1 招待状
午後6時。片桐雄人は、仕事を終えて退社した。いつものようにバスに乗り、電車に乗り、そして、駅から自宅まで歩く。歩く道のりはさほど長くないのだが、真夏の暑さと湿気のせいで、彼はたくさんの汗をかいた。郵便受けを開けると、1通の手紙が届いていた。茶色い封筒に整った字で宛名が書かれている。
「片桐雄人様」
誰からだろうと思い、彼は封筒の裏面を見た。送り主の名前は、井村功太。それは、片桐にとって久しぶりに見る名前だった。井村は、片桐の学生時代の友人。互いに就職して、働き始めてからは、1度だけ片桐が井村の家へ遊びに行ったきり。あとは連絡を取り合うこともなくなってしまった。何かで衝突したわけではない。仲がよいのは上辺だけで、かねてから互いに縁を切りたがっていたというわけでもない。食べ物、着る物、スポーツ、映画。彼らは大抵同じ物を好み、同じ物を苦手としていた。では、どうしてこうなったのか。連絡を取り合うことなく、長い時間が過ぎてしまったのか。それは片桐からしても、よく分からないことだった。強いて言えば、「何となく」というのが、最もふさわしい答え。会おうと思えばいつでも会える。そう思って過ごしていたら、こうなった。そんなところ。片桐は、一体なんの用事で井村が手紙を送ってきたのか気になった。すぐにでも開封したい気分だったが、カバンにしまい、まずは玄関のドアを開けた。エアコンの効いた部屋でソファに座り、冷静な頭でその手紙を読みたいと考えたから。
「おかえりなさい」
玄関に上がると、妻の真利子が迎えてくれた。
「ただいま」
と言うと、彼はすぐさまシャワーを浴びて、ゆったりとした部屋着に着替えた。それから、ダイニングで真利子と夕食をとった。よく冷えたビールと、彼女の実家から送られてきた枝豆を2人で楽しんだ。食べ終えると、雄人はリビングのソファに座った。井村からの手紙の封を開けようとしたときだった。
「どうしたの。その手紙」
ソファに歩み寄りながら、真利子が不思議そうな顔で聞いてくる。
「友達から送られてきたんだ」
雄人は答えた。
「ふうん」
と、あまり関心がなさそうに彼女は応じると、雄人の隣に座って、テレビを点けた。そして、芸能人のトーク番組を観始めた。
封筒の中には、便せんが1枚と「招待状〜Invitation〜」と上部に大きく記された、葉書ほどの大きさのカードが1枚入っていた。カードには、簡単な地図、そして、ある建物の外観とその内部を撮ったカラー写真が印刷されていた。カードに書かれた文字を読む。
「海底ギャラリー」
見たことも聞いたこともないその言葉を、雄人は声に出して言ってみた。真利子がちらりと彼を見るが、すぐにまたテレビの方を見る。そして、彼女は小さく、ふふふと笑った。カードには、こう書かれている。
「このたび、個展を開くことになりました。皆様に楽しんでいただける作品を用意しています。私としても、これほどまでに美しい場所で作品を発表できるのはとても大きな喜びです。ぜひとも、いらっしゃいませ。 井村」
そして、海底ギャラリーについての説明文があとに続いている。その説明によれば、「海底ギャラリー」は、2年ほど前にオープンした新しいギャラリーということ、画期的なコンセプトの元に建設されたのだということ、そして、作品が秘めている本当の魅力を引き出せる空間であるということだった。オーナーは嘉島惣太郎。髭をたくわえたその年配の男の顔は、小さな写真に納まって自信に満ちた笑みを浮かべている。次に、便せんの方を広げて黙読した。
「雄人へ 元気かい。俺は元気でやってるよ。突然の手紙で驚いたと思う。長い間、連絡もなくてごめん。最後に顔を合わせてから、もう10年は経っただろうか。それでも、あまり時間が空いた気がしないのは不思議だ。手紙を書いていて思う。つい先週にも、俺たちは会って、いろいろと語り合ったんじゃないかって。それくらい、時間が空いた感じがしないんだ。君もそうなんじゃないか。この手紙を読んでいて、同じように思ってくれたのなら少し救われた気になる。
さて、今回この手紙を送ったのは、君にどうしても知らせたいことがあったからだ。もう招待状には目を通してくれただろうか。俺はとうとう個展を開くことになった。グループ展に出していた、いくつかの俺の作品をギャラリーのオーナーがいたく気に入ってくれたんだ。これは本当に幸運な出来事だったと思う。作品は全て3Dエレクトロファインアート。見たことはあるか。聞いたことだけでも、あるだろうか。嘉島オーナーの運営するギャラリーは素晴らしいものだ。音が、光が、空間が作品と調和している。なんて、俺が手紙でいろいろ書いたって、チープにしか思えないだろうな。とにかく、来てほしいんだ。そして、知ってほしい。『海底ギャラリー』がいかに素晴らしい場所か。そして、俺の作品が、どれほどのものか。ギャラリーで会おう。 井村功太」
3Dエレクトロファインアート。それは一体、どんなものかと雄人は首を傾げる。立体的で、電気的で、元気な、芸術。よく分からない。1度、調べてみなければならない。彼はそう思う。
「ねえ、さっきから何を真剣に読んでるの?」
真利子に聞かれて、雄人は答えた。
「案内状だよ。友達が個展をやるらしいんだ」
「へえ」
「海底ギャラリーって知ってる?」
「知らない」
「そこでやるらしいんだけど」
「海の底にあるのかな」
「名前の通りだと、そういうことになるけど」
「面白そうね」
「うん。だけど、どうして海の底なんだろう。陸の上じゃだめなのかな」
真利子はしばし思案してから言う。
「そうだね、でも、芸術っていろいろ難しいから。水の中の方がいいと思ったんじゃないかな。その友達は。その方が作品が映えるって思ったんじゃないかな」
「そういうもんかな」
「多分ね」
真利子はそう言って、再びテレビに目を移した。
雄人は少しだけ納得した。水の中の方が映える。そういうこともあるのだろうと。「3Dエレクトロファインアート」とは、そういうタイプの作品なのかもしれないと。だが、ふと彼は疑問に思う。功太は、元からそういう人だっただろうかと。学生の頃、何か作品を作るのに打ち込んだという話は特に聞いたことがなかった。本人の口からも、周りからも。功太が何かを作って人に見せたがる性格だったとは思えない。では、なぜ今回このようなことをするのだろうか。個展を開くには、それなりに作品を作る必要があるはずだ。10点、あるいは20点は作らなくてはならないのではないか。よく分からないが、少なくとも、2、3点では無理というものだろう。彼に一体、何があったのか。会うことのなかった10年以上の歳月の中で、何が彼を変えたのか。単純に気になった。雄人は真利子に提案する。
「ねえ、行ってみない?」
「え?」
「個展だよ。俺の友達の」
「いいね。面白そう」
会期は8月3日から9月1日までとある。雄人と真利子は話し合い、8月10日に行くことにした。案内状を裏返してテーブルの上に置く。案内状の裏面には、カラー写真が印刷されていた。写真は、功太の作品を写したものだった。だが、それが彼の作品であると、そのときの雄人が気付くことはなかった。