part.2
しめやかな、細い声音。しかし部屋中にしっかりと通る、不思議な力のある響き。こ、この声は!
「平城先生!」
振り返ると、ドアの所で先生が微笑んでいた。ショートケーキを文芸部に分けてくれた張本人である。
「先生――こんにちは」
岸が音もなく立ち上がって、ぺこりとお辞儀した。その顔には、どこか訝しむような感情が見え隠れしていた。急に現れたことが不思議なのだろうか。だとしたら、俺も同じ気持ちだ。
だが先生は、柔和な笑みを湛えたまま、
「こんにちは。岸さん、七瀬さん」
それから俺に向かって手招きをした。「賀茂くん、ちょっと」
「あ、はい」
「七瀬さん、今から少し彼をお借りするけど、すぐに戻ってくるわ」
と言って、踵を返した。慌てて後を追いかけるが、その際ちらっと部員二人の様子を窺ってみた。七瀬はマイペースにケーキを頬張って、岸は立ちすくんだままだ。ただ、両人の顔には共通して困惑の表情が強く刻まれていた。
理由は明らか。先生の急な登場だろう。どうして、わざわざこんな所まで来たのか。先生はたまに、何を考えているか分からない時があるからな。今回も何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
まあ、俺が考えても仕方が無いか。外階段を降りると、図書館の入り口で平城先生が待ってくれていた。
「ごめんなさいね。急に」
「いえ……構いませんけど。どうして図書館に?」
「用事の内容、まだ言っていなかったかしら。本の整理を手伝って欲しかったのよ。重たいから」
そう言って、先生は図書館の玄関扉を押し開けた。本当に、それだけ?
放課後の図書館は、今日も閑散としていた。まだこの時期は勉強に来る受験生も、定期試験対策をする生徒もいない。分厚い本を運びながら、俺は先生に尋ねた。
「平城先生。もしかしてあのメッセージカードのこと、知ってました?」
「ええ、そうね。面白そうだから黙っていたんだけど」
しれっと言い放つ。やっぱりというか、なんというか。はあ、敵わないな。
「……岸は早速食いついていましたよ。ケーキよりも喜んでいたんじゃないですかね」
「ふふ、それは良かったわ。解けそう?」
「それが、一筋縄ではいかないみたいで」
「そう。今日も探偵さんの出番かしら」
「勘弁してくださいよ」
誰が呼んだか「休み時間探偵」――不意に首筋を冷たい手で触られるような、そんなゾッとする感覚を引き起こす言葉。思い出すたびに、身悶えしてしまうような。まあ要するに、黒歴史である。
「そういえば先生。ケーキを持ってきた教え子って」
「ええ。賀茂くんも知っている子達よ。兄弟揃って『えらいご無沙汰しておりますー』って」
大阪弁のアクセントが完璧で、俺は吹き出してしまった。先生は物まねもうまい。
本を整理する手は止めずに、先生に話しかける。
「七瀬に聞いたんですけど、今日ってちょうどショートケーキの日らしいですよ」
「私も今日知ったわ。生徒から聞いて――でも、毎月は遠慮したいところね」
「同感です」
流石に欲張りすぎという気もする。幼い頃、誕生日ケーキが嬉しかったのは、年一回というプレミア感があったからではないか。
「ところで、毎月19日はシュークリームの日なの。素敵よね」
先生は、それこそとても素敵な笑顔をこちらに向けた。……よし、覚えておこう。
「用事」は5分もしないうちに済んだ。さっき先生が言った通り、また階段を上がって部室に戻る。
「ただいま――っと」
見ると、二人はもうケーキを食べ終わっていた。机の上も片付けられて、例のメッセージカードがポツンと置かれている。
「カモちゃーん、助けてぇ」
途端に七瀬が泣きついてきた。この短時間で、ケーキを食べていた時とは打って変わり、げっそりとした様子になってしまっている。よほど真剣に考えて、頭がショートしたようだ。岸も、じっとカードを見つめている。
『この子は何月生まれでしょう?』
カードに印刷された、問題文。イラストの赤ん坊の誕生月を尋ねる言葉。ヒントは彼(もしくは彼女)が手にした苺ショートケーキだろうか。判じ絵という可能性もある。
なかなか厄介そうな問題だが、七瀬と違って岸は諦めていないようだった。彼女は普段のお嬢様風の雰囲気に反して、こと推理小説やなぞなぞの類にぶつかると、俄然押しが強くなるのだ。入部の経緯も、そんな彼女の性質が大きく貢献している。
今も、そう。この不思議なカードを目の前にして内心、胸を高鳴らせているに違いない。
七瀬の弱音に少し遅れて、岸がハッとした様子で顔を上げた。今初めて気付いたみたいに、俺達を見つめる。かなり集中していたようだ。
「あ――」
「どう? 岸さん。その言葉の答えが分かったかしら」
岸が返答に詰まった。その唇が悔しげに歪む。
岸は大のミステリファンで、自分でトリックを考えて俺たちに解かせるくらいだ。判じ絵のようなクイズの類にも詳しいみたいだし、解けないことが歯がゆいのかもしれない。
すると、代わりに七瀬が「あ、そうだ!」と片手を挙げた。
「先生、このハチミツの文、どういう意味か知っているんですか?」
そして、カードを胸の前で掲げる。おお、そうだ。手書きの一文の問題もあったんだった。
『ハチミツは1歳になってから!』
という、肉筆による注意書き。つい忘れていたが、さっき先生はこの文章の意味が分かっているような口ぶりだった。けっこう辛辣な言葉で呆れられたのだった……。
「ああ、そのこと」
先生は何気ない風に解説を始めた。どことなく、担当教科である古典の授業風景が思い出された。
「覚えておくと良いわ。乳児ボツリヌス症っていう病気があってね。ハチミツの中に入っていることがある細菌が原因よ。
私達が食べても害はないけれど、まだ小さい赤ちゃんはその病気にかかってしまうかもしれない。だから、1歳未満の赤ちゃんには、ハチミツをあげちゃダメなのよ」
へえ、そうなんだ……。だから「1歳になってから!」なのか。知らなかった。ちゃんと覚えておこう。
「あれ? だとしたらこの赤ちゃんは大丈夫なの?」
七瀬が心配そうに首を傾げた。うん、確かにイラストの赤ちゃんはそれくらいに見えるから、もっともな疑問だが、それには俺でも答えることができる。
「大丈夫だと思うぞ、七瀬」
「え? どうして、カモちゃん」
「ここを見てみろ」
俺はイラストに描かれたケーキを指差した。そこには、「1」の形をしたろうそくが刺さっている。
「この子は今日で1歳になったんだろう。これは誕生日ケーキだ」
「あ、なるほど」
七瀬はイラストをしげしげと眺めて、頷いた。しかし彼女が不安に思ったのも無理はない。ろうそくだけでは1歳だとは分かりづらいし、知らない人が見たら勘違いさせてしまうかもしれない。そうなると赤ちゃんにハチミツをあげるという行為を描いているわけで、食品を扱う店としてどうなのか、という話にもなりかねない。
いや、だからこそ肉筆の注意書きがあるのか。目立つし、啓蒙にもなる。神亀庵のおじさん、やるじゃないか。
うん? 誕生日……そうか!
「七瀬。答えが分かるかもしれん。カレンダーは何月になっている?」
背後の壁には、確かカレンダーが描かれていた。このイラストが誕生日の光景だとするなら、それを見れば一目瞭然ではないのか。
そう思ったのだが、既にその可能性は検討していたようだった。
「それがダメなんだよねー。潰れててよく見えないの」
「えっと……本当だ」
小さくて字はよく見えない。そもそも描いていないのだろう。そう簡単にはいかないということらしい。
うーん、そろそろ諦め時か。先生の予言通りになったが、仕方ない。今日も「探偵さん」の世話になるしかないようだ。
それに、なぞなぞの答えもそうだが、彼女の挙動について、少し気にかかることがある。これは、はっきりさせなければならない。
俺はあいつを呼び出すための言葉を口にした。名探偵が関係者一同の前で推理を始める時の、お約束の言葉。
『さて――』
瞬間、世界が反転し、景色が急に色あせていく。キーン、という耳鳴りとともに、俺は意識の奥へと沈んでいく。
『また会いましたね、カモさん』
俺は奴を、「探偵」と呼んでいた。
身体の支配権はなくなり、感覚だけが残される。代わりに、身体の表層に現れたそいつは、紛れもない名探偵――「休み時間探偵」などという二つ名の原因にして、俺に棲み付いたもう一人の人格。
探偵が、言った。
「さて――簡単な話です」