回、会って話したのは、もう大分前のことだけど覚えてるよ。基本的には、あいつは変わってない。そうだ、基本的には。君はどう思った?あいつについて」

「基本的にはいい人に見えた。基本的にはね」

「もちろん、あいつは、悪いやつじゃない。いいやつだ。基本的には」

「そうね」

「だけど、今日、会ってみて、変わったと思ったところもある」

「そうなの」

「ああ」

 飼い犬の事故の話、嘉島から聞いた先駆者の話、そして、あれだけの作品を彼が作ったという事実。功太の何かが変わった。激しく、明らかに。しばらく会わない間に、彼の、何かが、劇的に変わった。このことは認めなければならないと雄人は思う。真利子が尋ねる。

「井村さんとどうやって知り合ったの?学生の頃はどうだったの?」

「最初にあいつに会ったのは」

 雄人は話した。功太と出会った日のことについて、同じ授業でたまたま席が近かったことを。休日に遊んだことについて、居酒屋やゲームセンターへふらふら遊びに出かけたことを。スポーツを楽しんだことについて、学校近くの公営プールでのんびり泳いだことを。そして、遠くへ出かけたことについて、自転車で隣の、隣の、さらに隣の町まで、ぶらりと泊まりがけの旅をしたことを。それらは、彼と過ごした何気ない時間の、何気ない出来事だった。そのときには、目を見張り驚くようなことも、腹を抱えて笑うようなこともあったのかもしれないが、今になって、1つ1つの出来事を振り返り、言葉にしていくと、取り立てて劇的な変化も展開もない、どこか平坦で退屈な話になってしまった。しかし、その何気ない出来事の、そのときの光景が、そのときの空気が、今となっては記憶の中で、淡く、美しく輝いていることを、雄人は話しながら知るのだった。雄人と功太が好きだった学食のメニューについて話をし始めたところで、真利子が小さなあくびをした。それを見て、雄人は言った。

「まあ、こんなところかな」

「話してくれてありがと。仲良かったんだね」

「まあね。そろそろ行こうよ」

「うん」

 席を立ち、会計を済ませて店を出た。

 もらい過ぎた現金を返すため、ギャラリーに立ち寄ると、嘉島はそこにいなかった。カウンター越しに淡々とした口調で田山が言う。

「オーナーは出かけてしまい、あいにく今は不在にしています」

「そうですか」

 と言って、雄人は肩を落とす。田山が言う。

「何か、お急ぎの用件でしたら、携帯に連絡しましょうか」

「あ、いいんです。別に」

 と言ってから、彼は携帯と聞いて、嘉島からもらった名刺のことを思い出す。真利子と1度ギャラリーを出て、早速電話をかけてみた。

「はい、嘉島ですが」

「先程はありがとうございました。片桐です」

「ああ、どうも、これは」

「あの、今、お電話よろしいですか」

「ええ」

「あの、お金をお返ししたいのですが」

 すると、大きな声で笑ってから嘉島は言った。

「ああ、あれはいいんですよ。細かい手持ちがなかったもので。お恥ずかしい話でなかなか言い出せず、つい、ああしてしまったのです。お気遣いありがとう。どうぞ、気にせず受け取ってください」

「いや、しかし」

「遠慮せずに。ですが、まあ、そうですね、どうしても、ということであれば、受付の田山に預けておいてもらえますか」

「はい、そうさせてもらいます」

 電話を切る。そして、彼は真利子に言う。

「受付の田山さんに預けよう」

「それがいいと思う」

 と言い、笑顔で彼女も賛同してくれた。再びギャラリーへ行き、雄人が田山に事情を話すと、彼女は笑って答えた。

「気になさらないで。ああ見えて、オーナーも照れ屋なところがありますから。それでも、どうしてもということでしたら、私の方でお預かりしましょう」

「ええ、お願いします」

 と言い、雄人は財布から紙幣と小銭を出して田山に渡した。ちょうど割り勘になるように。2人は田山に礼を言い、別れを告げてギャラリーを出た。自動ドアが開き始めたとき、大きな声で田山は言った。

「嬉しかったんだと思います」

 振り返る雄人と真利子。2人に向かって田山は言う。

「あなた方のようなお客さんが来てくれたこと、オーナーはとても喜んでいました」

「はあ、そうですか」

 どういうことか今ひとつ理解できず、雄人は生返事をする。

「あの、私が今言ったことは秘密にしていただきたいのですが」

 そんな田山の言葉に、雄人は笑顔で返す。

「分かりましたよ」

 ギャラリーを出る。相変わらず空は青く、強い日差しが照りつける。猛烈に暑くなった車の中へ雄人と真利子は意を決して乗り込み、宿泊先のホテルへ向かい出発した。

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