4 四足獣
1点の作品が雄人の目に留まる。その作品の形は、竹輪麩を彼に連想させた。おでんの具材に使われる、あの竹輪麩だ。まるで巨大な竹輪麩を立てて置いたような形をしている。その高さは、雄人の肩ほどもある。例によって、その作品も透明感があり、表面には光沢があり、そして、中から光を放っている。鮮やかな緑色の光が、強くなったり弱くなったりするのを繰り返している。そして、その中には透けて見える模様がある。黒い輪だ。小さな浮き輪のようなものが、その竹輪麩のような形をした構造物の中、横倒しになって浮かんでいる。
「これは一体」
小さな声が雄人の口からこぼれた。その作品の周りをぐるりと歩き回り、違った角度から鑑賞してみる。すると、ある角度で突然、その輪は球体に変わった。観る角度によって内部の模様が変わるという嘉島の言葉を思い出す。こういうことかと雄人は理解する。床に置かれたプレートを見る。そこには作品の制作された年とタイトルが小さな字で記されていた。作られたのは1年前。タイトルは「Torus 02」とある。
トーラス。雄人は考える。確か、輪のような立体物をいう言葉。例えば、ドーナツのような。この作品の主役は、竹輪麩のようなものの中に閉じ込められている、あの浮き輪のようなものなのだろう。
近くで別の作品を観ていた真利子に肩を叩かれる。
「ねえねえ、これ観てよ」
真利子は作品を指さして言う。
「何?」
「ほら、これ、凄いの」
雄人の目にまず飛び込んだのは、冷蔵庫のように大きな四角いブロック。そのブロックから犬と思われる動物の首が、前足が、胸部が飛び出している。2本の前足は地面をしっかりととらえており、首はやや上を向き、遠吠えをしているかのよう。別な見方をするならば、地面に立っている1頭の四足獣の像が、その腹部から後ろを四角いブロックで覆われ、隠されていると言い表すこともできる。その作品も、やはり3Dエレクトロファインアート。透明で光沢があり、光を放っていた。動物の体は赤く、大きなブロックは紫色に光っている。そして、ブロックの中はというと、白い板のようなもので光が遮断されていて透けて見えるものは何もない。
「こっちに来てよ」
真利子が手招きする。彼女の方へ歩いていく。
「こっちから観て」
今度は動物が体を露出させている反対側、つまり、動物の背面側からブロックの中を覗き込んだ。すると、そこには背を向けて立つ1頭の動物の姿が見えた。背中も、後ろ足も、尻尾も見える。完全な姿がそこにはあった。その透明で、欠けたところのない姿は、ブロックの中で赤い光を力強く発している。
「今度はこっちから見て」
真利子は、さらに奥の方へ回り、指をさす。
「ここから観て」
彼女が指で示しているのは、最初に見たブロックの面とはちょうど反対側の面だった。
「おっ」
回り込み、ブロックの中を覗くと雄人は思わず声を上げた。今度は解剖標本とでも言うべき状態の動物の像が、ブロックの中に見えたのだった。ブロックに包まれている部分、つまり、腹部から尻尾にかけての骨、内臓、筋肉といった構造が細かく形作られ、組み立てられている。そして、それら1つ1つは赤、青、緑の光によって色分けされ、それぞれが異なる時間の間隔で点灯と消灯を繰り返している。それは、一見美しいものに見える。花壇に咲き乱れる花。広がって夜空を彩る花火。それらに似た美しさがある。しかし、同時にどこか残忍で冷酷な雰囲気が、その作品には漂っているように雄人は感じた。彼はその作品を前にして、ある疑問を持たざるを得なかった。なぜ、功太はこういうものを作ったのか。
「傑作の1つです」
背後から声が聞こえ、雄人と真利子は振り返る。すると、さっきまでほかの客と話をしていた嘉島がそこにいた。
「傑作ですか」
雄人は言う。
「ええ、全体に漂う緊張感。そして、生命の力強さと美しさ。彼はこの作品で表現してみせた」
「緊張感。分かります。この気持ち。なんだろうと思ってたけど、そうだ、緊張感だ」
真利子が言う。
「どうしてこういうものを功太は作ったのだろう」
雄人が呟くと、懐かしい声が聞こえてきた。
「やあ、雄人じゃないか」
雄人は声のする方へ振り向き、久しぶりに見る功太の姿に思わず大きな声を上げる。
「功太!」
彼の顔からは、学生の頃にはあった肌のハリがいくらか失われており、彼もまた歳を取ったのだということを雄人は知る。しかし、基本的には彼の顔は変わっていなかった。目も、鼻も、口もかつてとほとんど同じ位置。形もほぼ同じ。
「来てくれてありがとう。正直に言って、本当にここまで来てくれると思わなかった。本当にありがとう」
声に驚きの感情を滲ませながら、功太は感謝の思いを伝えてきた。
「こっちこそ、招待状ありがとな。見たいと思ったんだよ。どんな作品なのか」
と雄人は言う。
「それは嬉しいね。ぜひとも今日はたっぷり見て、楽しんでいってくれよ。あと、ここはどうだ?この、海底ギャラリーはどう思う?いい場所だと思わないか?」
「ああ、なんだか本当に海底に来たような気分になる。不思議だ。いい場所だと思う。ただ、少し寒いけど」
その言葉を聞いて、功太は小さく笑ってみせた。彼はジャケットを着込んでいた。「海底」の寒さ対策は万全のようだった。室温について知っていたのなら、招待状に書いておけと雄人は思ったが、身にまとった毛布のおかげで今は寒さを感じていないし、それになんと言っても、せっかくの久しぶりの再会に水を差したくはないので、言わないことにした。
「俺の作品はどうだ?」
と功太が聞いてくる。雄人は答える。
「正直に言って、驚いた。俺は美術とか、芸術とか、ほとんど知らないけど。凄いのはなんとなく分かる。よく作ったな」
「ありがとう。ただ、まあ、そうだな。作りたいと思ったから作った。言ってしまえば、それだけのことさ。何も凄くはないんだよ。これも、あれも、あいつらもな」
方々で展示されている作品を指さして彼は言う。作りたいから作った。では、どうして作りたくなったのか。その元となる動機が一体なんなのか。雄人は気になった。功太が自信に満ちた声で言う。
「俺が制作するとき大事にしてるのは衝動なんだ」
「衝動」
雄人が言うと、功太は大きく頷き、説いた。
「そうさ。衝動だ。無性にやってみたくなる。形にしてみたくなる。思い付いたことを。頭に浮かんだことを。そこから全てが始まるんだ。こういう主張をしたい。こういうメッセージを届けたい。そういうのはもちろんある。あるにはある。でも、それは結局、後から伴うものなんだ。ああ、こう考えていたから俺はこういう作品を作ったのかもしれないと。こういう風なことを伝えたいと思っていたから、こいつはこういう形になったのかもしれないと。でき上がってから、ふとそう思うときがある。思い当たるときがある。そして、多分だけど、本当にそういうものなんだよ。大体が。いや、全てがそうだと言っていい。ここに並んでいるこいつら。こいつら全てが、そういうものだと言ってもいいんだと思う。衝動から始まって、作り終えてから、後になって、気付く。そんな感じだ。俺の場合は、テーマとか、メッセージとか、そういうのを前提に考えてしまうと、そういうのありきになっちまうと、なんか上手くいかないんだよ。反対に。気持ちが前のめりになるっていうのか。そうすると、なんだかよく分かんないけど、作る形がぐにゃぐにゃになっちまうんだ。それで、どうにもこうにもまとまらなくなって、修正がきかなくて、最後は捨てる」
そうして、功太は笑った。屈託のない笑顔だった。それは2人が互いに学生だった頃、雄人が何度も見たものだった。雄人は言う。
「紹介が遅くなったけど、妻の真利子だ」
「初めまして。真利子と言います」
真利子は功太に会釈した。
「初めまして」
功太も会釈する。そして、雄人に向かって言った。
「素敵な人じゃないか」
「ありがとう。この通り、いい妻だよ。美人で、気立てもよくて、俺にはもったいないかもしれないなあ」
と雄人が言うと、
「ねえ、それどこまで本気で言ってるの?」
少し怒ったような口調で真利子は言う。それから彼女は功太に言った。
「井村さん、もしよかったら、こちらの作品を解説してくれませんか」
「いいですよ」
と功太は笑顔で応じた。真利子が解説を求めたのは、さっきまで2人で鑑賞していた四足獣の作品だった。そして、功太が解説を快諾したときのこと。それは、ごく一瞬のことだった。だが、雄人は確かに見た。一瞬、ごく一瞬の間、功太の目が、顔つきが深い闇に満ちたものに変わったのを。その顔は、雄人が見たことのないものだった。学生だった頃、意見が衝突して、仲違いしかけたときにも見せたことのない表情だった。嘉島は少し離れたところから、彼のその表情を見て、ニヤリと笑った。しかし、彼のゆっくり上がった口角は誰の目にもとらえられることはなかった。
「まず、この作品は」
と切り出して、功太が解説を始める。屈託のない笑顔で。