8 出来事
ティルルル、と携帯電話が鳴った。
「おっと、失礼」
と嘉島は言い、胸のポケットから電話を取り出して話し始める。
「どうした?おお、そうか。分かった。私も立ち会おう」
「どうされました?」
雄人は尋ねた。嘉島はにこりと笑い、答えた。
「売れたのです。また1点」
嘉島の嬉しそうな顔。功太の作品が売れた。雄人はどうにも現実のこととは思えず、力ない声色で言った。
「そうですか」
「では、急で申し訳ないですが、私はこれにて」
嘉島は言う。
「はい」
雄人と真利子は返事をする。嘉島はそそくさと立ち上がり、ネクタイを締めて上着を着る。そして、言った。
「私の名刺を置いていきます」
テーブルの上に置かれた1枚の名刺。横書きで、大きく、堂々とした楷書体が印象的。「嘉島 惣太郎」と書かれている。肩書きは「海底ギャラリーオーナー」。下部には、小さな文字でギャラリーの所在地と固定電話、携帯電話の番号、そして、メールアドレスが記されていた。
「どうも。ありがとうございます」
彼に連絡することが、この先果たしてあるだろうかと雄人は思うが、置かれたその名刺を丁重に拾い上げ、受け取った。
「それでは、さようなら」
嘉島は背を向けて歩き出す。2、3歩進んだところで突然振り返り、言い放つ。
「1つ、はっきりさせてください」
不意を突かれ、きょとんとした顔の雄人と真利子に、弁解するような口調で嘉島は言った。
「彼は、確かに普通でないかもしれない」
彼とは、功太のこと。嘉島は言う。今度は店内に響き渡るような声で。高らかに宣言するように。
「しかし、普通ではないからといって、作品の価値が下がることはない。これだけは今、ここで、断言しておきましょう」
言い終えると、彼は足早に去っていった。雄人と真利子は呆然と嘉島の背中を見送った。ふと真利子がテーブルの上に視線を落とすと、1万円札が1枚置かれていた。コーヒーがわずかに残ったグラスの後ろに隠れるように、それはひっそりと置かれていた。
「これはちょっと、もらい過ぎだよね」
真利子が言う。彼女が拾い上げた現金を見て、雄人は言う。
「ああ、後でギャラリーへ返しに行こう」
「そうね」
ホットサンドを食べながら、飲み物を飲み、雄人と真利子は話した。ギャラリーで会った井村功太について。そして、学生の頃の井村功太について。
「あいつがあんなことになってたとは」
最初に、雄人が独り言のように呟いた。
「彼は、変わった?」
真利子に問われ、雄人は答えた。
「いや、変わってはいない。普通に話をする分には、昔のあいつのままだった。前回、会って話したのは、もう大分前のことだけど覚えてるよ。基本的には、あいつは変わってない。そうだ、基本的には。君はどう思った?あいつについて」
「基本的にはいい人に見えた。基本的にはね」
「もちろん、あいつは、悪いやつじゃない。いいやつだ。基本的には」
「そうね」
「だけど、今日、会ってみて、変わったと思ったところもある」
「そうなの」
「ああ」
飼い犬の事故の話、嘉島から聞いた先駆者の話、そして、あれだけの作品を彼が作ったという事実。功太の何かが変わった。激しく、明らかに。しばらく会わない間に、彼の、何かが、劇的に変わった。このことは認めなければならないと雄人は思う。真利子が尋ねる。
「井村さんとどうやって知り合ったの?学生の頃はどうだったの?」
「最初にあいつに会ったのは」
雄人は話した。功太と出会った日のことについて、同じ授業でたまたま席が近かったことを。休日に遊んだことについて、居酒屋やゲームセンターへふらふら遊びに出かけたことを。スポーツを楽しんだことについて、学校近くの公営プールでのんびり泳いだことを。そして、遠くへ出かけたことについて、自転車で隣の、隣の、さらに隣の町まで、ぶらりと泊まりがけの旅をしたことを。それらは、彼と過ごした何気ない時間の、何気ない出来事だった。そのときには、目を見張り驚くようなことも、腹を抱えて笑うようなこともあったのかもしれないが、今になって、1つ1つの出来事を振り返り、言葉にしていくと、取り立てて劇的な変化も展開もない、どこか平坦で退屈な話になってしまった。しかし、その何気ない出来事の、そのときの光景が、そのときの空気が、今となっては記憶の中で、淡く、美しく輝いていることを、雄人は話しながら知るのだった。雄人と功太が好きだった学食のメニューについて話をし始めたところで、真利子が小さなあくびをした。それを見て、雄人は言った。
「まあ、こんなところかな」
「話してくれてありがと。仲良かったんだね」
「まあね。そろそろ行こうよ」
「うん」
席を立ち、会計を済ませて店を出た。
もらい過ぎた現金を返すため、ギャラリーに立ち寄ると、嘉島はそこにいなかった。カウンター越しに淡々とした口調で田山が言う。
「オーナーは出かけてしまい、あいにく今は不在にしています」
「そうですか」
と言って、雄人は肩を落とす。田山が言う。
「何か、お急ぎの用件でしたら、携帯に連絡しましょうか」
「あ、いいんです。別に」
と言ってから、彼は携帯と聞いて、嘉島からもらった名刺のことを思い出す。真利子と1度ギャラリーを出て、早速電話をかけてみた。
「はい、嘉島ですが」
「先程はありがとうございました。片桐です」
「ああ、どうも、これは」
「あの、今、お電話よろしいですか」
「ええ」
「あの、お金をお返ししたいのですが」
すると、大きな声で笑ってから嘉島は言った。
「ああ、あれはいいんですよ。細かい手持ちがなかったもので。お恥ずかしい話でなかなか言い出せず、つい、ああしてしまったのです。お気遣いありがとう。どうぞ、気にせず受け取ってください」
「いや、しかし」
「遠慮せずに。ですが、まあ、そうですね、どうしても、ということであれば、受付の田山に預けておいてもらえますか」
「はい、そうさせてもらいます」
電話を切る。そして、彼は真利子に言う。
「受付の田山さんに預けよう」
「それがいいと思う」
と言い、笑顔で彼女も賛同してくれた。再びギャラリーへ行き、雄人が田山に事情を話すと、彼女は笑って答えた。
「気になさらないで。ああ見えて、オーナーも照れ屋なところがありますから。それでも、どうしてもということでしたら、私の方でお預かりしましょう」
「ええ、お願いします」
と言い、雄人は財布から紙幣と小銭を出して田山に渡した。ちょうど割り勘になるように。2人は田山に礼を言い、別れを告げてギャラリーを出た。自動ドアが開き始めたとき、大きな声で田山は言った。
「嬉しかったんだと思います」
振り返る雄人と真利子。2人に向かって田山は言う。
「あなた方のようなお客さんが来てくれたこと、オーナーはとても喜んでいました」
「はあ、そうですか」
どういうことか今ひとつ理解できず、雄人は生返事をする。
「あの、私が今言ったことは秘密にしていただきたいのですが」
そんな田山の言葉に、雄人は笑顔で返す。
「分かりましたよ」
ギャラリーを出る。相変わらず空は青く、強い日差しが照りつける。猛烈に暑くなった車の中へ雄人と真利子は意を決して乗り込み、宿泊先のホテルへ向かい出発した。