2 市街地
「行こうか」
と言って、雄人は車のエンジンをかける。8月10日。ギャラリーへ行く日。時刻は、午前8時を過ぎたところ。車は自宅前のカーポートからゆっくりと動き出す。その車は雄人が3年前に購入した。丸みのあるボディライン。深緑のメタリックカラー。ゆとりのある車内空間。そこそこよい燃費。それらの要素が雄人の心を強く引き寄せた。そして、彼は予算よりもいくらか高い買い物をした。そのことについて彼は特に後悔しておらず、結果的によいことだったと思っている。
車が住宅街を抜け、幹線道路に出る。助手席に乗った真利子が言う。
「楽しみね」
「そうだな」
右にハンドルを切りながら雄人は言った。大きな交差点を右折する。1車線の道路はやがて2車線になり、市街地を抜け、高速道路へと入っていく。2人が乗った車は加速していき、一定の速度に達すると、それを保ったまま、車線変更を特にすることなく、いくつかのサービスエリアとインターチェンジを通過した。道路は空いていた。
「ちょっと休もう」
雄人が提案する。
「そうだね」
真利子が応じる。車は減速し、サービスエリアの方へ。2人とも朝食を食べていなかったので、フードコートで軽い食事をとることにした。雄人はうどんを、真利子はそばを注文した。食べ終えてから雄人が言う。
「それにしても、意外だったな」
「なんの話?」
「海底ギャラリーのこと。海の底にあると思ってたら、普通に街の中に建ってるんだから」
「そうだね」
「せっかく海底ギャラリーなんて名前なんだから、海の中にあってほしかったな」
真利子はくすりと笑ってから言った。
「そうだね。だけど、写真は凄く綺麗だったよ。光の加減とか。本当に海の中にいるような感じがしそう。どんな場所か私は楽しみにしてるけど」
「確かにそうだね」
雄人は招待状と、ギャラリーのホームページに掲載されていた写真を思い出す。青く、薄暗く、深遠さ、静謐さを思わせる空間。水面を通して降り注いでいるかのような照明の演出。そこに行ってみたいと思わせる魅力を確かに感じた。それが住宅街の中であったとしても。雄人は言った。
「海底の雰囲気を出そうとしてるのかな」
「多分ね。オーナーの嘉島さんという人には、何か強い思い入れがあるんでしょう。海底に」
真利子が言うと、小さく頷き、雄人は言う。
「そうかもね」
「それに、本当に海底にあったら嫌じゃない?」
「なんで?」
「だって、泳がなきゃ。酸素ボンベとか背負って、潜らなきゃ。作品を鑑賞するために」
「ああ、それはちょっと嫌だな。大変だ」
「でしょ?市街地の中で、アクセスもいい」
「結構遠いんだけどね」
「あと、どれくらいかかるの?」
「2時間くらい」
「わあ」
真利子は小さく肩を落としてみせる。だが、顔は笑っていた。そのギャラリーは距離的に言って、ひょいと簡単に行けるものではなかった。だから、今回の旅も日帰りではなく、近くのホテルで1泊して帰ることにしていた。
「そろそろ行こう」
雄人が言うと、真利子はこくりと頷いた。フードコートをあとにして、サービスエリアの駐車場へ進む。とてもよく晴れていて、少し歩くだけで首筋に汗が滲むようだった。まだ午前の時間帯だというのに。今日はこれからもっと暑くなる。そう思わせる日差しだった。こんな日は、海底ギャラリーが作り出す「疑似海底」とでもいうべき空間で、暑さから逃れるのもいいかもしれない。雄人はそんな風に考えて、ふっと笑った。
「何がおかしいの?」
真利子が聞く。
「暑過ぎて」
と言って、雄人は運転席に乗り込んだ。助手席に乗り込み、真利子は言う。
「さあ、暑さにやられちゃう前に早く海底に逃げなくちゃ」
彼女の言葉に、彼は黙って頷き、エンジンをかける。車が動き出す。早く海底に逃げなくちゃ。雄人は頭の中で唱える。アクセルを踏み込む。車が加速する。本線に入る。道は相変わらず空いている。盆の帰省ラッシュとは、ほとんど無縁の高速道路なのだ。予定よりもいくらか早く着きそうだった。
前を見て車を運転し続ける雄人に真利子は聞いた。
「まだあんまり教えてもらってなかったけど、井村さんってどんな人なの?」
「ああ、なんて言ったらいいかな。まあ、いいやつだよ。うん、いいやつだ」
「いいやつなんだ」
「いいやつだ。そのことに違いはない。長い時間が過ぎていても、多分、きっと、そうだよ」
「芸術に関心のある人だったの?」
「いや、そうではない。少なくとも、俺の知るあいつは。そうじゃなかったな」
「最近目覚めたってことかな」
「そうだね。それがいつからかは分からない。俺の知らない間にあいつは変わったんだろう。何かがあって、何かが変わった。何かが、あいつの中の何かを変えた。多分、そういうことじゃないか?」
時速80キロメートルで走り続ける大型トラックを、右の車線から追い越して雄人は言った。それから、少しの沈黙を置いて真利子が言う。
「結局、よく分からなかったね。3Dなんとか、なんとか、アート」
「うん」
それは不思議なことだった。インターネットで調べても、書店で専門誌をめくってみても、ついにこの日までその言葉を目にすることはなかった。雄人も真利子もギャラリーへ行く前に少しでも予習をしていきたいと思っていたのだが。あまりに前衛的過ぎて、まだほとんど誰も使っていない言葉なのか、それとも、井村が1人で標榜している新たな芸術作品の分類なのか。雄人は言った。
「まあ、どんなのか分からない分、楽しみが増えるってものだよ」
「そうだね」
と笑いながら真利子は言った。車はさらに走り続け、山間部に入り、抜けた。そして、遠く向こうの方に街が見えてくる。
「もう少しだよ」
眠たそうにしていた真利子に言う。すると、彼女は目をこすり、あくびをしてから言う。
「あの街ね。あ、海も見えるよ」
「そうだね」
遠くに海が見える。街の向こうに、ぼんやりと見えている。何かの拍子に溶けてしまい、空と一体になるかのような淡い海原と水平線だった。市街地にある海底ギャラリー。しかし、それは丸っきり的外れな場所にあるわけではないようだ。近くに広がる海に思いを寄せ、設計されたのだろう。雄人は想像する。
高速道路を下りて、街の中心部へ向かって進む。広い道から外れ、狭い道へと入っていく。時折慌ただしくハンドルを切っては、街中を縫うように走る。すると、その建物は唐突に視界に現れた。
「あれだね」
真利子が言う。建物の前に設けられた駐車場に車を停める。時刻は11時を過ぎたところだった。車の中から2人で建物を眺める。灰色の外壁。ガラス張りの自動ドア。そのドアには、濃紺の塗料で「海底ギャラリー」と大きく記されている。建物の高さはあまりない。一般的な2階建住宅よりも少し低い程度だ。招待状やホームページの情報によれば、地上は1階までしかないのだが、地下は2階まであるという。
雄人と真利子は車から降りて、歩き出す。自動ドアが静かに開く。海底ギャラリーに足を踏み入れた。