3 共通項
ギャラリーの中は空気がとても冷えていた。雄人も真利子もまるで冷蔵庫の中へ入ったような気持ちになった。この冷気は一体どこから来ているのだろうと彼らは思う。2人で壁や天井を見回すが、どこにも送風口らしきものは見当たらない。風は一切吹いていないし、どこかでファンが回っているような音もしない。ただただ冷たい空気がギャラリー内を満たしていた。白地の壁には青い装飾が施されている。壁に細い溝を彫り込み、青く透き通った熱いガラスをそこへ流し込み、冷やして固めた装飾だ。それらは集まって重なり合い、複雑な模様を壁一面に描いている。その模様はたくさんの雪の結晶のようであり、幾重にも連なる針葉樹の枝葉のようでもあった。天井から床に向かって、その青い模様の密度は高くなっている。右も、左も、奥も、壁には同じように模様が描かれていた。そして、床にはコバルトブルーの絨毯が敷かれている。
「こんにちは」
奥の方に設けられた小さなカウンターの向こうから声がする。1人の女が立っていた。笑みを浮かべながら雄人と真利子の方を見ている。真っ黒な長袖の衣装を着ていた。彼女の年齢が何歳くらいか。見た目ではよく分からない。見る角度や浮かべる表情によって、20代後半にも40代前半にも見える顔だった。
「作品を観にきました」
と雄人は言った。
「ただ今、井村功太展を開催してます」
その受付の女は言う。彼女の胸元には小さな名札が付いていて、「田山ミカ」と書いてある。
「私たち招待されてきたんです」
と真利子が言う。すると、わずかな間を置いて、田山は言った。
「そうでしたか。お越しいただき、ありがとうございます。ぜひごゆっくりお楽しみください」
「あの、入場料は?」
と雄人が聞くと、
「結構です。無料でお楽しみいただけます」
と田山は答えた。そのとき、くしゅん、と真利子がくしゃみをした。
「よかったら、ブランケットを貸し出していますのでお使いください」
そう言って、田山はカウンターの奥から群青色の薄手の毛布を取り出し、真利子に差し出した。
「ありがとうございます」
受け取るなり、彼女はそれを身にまとう。
「ギャラリー内は作品の保護のため、そして、空間の演出のため、室温が低く設定されています。あらかじめご了承願います」
と田山は滑らかな口調で話し、小さく頭を下げた。これは言い慣れた台詞なのだろうと雄人は思う。そして、彼は言った。
「分かりました。僕にも1枚ください」
「はい、どうぞ」
「どうも」
雄人も毛布を身にまとう。これから久しぶりに友人と再会するかもしれないというのに、この格好はいかがなものかと彼は思う。だが、意地を張って無理をして、風邪を引いてしまってはかなわないとも思った。田山に案内され、彼らは奥へと歩いていく。カウンターの向こうでは、ぽっかりと床に穴が空いていて、地下へ導く階段が見えた。出入口からは、完全に死角となっていて、その階段はいかにも秘密の入口という様相を呈していた。青い光がほんのりと階下からあふれている。それはまさに「海底」を作り出す演出の一端だった。その階段の幅は、地下鉄のホームに続くエスカレーターのそれとほとんど変わらない。そのため、2人、あるいは3人で横に並んで歩くわけにはいかない。田山、真利子、そして、雄人の順に一列になって歩いた。1段、また1段と階段を下っていく。黒く塗られたいくつもの鉄製のステップは、左へ緩やかなカーブを描きながら、下へと続いていく。階段は蹴込みのない、踏み面だけのもので、縦に伸びたいくつもの細い手すりの外側には、視界を遮る壁がない。そのため、階段の隙間から、あるいは、手すりの隙間から地下1階展示室の様子を見ることができた。3人は天井に設けられた照明装置から放たれる青く柔らかな光を受けながら下りていく。「海底」まで。深く、より深く。
「海の中を歩いてるみたいだね」
階段から地下の空間を見回して、ため息混じりに真利子が言う。
「そうだね」
雄人が彼女に同調すると、先頭を行く田山が言う。
「そういうコンセプトで設計されていますから」
真利子は彼女に尋ねる。
「1階は、海原をイメージしたものなんですよね」
田山は後ろを振り返り、微笑みながらこくりと頷くと、あとは前を見て、階段を下りながら言った。
「はい、そうですよ。壁の青い模様は波頭をモチーフにしています。もう少しで階段が終わりです。暗いので足元にお気を付けて」
最後は少し早口だった。3人は階段を下り終える。
雄人と真利子は、辺りを見回す。その展示室は、階段を中心に円形に広がっていた。深い青を基調とした壁や床の内装は、遥か遠くへ広がる「海底」を思わせる。天井の照明設備から降り注ぐ光は、海中に射し込む太陽光のようであり、そこにどのような機構があって、それがどのように働いているのか雄人と真利子には全く検討も付かないのだが、ゆらりゆらりと心地よく揺れている。その揺らぎは、人工的に作られているとは思えないほどのものだった。雄人も真利子もすっかり海の底に立っているかのような気持ちになった。
「これが、3Dエレクトロファインアート」
雄人はそう言って息を飲む。井村功太が作った3Dエレクトロファインアートは1点1点床に置かれて展示されていた。そのどれもが彼の想像していたものよりも大きなものだった。
「それでは、どうぞごゆっくりお楽しみください。このホールにはオーナーの嘉島がおります。私は受付の方へ戻っております」
小さく一礼して去っていく田山。
「ありがとうございました」
雄人と真利子は礼を言った。
雄人は改めて展示品を眺める。どれも立体作品であるが、銅像や石膏像とは大分趣が異なる。どの作品にも透明感があって、表面には光沢があり、内側からほのかに光を放っている。大きさはどれも家庭用洗濯機ほどはある。形はさまざまで、動物を模したと思われるものもあれば、複雑な幾何学模様を立体化したようなものもあった。
「不思議。初めて見た。これ、どうやって作ったんだろうね」
近くに展示されている作品の1点を真剣な目で見つめ、真利子は言った。
「どうやったんだろう。これはガラス、かな?」
そう言って、雄人が手で作品の表面をそっとなでようとした、まさにそのときだった。
「おっと。触れるのはご遠慮ください」
背後から声が聞こえ、2人は振り返る。髭をたくわえた1人の年配の男が立っていた。黒いスーツを着て、黒い革靴を履き、青いネクタイを締めている。雄人も真利子もその顔に見覚えがあった。招待状の写真。このギャラリーのオーナー。嘉島惣太郎だった。背が高く、恰幅がよく、やけに大きな目はギラギラと輝いている。
「ようこそ。海底ギャラリーへ。今日はどちらから来られましたかな?」
雄人は井村に招待され、今日、遠い街からはるばる車で訪れたことを告げた。すると、嘉島は言った。
「そうでしたか。井村さんのご友人だったのですね」
「はい。もうしばらく会っていないのですが」
「ふむ。下の特別展示室に彼はいます。今は仲間たちと作品についてあれこれ談義しています。残念ながら本日は、特別展示室は一般開放していないのですが」
「そうですか」
展示室をぐるりと見回して、嘉島は言った。
「これらの作品は、ガラスではなく、アクリル樹脂でできています。いくつものパーツを精巧に貼り合わせて作るのです。そうした緻密な作業のおかげで、観る角度によって内部の模様が変わって見えたりする、こうした不思議な作品ができるのです。制作過程では、コンピュータが非常に大事な役割を果たしています。コンピュータが行う膨大かつ緻密な計算によって、設計図が生まれ、パーツが生まれるのです。それが、『エレクトロ』とされる所以の1つですな」
「この、光って見えるのはどういうことでしょうか」
真利子が聞くと、嘉島は答えた。
「電球が埋め込まれていて、それらが点灯しているのです。鑑賞者から光源が見えてしまわないように巧みに配置されています。色合いや明度もコンピュータによって制御されています。強く光ったり、弱く光ったり、ゆっくりと緑色から赤色へ変わっていったり、その光は、まるで命が宿っているかのようではありませんか?コンピュータが作り出す生命。そういうメッセージ性もこれらの作品には含まれているのです」
「そうなんですね。解説ありがとうございます」
真利子が礼を言うと、嘉島は笑みを浮かべて問いかけてきた。
「さて、気付きましたか?このギャラリーと井村さんの作品との共通項」
雄人と真利子は顔を見合わせる。それから、雄人は嘉島の顔を真っ直ぐに見て答えた。
「人が作る自然。そんなところでしょうか」
「いやいや、ご名答。コンピュータは進化した。人工物は人工物らしく。その檻から解き放たれる時代が来たのです。人の五感が自然だと感じるのであれば、それはもはや自然も同然なのです。と、まあ、講釈していますが、このギャラリーも思った通りのものというわけではありません。いろいろと妥協したところもあります。しかし、概ね思い通りにできました。概ね。そう、概ねです。いやいや、長々と失礼しました。どうぞ楽しんでいってください。作品の購入もできます。もしよかったら、ぜひお声掛けを」
「はい、分かりました。どうもありがとうございました」
雄人が言うと、嘉島は足早に去っていった。そして、離れたところで鑑賞している来場者に近付いていき、声をかけ、何かを語り始めた。
「親切で、なんだか忙しい人ね」
真利子が言う。
「そうだな。とりあえず、ゆっくり観て回ろうか」
「うん。そうしよう」
展示室を巡り、作品を鑑賞していくことにした。鑑賞を終えたら、功太に会いに行こう。雄人はそう思った。