5 数値化
「この作品は、特別な作品だ」
特別という言葉に重みを加えて彼は言った。
「特別」
雄人は言う。
「ああ、今回の展示でもそういう作品は何点かある。全体のうちの数点と言っておこう。その数点にこの作品は間違いなく入る」
「数点ですか」
真利子が言った。功太が答える。
「そうです。今回展示している37点のうちの数点だから、ごくわずかだ。雄人たちがこの作品に注目してくれたのなら、まず、そのことにお礼を言いたい。ありがとう。俺としても、とりわけ力を込めて作ったものだから。ここにあるほかの作品たちよりも、気になる何かを感じ取ってくれたというのなら、作った甲斐があったというものだな。もちろん、ほかのがよくないってわけじゃないんだけどね」
そして、彼は苦笑してみせた。
「そっか。で、どんな意味があるんだ?」
雄人は聞く。
「ああ、そうだな。端的に言うなら、『突然の悲劇』といったところか」
「悲劇」
「ああ、悲劇だ。タイトルは『透視鏡』だが、それは表向きのタイトル。本当のテーマは『突然の悲劇』なんだ。それが裏タイトルだと言っておくよ。それをそのままプレートに書いてしまうと、あまりにも赤裸々で、馬鹿正直で、なんだか品がない気がするから、仮のタイトルをみんなには見てもらってるわけで」
真利子が功太に聞く。
「悲劇ですか。何か、悲しいことがあったんですか」
「そうですね。正直、あれはかなり落ち込んだ。人生、何が起きるか分からないと思った。本当、あれには参ったね」
と言うと、功太はジャケットのポケットからハンカチを取り出して目頭を抑えた。
「あれってなんだ?何があったんだ」
深刻な顔で雄人は聞いた。すると、功太はその作品ができる経緯について話し始めた。ハンカチをしまいながら。
「その動物の像にはモデルがある。正確に言えば、『いた』ということになる。あれは2年前のことだ。俺は犬を飼っていた。大事な大事な愛犬だった。知り合いの飼犬に子犬が生まれたというので、1匹譲り受けたんだ。ペットを飼うのは初めてだった。最初は大変だった。餌をやったり散歩をしたり。でも、俺に懐いてくれて、俺のことを頼りにしてくれて、そして、俺自身もあいつを心のどこかで支えにしていた。あいつは、かけがえのない存在だった。名前はレックス。その名を大きな声で呼べば、今でもどこかから駆けてきてくれそうな気がする。鳴き声だって、今でもはっきり耳に焼きついている。そうだ、特別な存在だった」
「その、レックスがモデルなんですね」
悲しげな顔で真利子は言った。
「ええ、そうです。あいつの写真を見て、そっくりな形にした。あいつが映っている動画も、何度も何度も再生して、形を確かめた。あの日、俺は寝る間も惜しんでコンピュータの中に描画した。再現しようとした。あいつの、レックスの姿を。新しい命を与えるかのように。あいつの姿、全部をデータ化しようとしたんだ。本当に、全てを。耳の形、鼻の大きさ、胴の太さ、尻尾の長さ。そういったものを丁寧に丁寧に確かめて、数値化して、とうとう完成したんだ。ほぼ完全な3Dモデル化だったと思う。あいつは、本当に頭のいい犬だった。賢かった。そして、愛らしく、大切だった。だから、どうしても作品にしたかった。作品という形で、現在に、そして、未来に残したいと思ったんだ。忘れられないあいつの姿を、そして、あの悲劇を、3Dエレクトロファインアートという形に昇華させて」
彼の「3Dエレクトロファインアート」の発音は、とても滑らかだった。英語を母語とする人が日常会話の中で何気なく発したかのような。そんな軽やかさと柔らかさまで感じさせるものだった。
「レックスは、死んでしまったのか?」
雄人は聞く。すると、真剣な表情で無言のまま、彼は重々しく頷いた。それから、しばらく間を置いて、彼は言う。
「あの日のことはよく覚えている。草の匂い。エンジンの音。あれが起きたときのことは、そうだ、今でも鮮明に覚えている。河川敷近くのいつもの散歩コースを歩いていたときのことだ。あれが起きたんだ」
「あれ、ですか」
と真利子が言うと、功太は答える。
「うん。あれというのは、事故だ。思いがけない事故だった。あれは、道路を横断しようとしたときのこと。猛スピードで走ってくる1台のワゴン車があった」
それから、彼は大きく息を吸って吐き出した。そして、また話し出す。
「普通ならすぐに道路を渡ってしまえばいい。それだけのことだ。あのとき、俺が渡ろうとしていたところに横断歩道はなかったけど、車もほとんど走っていなかった。さっさと渡ってしまえば、それで何も起きないんだ。でも、あのときは違った」
「何が違ったんだ?」
雄人が聞くと、功太は答える。
「道路の真ん中でレックスが立ち止まってしまったんだ。それで、すっかり座り込んで、動かなくなった。仕方なく、俺も近くで立ち尽くした」
「道路の真ん中で?危ないだろ」
雄人が言う。すると、功太はゆっくり首を横に振り、言った。
「交通量の少ない、割に細い道路なんだ。しばらく車が通らないなんてことはよくあることで。だから、俺はあいつの気が済んで、立ち上がるまで待っていた。気が済むまでとことん待ってやろうと思った。だが、いつまでもというわけにはいかない」
「車が来たんだな」
雄人が確かめる。功太は頷き、言う。
「その通り」
「逃げなきゃ」
真利子が言う。功太は再び頷いて言う。
「まず、遠くから走行音が聞こえた。エンジンの音。タイヤとアスファルトが擦れ合う音。それから、車体が見える。黒いワゴン車だった。そいつはどんどん近付いてくる」
「何してるんだ。早く逃げろよ」
雄人が言う。すると、声を大きくして功太は言う。
「ワゴン車はスピードを緩めない。クラクションを鳴らす。何度も、何度も。執拗に。お前が避けろと。ここは俺の道だと。そう言いたげに。減速する気配もなく、こちらに向かって突進してくる」
「リードを、リードを引っ張って」
真利子が少し焦りながら言う。功太は首を横に振り、言い放つ。
「だめだったんだよ。だめだったんだ。本当に信じられないことに、それはだめだったんだ」
「だめだったってどういうことだよ」
雄人は言う。意図せず口調が荒くなる。そんな雄人に向かって、落ち着いた様子で功太は語る。
「レックスは座り続けた。車が来ているにもかかわらず、あいつはまるで昼下がりの庭先でくつろいでいるかのようだった。もちろん、俺は頑張ったさ。衝突から逃れるため、できることはしたつもりさ。リードを強く引っ張った。それはもう、力一杯に。目一杯に。全身の力を注いだ。だが、レックスはビクともしなかった。どういうわけか、本当にピクリとも動かなかった。まるでレックスは岩になったかのようだった。岩になり、重くなり、道路のアスファルトと一体となってしまったかのように。それぐらいあのときのあいつは、動かせなかった。ワゴン車はどんどん近付いてくる。もうだめだ。そう思ったとき、俺はほとんど無意識にリードから手を離し、路肩に逃げていた。逃げてしまったんだ。でも、あのとき、同じ状況に置かれたら、きっと誰だってそうするはずだ。そして、聞こえる。どん、という大きな音。そのまま去っていくワゴン車。それで、分かる。レックスはやはり、岩になどなっていなかったと。1体の動物で、1匹の犬で、正面から自動車と衝突して耐えられるわけもなく、跳ね飛ばされ、口から血を流し、体を震わせながらそのまま息絶えてしまった」
雄人と真利子は黙り込む。功太もしばらく俯き、黙り込んだあとで小さな声で言う。その声は少し震え、深い悲しみの感情を漂わせていた。
「それから、俺はレックスを抱きかかえた。まだ温かい。だが、まるで動かない。呼びかけても動いてくれない。抱いたまま、近くの河川敷へ行った。河川敷に着いたら、俺はそっとその亡骸を地面の上に下ろして、近くにしゃがみ、しみじみと眺めた。そして、深い寂しさと悲しみの中、レックスが息絶える瞬間の姿を思い返す。強い衝撃のあと、失われていく命の、最後の輝きを。血液の赤、痙攣する体。涙が出た。嗚咽した。だが、同時に俺は思ってしまったんだ。思ってしまったんだよ。思ってしまったのなら、これはどうしようもないことなのかもしれないけど、俺は思ってしまったんだ」
雄人は聞いた。
「何を、思ったんだ?」
功太は言う。目を見開き、力強く、その一言を。
「美しいと思ってしまったんだ」