part.4
「キョウさん!」
岸が嬉々として声を上げた。目がきらきら輝いている。
「岸さん、お久しぶりです。今日も面白い謎でしたよ」
俺はにこにこと笑いながらそう言った。いや、俺の口がそう言っただけで、それは俺の本意ではない。それに、俺はこんな気持ち悪い笑い方をしたりしない。
今俺の身体の所有権を握り、一年女子と言葉を交わしているのは、俺の中に棲む、自称「名探偵」だ。
こいつと俺との出会いは、俺がこの栄藍高校に入学したばかりの頃にまでさかのぼる。入学早々「栄藍高校の七不思議」なんてものに関わってしまった結果がこれ、身体の中に得体の知れない人格が棲み着くという状態だ。もうかなり昔のことのように思えてしまう。
その出来事以来、俺の身体は度々この自称名探偵に乗っ取られることになったのだ。
『乗っ取る、とは物騒ですね。私は、ちゃんと貴方の了承を得て、それは大事に貴方の身体を使っているつもりですよ、カモさん』
俺が「意識の奥」に引っ込んでいる時でも、こうやってこいつとコミュニケーションをとることはできる。逆に俺が「表層」にいる時、つまり普段は意思疎通ができない。
こいつによれば、そういう時は「自我が眠っている」ような状態らしいが、こうやって「起きた」あいつはさっきまでのことをちゃんと知っているから、眠っているというのは正確ではないのかもしれない。よく分からないやつだ。
そして、こいつが「俺の了承」と言ったのは、さっき俺が口にした「さて」という言葉のことだ。俺がこいつと「交代」するには、ある条件を満たす必要がある。それがこの言葉だ。
俺ではどうしようもない疑問や謎にぶつかってしまったとき、この言葉を口にすればこいつが表層に現れる。憎いことにこいつの推理力は本物らしく、たちまちに謎を解決してしまう。いつしか俺に依頼が舞い込むようになった。
当然俺は普通の高校生だったからこいつに頼らざるを得ない。この「交代」には制限があって、それはこいつの意識は十分程度しか続かないということだった。しかしそんな制限はこの「名探偵」にかかれば無いに等しいらしく、こいつは多くの場合休み時間も終わらぬうちに謎を解き、それもまた評判を上げる結果となった。
これが、「休み時間探偵」の真相である。つまり、俺は探偵でも何でもない。ただの高校生だったのに、こいつが俺の中にいるせいで、面倒くさいことに巻き込まれることになったのだ。
『おやおや、カモさん。あんまり「こいつ」呼ばわりしないでくださいよ。みんなは「キョウさん」と呼んでくれているではないですか』
こいつに名前を聞いたことがあったが、どうも覚えていないらしかった。かろうじて下の名前だけは分かって、なんとそれは俺と同じ「キョウスケ」だった。事情を知る一部の人間――京先生や、今なら七瀬、岸あたりがそうだ――は俺と区別して「キョウさん」と呼んでいる。どちらかと言えば俺も、「カモちゃん」よりは「キョウちゃん」とかって呼ばれたい。
(うるさい、お前なんか「こいつ」で十分だ。……それにしても、大丈夫なのか。時間はそんなにないぞ)
『心配してくれているのですか? 感激ですね! 貴方がそんな優しい感情を私に抱いてくれるとは……!』
こいつはどうも大げさなところがある。探偵という人種はみんなそうなのだろうか? 俺の身体で大げさな身振りなどはしないでいただきたいのだが……。
『……ですが、心配には及びま……おっと、気を付けないと。もう、答えは出ています』
ああ、「簡単」と言ったのは、そういうことか。
毎度のことながら、やはり驚きを禁じ得ないな。こいつは毎回、登場した時にはすでに謎を解いているのだ。
「少しばかり、確認したいことがあります、岸さん。良いですか?」
「はい、キョウさん。なんなりと」
岸の返事に満足そうにうなずいた探偵は、人差し指を立てながらこう言った。
「まず一つ。貴方は私たちが来る前からこの部屋にいましたね。ということは、貴方がこの部屋の鍵を開けたんですか?」
「はい、そうです。職員室に、寄って、鍵をいただいてから、ここへ来ました」
「なるほど、結構です。次に――」
結構って、それだけで良いのか。俺には、こいつが何を聞きたいのか、全く分からなかった。岸が職員室に寄ったことに、何か意味でもあるのだろうか。
そういえば、俺たちも職員室で足を止めたのだった。七瀬と一緒に、京先生から「背」の意味を教えてもらっていたことを思い出す。考えてみれば当たり前だが、部室に入るためには職員室に寄って鍵を受け取らなければならない。岸は俺たちよりも早く部室に着いていたが、案外タイムラグはそこまでなかったのかもしれない。
「次に、貴方は先ほどから言葉遣いが乱れているようですね。特に、呼び方。私たちに対する呼び方が、妙に馴れ馴れしい」
「てへ、そろそろ、カモちゃんさんや、杏乃さんとも、仲良くしたいなー……って」
舌を出すな。礼儀正しい岸はどこへ行ったんだ。キャラが崩壊している。これは間違いなく、核心を突くようなことを探偵が言ったのだろうが、俺には意味が分からない。
先輩のことを下の名前で呼ぶ生徒なんて別に珍しくないし、俺のあだ名にしたってそうだろう。ただ、「カモちゃんさん」なんて変に行儀良く「さん」付けで呼ぶのはやめてほしい。違和感がすごい。
「仲良くするのは良いことですね。私も同意します。……お前もそう思うだろ? 杏乃」
探偵が、言葉の最後で急に口調を変えて、今まで沈黙を保っていた七瀬の方を向いた。このぶっきらぼうな言い方……まさか、俺を真似ているつもりか?
鳥肌が立った。いや、支配権は向こうにあるので身体のほうに変化はないのだが、腹の底からぞわっとなった気がした。
「え、え、か、カモちゃん? 戻ったの……?」
騙されるな、七瀬。そいつは偽物だ。
しかし探偵はなぜか下手な演技を続け、あろうことか七瀬にずいと近寄った。
「ああ……。それより杏乃、さっき俺、この部屋に入る前にこうやったよな……」
そう言って、ぽんと七瀬の頭に手を置いた。
「え、えええ、カモちゃん、ダメだよ、いきなりそんな……名前呼びとか……」
いや、確かにそんなことをした気もするけど、それは何というか、昔の癖が時々つい出てしまうのだ。小さい頃、七瀬とよく一緒にいたときの癖だ。最近は気を付けるようにしているのだが。
だがお前のそれはなんだ。危険なにおいがする。問題になるぞ。おい、くそ探偵! やめろ、明らかに嫌がっているだろうが!
真っ赤になって身をよじらせる七瀬を見かねたのか、岸がそこへ割り込んでいった。
「はいはい、どうしちゃったんですか、キョウさん。杏乃さんに、あまり意地悪、しないでくださいねー」
そう言って七瀬をかばうようにして立つ。七瀬はすっかり上の空で、にやけながらぶつぶつと何事かをつぶやいている。なんと。おいたわしや、壊れてしまったか。よほど怖かったのだろう。……少し傷つくが、あとで謝やまっとかないとな。
「ふむ……我ながら名演技だと思ったのですが、岸さんにはお見通しでしたか。これくらいにしておきましょう」
やっと演技をやめた探偵は、こう続けた。
「次に、もう一度、さっきのルールを聞きたいのです」
「……! 分かりました」
岸は机に置いてあったスマホを手に取ると、素早く操作した。まさか、あのルール説明をもう一度聞くつもりなのか? そんな悠長なことをして、間に合うのだろうか。残り時間はあと数分だ。全部流していては間に合うか分からないぞ。
「あ、いえ、岸さん。流さなくても結構です。ありがとうございました」
探偵がまたわけの分からないことを言う。ルールを聞くんじゃないのか。
「では、最後に一つだけ」
探偵は言葉を切って、まっすぐ岸の目を見つめながら最後の質問をした。もちろん、俺には何を意味するのか、さっぱり分からなかった。
「蚊と蛾は、同じ扱いでしょうか?」
「え?」
思わず、といった感じで岸が聞き返した。俺には「蚊と我」と聞こえたが、何をどうしたら蚊と我が同じになるのだ。似ているのは字面だけだろう。
だが、岸には意味が通じたらしい。はっとした表情になった後、さすがですね、とでも言いたげな顔で首を横に振った。
それを見て、探偵はまた満足げな笑みを浮かべると、
「お聞きしたいことは以上です。岸くん、ありがとうございました。これで謎は解けそうです」
嘘だ。さっき、質問をする前から俺にもう分かったと言っていただろう。
……まあ、それについては何も言うことはない。ゲームとはいえ、岸がせっかく考えてきた問題だ。それが一瞬で解かれたとあっては、つらいものがあるだろう。この探偵は、変なところで気を遣う。
俺は、岸がちゃんと文集用の原稿を書ければ、それでいい。機嫌を損ねて、文芸部に寄りつかなくなったら、七瀬が寂しがるだろうからな。
「では、いよいよ、謎解きですか」
岸が静かに言った。もう、探偵が答えを得たことに気付いているのだろう。だが、その顔に落胆の色はなかった。
ん、待てよ? ルール説明の最後にあったヒント、あれもよく分からない。「ぱぴぷぺぽ」だったかーーは行の半濁音? 結局、探偵はこのヒントについて何も言わなかったが、謎解きには関係ないのだろうか。いや、そんなはずはないだろう。
残り時間は、もう数えるほどしかない。探偵が、ついに答えを告げた。
「この文芸部室から失われたもの、それは――『背』ですね」
探偵の言う「カモさん」のイントネーションは「富士山」と同じです。