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チコが居た(上巻)  作者: 前岡 光明
1/1

乱暴者の転校生

        第一部 乱暴者の転校生


         第一章 雨の教室


                      昭和六十一年四月十三日(木)

           一

                                   

 一人の少年が居る。

 少年は、薄暗い六畳のたたみの上に、大の字に寝転がって天井を見つめている。

となりの部屋には、ベランダから四月半ばの暖かい陽が射し込んでいるのに、少年は、まるで青空から身を隠すように誰もいない暗がりにとじこもって、無意識のうちに、傷ついた心を癒しているのだ。


「あーあ、あいつめ……」

 あのなまいきな顔が頭の中に浮かぶと、荒々しい感情が噴き出てくる。

 骨折した右腕を抱え、泣きじゃくりながら帰って行ったあいつの後姿。取り返しのつかないことをした惨めな気持ちになって、

「僕のせいじゃない」と、叫びたくなる。

 頭をさわるとこぶが痛い。

 ほっぺたのすり傷がひりひりする。

 さっき、口の中が熱く感じたので、唾を吐いたら赤い色がにじんでいた。

 僕は、そんな痛みよりも、級友たちに理不尽な仕打ちを受けたことが情けない。悲しくて憤る。


 興奮を冷ますには暗い方がいい。孤独を意識しないで済むには独りでいる方がいい。幼い少年の本能が命じることだ。

 時の経過にまかせると、いきどおりや悔しさは薄れ行く。少年は、今は、ただ自分の気持ちと身体をいたわっている。

 

 僕の気持ちが落ち着いて、また暗がりに目が慣れてきたのか、天井の焦げ茶のしみが分かるようになった。そうしたら、はじめてこの部屋でカズさんと枕をならべて寝た十日前のことを思い出した。

「天井のしみの模様がおもしろいね」と、僕が言ったら、カズさんが、

「ずーっと前、二階の人が洗濯機のホースが外れたのに気づかないで、俺が会社から帰ってきたら水びたしさ」と、その時のことを話してくれた。

 カズさんのきまじめな顔が浮かんできた。


 つい半月前までは、カズさんといっしょに暮らすことは想像もしなかったから、こうやって僕がここにいるのが不思議だし、もうあそこの施設には帰らないと思うと夢の中に居るようだ。

 僕はあらためて、

(一人ぽっちじゃない!)

 と、自分の境遇が大きく変わったことを感じた。そうしたら、グーッと小さな音を立てて、お腹の緊張が緩んでいくのが分かった。

 

(何時だろう?)

と、身を起こしたら、タンスの上の目覚し時計は四時だった。

(おつかいに行くにはまだ早い。まだこうやっておれる……)

 と、畳に寝転がった。

 そうやって意識が現実にもどると、また、さっきの興奮が呼びさまされ気持ちがたかぶった。

(あんなけんかは慣れている……)

 相手は四人もいたのだから、このくらいのひっかき傷で済んで助かったのだ。

あいつの名前は知らないが、今頃は病院に行ってるだろう。



            二 


 昼休みのことだった。

 昨夜からの雨で閉じこめられた教室は、逃げ場のない喧騒と熱気に包まれていた。

 僕の席は一番後ろの窓際の一人席なので、ワーン、ワーンとうねるような騒ぎの渦に巻き込まれずにおれた。

 一人の利発そうな男の子が近づいてきた。

「やあ」というので、「やあ」と答えたが、その子に特に話題はなく、二人で窓の外を眺めていた。

「ずいぶん細かい小雨だね」と、その子が言うので、

「いや、これは霧だっぺ」と、僕は大きな声で訂正した。

「えっ、霧か?」

「雨があがって霧が湧いているんだっぺ」

すると、そいつは意外そうに目を丸めて僕の顔を見たので、僕のしゃべり方が皆と違うのだと気づいて、うつむいた。

 でも、その子はそんなことにこだわらず、話を続けた。

「ここでは霧はめずらしいが、君のいた木田市は霧が多いところなんだ」

「いや、その前にいた名賀は霧が多かった」と、僕は用心して話した。

「君は、木田市の前に名賀市にいたのか?」

「そうだ」

「木田市は人口どのくらいだ?」

 二ケ月しか暮らしてないから、僕は木田市の詳しいことは知らない。

「さあ?」と、首をかしげた。

「ここから、どのくらいかかる?」

「新幹線と電車で三時間」

「前の学校は大きいの?」

「うん」

 木田市の学校のことは、わずかな間しか通わなかったし、あまり話したくないことなので、あいまいに返事した。

 悪気は感じなくとも初めての相手だし、それに僕はしゃべるのに臆するところがあるので、お互いの緊張は解けず、話ははずまなかった。彼は離れて行った。

 肌寒い雨がうっとおしくて、冴えない気分だった僕は、誰にもかまわれずに放って置かれるのがありがたかった。

 席についたままボンヤリ窓の外を眺めていた。

 校庭を覆った霧が這うように流れ、その中に周りの樹木が浮かぶ。墨絵のような濃淡が刻々変化していく。幻想的で、初めて見る景色のようであった。

 たしかにこの雨は、僕がこの街に越してきて最初の雨だった。


 その時、ふと、人の気配を感じ、横向くと、

(やばい!)

 いつの間にか、背の高いあいつの、人を小馬鹿にしたような、目を細めた顔が僕を見おろしていた。そして、その後ろにドングリ眼のメガネ顔と、つり上がった狐目の顔の細いヤツの二人がいた。

(こいつらは仲間だ!)

 目の前の背の高い子を見上げると、視線がからみ、そいつは薄い唇をひん曲げあごをしゃくるようにして挑発してきた。

 朝からよく目が合うと思っていたが、とうとうその時が来たのだと覚悟した。

(こいつらは、クラスの弱い連中をいじめていた。誰も止められない……)

僕は野良犬のように神経を研ぎ澄ます。

(僕も餌食になるのか?)


 こいつは背が高いだけで力がありそうには見えない。うしろの二人も僕と同じくらいの体格で強そうには見えないが、いっしょにかかってくれば厄介だ。

 僕は身を硬くしたまま、まっすぐ座り直した。

 そうしたら、あいつは、

「何を見ている?」と話しかけてきた。

(このようにわざと穏やかに言い出す時は、魂胆がある……)

「何か面白いのが居るのか?」

(ほらっ、来た!)

 僕は口をつぐんだまま無視しようとした。

「何とか言えよ! お前はしゃべれないのか! えーっ!」

 と、目をむいて顔を近づけてきた。

(本性を現した!)

無視して済ませられる相手ではない。僕はいつでも動き出せるよう身構えた。

「おいっ! なにを見てたんだ」

「霧だ」

「霧だあ? ええ、霧だっぺ」

 ゆっくりした口調でそう言うと、口をゆがめて振り返えり、仲間二人の顔を探る。

(えっ! さっきの僕の言葉だ!)

(こいつは、僕の訛りをからかっているのだ!)

 僕はこぶしを握り締めた。

「おいっ! もっとしゃべってみろよ」と、再びあいつの顔が迫った。

「なあ、霧だっぺ」

 目を剥いた顔が寄ってくる。

(もう、がまんできない!)

 一瞬、頭の中が真っ白になって、僕は立ち上がり、

「やめろ!」 大声でどなっていた。

 あいつは、見おろしていた僕が急に突っ立って顔がくっつくように迫ったので、頭を後ろに反らした。

 引きつった目。

(驚いている! )

 反撃されるとは思わなかったな。

(負けるものか!)

 教室の片隅で起こった怒声に、皆が振りかえり、にらみあっている僕らの姿を見て言葉をのみこんだ。緊迫した無言の波紋が伝わり、静まる。

 僕は精一杯、怒気をこめてにらみつける。

(ここで引き下がったら、図に乗ってくる。負けないぞ!)

 半歩しりぞいた相手だが、青ざめた顔でにらみ返してきた。

(でも、こいつは、どうしていいか分からないのだ……)

 教室中の皆が見ているから、取っ組み合いになれば、先に手を出した方が悪いと言われるに決まっている。あいつの後ろにいるドングリ眼とキツネ目の二人も、手を出すきっかけがない。

 誰も声を立てず、僕もこぶしを握りしめたまま、にらみ合いが続いた。

その時、

 ジリリリッリーン

 授業開始のベルが鳴り響いた。

 教室にほっとした空気が膨れ上がり、はじけるようにざわめいた。

 あいつは、ぷいっと僕から目をそらし、取りつくろった横顔を見せて、離れて行った。

 廊下に静かな足音がして、先生がドアを開けた時には、全員、何ごともなかったように席に着いていた。

(やれやれ、逃れられたか……)

 あいつは僕にいばりたかったのだ。僕がすなおに言うことを聞くと思ったのだろう。でも、こうなったからには、きっとあいつは仕返しをたくらむ。

 僕はゆだんなく過ごした。


 放課になった。

 僕は、さっさと帰りしたくをして教室を出た。



             三 


「おい!」

 校門の茂みの陰で、あいつは待ち伏せていた。

(やっぱり、けりをつける気か……)

 急に足音がしたので振り返ると、僕のあとを三人がつけていた。

 僕を取り囲んだ四人。ノッポのあいつと、ドングリ目の眼鏡、つり上がりの狐目の他に、新しくまん丸顔のデブがいた。このデブがいちばん力がありそうに見えた。

「待て」

 と、あいつが僕の前に立った。

 駆け出せば逃げられるだろうが、僕は逃げない。こんなもめごとはさっさと決りを着けた方がいい。後あとまで尾を引いて、こそこそ逃げ回って過ごすなんて嫌なことだ。

「話しがある」と言ったあいつは、ついて来い、と目顔で指図した。

 四年生ぐらいの女の子が三名、僕らを避けるように顔を伏せて通り過ぎた。

 僕は覚悟を決めた。

 不安と緊張を悟られないよう、わざと珍しそうにキョロキョロあたりを見回しながら、ついていった。渡り廊下を横切ってトイレの陰を廻って、校舎の裏の崖の下の空き地に出た。

(ここには誰も来ない……)

 四人に囲まれた。

 ランドセルを背負ったまま油、ぼくはゆだんなく立っていた。

 こういう時には目をあわさない方がいい。

 こっちがおとなしくして見せれば、相手の戦意が砕けて冷静になろうとするかも知れない。そんな相手でも、こちらの視線の挑発を受ければ虚勢を張って、その内それが本気になって、何かのきっかけでカッと興奮して突っかかってくる。

 僕は目を伏せてあいつらの視線を避けた。

 雨の水溜まりはすっかり消えているが地面は湿っていて、取っ組みあって転んだら泥だらけになる、と思った。

 端の草むらに黄色一輪、小さなタンポポが咲いていた。


 まずはあいつらの出方を見ることだ。僕をなぐりたいのか、それとも口げんかで終わらすつもりなのか……。

(もし、なぐってきたら、最後はかみついてでも僕が勝つ!)

 そんな僕の決意を、覚られないようにした。

 僕の正前の背の高いあいつは、胸を合わせるほどに顔を近づけてきた。

(目をむいて脅しているつもりか、負けないぞ!)

「お前は、転校生の癖にでかい顔をするんじゃないよ! 変な言葉を使いやがって……」

 引きつった声だ。

(仲間の前でかっこうつけている……)

(こいつは、僕が泣き出すまでやめない……)と分かって、僕は覚悟を決めた。

そうしたら、自分の顔面の血が下がって、青ざめていくのが分かった。

「お前は、ちゃんとしゃべれるまで、おとなしくしていろ!」

「よけいなお世話だ!」

 大声で言い返したら、

「タゴサク、引っ込んでいろ!」

 そう言うと、あいつは右手をのばして僕のほっぺたをつねった。

 爪を立ててつねったぞ、あいつは……。

(がまんするのもこれまで!)

 それで、僕はランドセルを地面に置くなり、あいつの左頬を思いっきり平手で打った。

 パチッ

 大きな音がした。

 目を見張ってほっぺたを押さえ、あいつはひるんだが、次の瞬間、チラッと横目で仲間たちの顔を見た。

緊張と督励のドングリの顔、冷酷さの漂う狐目の顔、それと傍観の感情がこもったデブの顔。彼らの目を意識したあいつは、

「やったな! こいつめ!」

 と、上ずった声をあげて、僕につかみかかってきた。それから取っ組みあいになった。

 あいつはげんこつで僕をなぐろうとするが、そうはさせない。僕は胸ぐらをつかみ、大きく揺さぶり、振り回した。

(力のないヤツだ。こいつ一人なら負けない……)

 そしたら、あいつの仲間たちが後ろから僕のシャツをつかんで、蹴っ飛ばしたり殴ったりして、かかってきた。

(汚いやつらだ……)

(不意にかかってくるので、やばい!)

 そのうちデブに、はがい締めされそうになった。それで、身をよじって振りほどきざま右ひじで後ろを打ったら、ドスッ、と固い手応えがあって、デブは胸を押さえしゃがみこんだ。

 それでも、まだ三対一だ。

 顔を見合わせたあいつらは、またかかってきた。

 身体をつかまれて押さえ込まれたら、やっつけられてしまうので、僕は腕を振り回し足でけった。頭突きもした。

 ずいぶん小突かれて、引っ張られてよろめき、二度ほど地面に引き倒されそうになって、尻餅をついたし、手とひざを着いた。

(このままじゃ、やられてしまう……)

 それで、的をあいつ一人に絞った。

(噛みついてでも、あいつを泣かしてやる!)

 あいつの胸ぐらをつかんでもみ合っているうちに、あいつのシャツが大きく裂けた。あいつは手を振り回して僕を突き放そうとした。僕は、いよいよ窮地に追いこまれそうなので、そうなったらあいつの顔に咬みついてやろうと思って、首に右腕を廻し、左手であごを突き上げた。

 その時、うしろからシャツを引っぱられたので、前かがみになって頭を相手の体に押しつけた。

 あいつは身体を反って、よたよた何歩か後退したが、こらえきれずに仰向けに傾き、僕の下になって倒れた。

 ドタッ、と倒れたその時だ、あいつは、

「ギャッ!」

 悲鳴をあげた、と、その前に、

 ポキッ

 小さな音がしたようだった。

 僕は急いであいつの上から降りたし、皆もびっくりして僕らから離れた。

 あいつは左手をついて起き上がったが、真っ青な顔をしている。

 右腕を上げようとして、ひじから下がぶらぶらして動かない。

 泣き顔になった。

(逆手を突いて、骨が折れた!)


 そんなわけで、僕は、無事に帰ってこれた。

 無事だと言っても、このざまだ。体中が痛い。

 泣けてくるのは僕のランドセルだよ。泥だらけで、バンドの金具が壊れたじゃないか。中身は放り出されてしまった。踏みつけられた筆箱は、ぐしゃりとつぶれている。

 くやしい。ひきょうなやつらだ。

 なんで、このような目に遭うんだ。

 泣いているわけじゃないが、くやしくて、涙があふれてくる。

(でもさ、こんなことは、この学校に来る前にも何度もあったじゃないか……。今日が初めてじゃないぜ……)

(しっかりしろ! タカシ!)


 ずいぶん長い間、畳に引っくり返っていた。

 すっかり気持ちが落ち着いた。

 寝転がったままふすまを開けてみると、ガラス戸の向こうに夕焼け雲が広がっている。

(もう、仕事を始める時間だ……)

 まず洗濯をして、それから台所を片付けて、部屋を掃除しよう。そのあと夕飯の買物に行く。いつものように家事をやるのだ。

(僕は、こんなことじゃ負けない!)



              四


 さて、自己紹介しておく。

 僕の名は熊谷孝タカシ

 一週間前の新学期から、神奈川県山崎市立川原小学校五年三組に在籍している転校生だ。

 僕はみなし児で、十日前から、このアパートのカズさんに養われている。

 カズさんは、前に、僕のお父さんの部下だった人で、建築の設計技師をしている。本当の名は和三郎ワサブロウというのだが、皆は、カズさんと呼んでいた。

 僕らが、山あいの名賀市の街に住んでいた頃、休みの日に、よくカズさんが家に遊びに来た。そして僕と妹のチコを隣町の遊園地に連れてってくれたことがあった。夕方、歩き疲れたチコが背の高いカズさんに肩車されると、口には出さなかったが、僕はうらやましかった。そうやって、くたびれて家に帰ると、お父さん、お母さんが待っていて、カズさんもいっしょに晩ご飯を食べた。

 お正月から二週間過ぎた時、僕のお父さん、お母さんとチコの三人が交通事故で亡くなった。ついこの間のことのように思えるが、あれから三月経っている。

 天涯孤独の身の上になった僕は、少し離れた木田市の児童養護施設に入れられた。そしてカズさんも会社の都合で急に東京の本社に転勤することになって、このアパートで一人暮らしをしていた。

 そんなカズさんが、突然、木田市の施設に僕を訪ねてくれたのは、ひと月ほど前のことだった。

 あの頃の僕はさびしくって、毎日がつらかったので、カズさんの顔を見るなりしゃくりあげてしまった。

(だって、施設に来てひと月経って初めて、知っている人に出会ったんだもの……)

 あとでカズさんが話してくれた、

「タカシがヤセッポッチになって、おびえたような顔をして、そして俺に会うなり泣き出したから、びっくりしたよ」

 それからカズさんは、僕といっしょに暮らせるよう、あちこち駆けずりまわって手続きをした。

 親戚でもないカズさんが、どうして僕を引き取るのか、皆がふしぎがった。

(カズさんは恩人……)

 それで、カズさんと暮らすようになって、迷惑をかけないってことを、僕は自分に誓ったんだ。

 洗濯、掃除、それから晩ご飯のしたくは僕がやることに決めた。

それから一週間経った。料理は上手に出来ないけど、カズさんに教えてもらってやる。

 だから、

「僕は、今日も、日課をはたす!」

 と、起き上がった、その時だ、

 ピンコーン。ピンコン

 玄関のチャイムが鳴った。



             五


「ハーイッ」

 反射的に、返事はした。それから、ハッと気づいた。

(さっき涙を手でぬぐったから、顔がひどいだろう……)

 あわてて洗面所に行った。

(これじゃまずい!)

 鏡に写る顔は、泥が付き、すり傷がある。

 顔を洗うとヒリヒリしみた。

(シャツも破れている!)

 泥だらけの半ズボンはさっき着替えたが、シャツの肩の部分が破れているのに気づかなかった。


 ピンコーン。ピンコン。

 ピンコーン。ピンコン。

来客は、せっかちにチャイムを鳴らしている。

(エーイ! このままでいいや……)

 そのままのかっこうで玄関に出た。

 右足を運動靴の上に踏み出して、右手を伸ばしてノブを回しドアを少し引いた。

 眼鏡をかけた背の高い、知らないおばさんだった。

 嫌な予感がした。

 いらついた顔をのぞかせたおばさんは、

「ごめん下さい」と、ていねいに言って、その癖、自分でドアを押し開けた。

 おばさんは、僕の顔をにらむように見つめていたが、

「あなたが、熊谷孝君ね」

「は…」

 どういう用件か分からないが、高圧的なおばさんだ。

「お母さんは、おいでですか?」

 おばさんは、部屋の奥に届くような大きな声でそう言って、覗きこんできた。

 そして、一呼吸置いて、ドアを大きく押し開けたので僕は一歩下がった。

 片足を玄関に踏み込んだおばさんの後ろに、ノッポのあいつがうつむいていた。

(あいつめ! お母さんを連れて来た!)

 白い三角布で右腕を吊った派手なかっこう。

 親に言いつける卑怯なことをしたから、まともにこっちを見られない。

 よく見れば背の高いところや鼻の先がとがっているところなど、二人はよく似ている。

(いじわるそうなおばさんで、最悪の事態だ……)

 おばさんの口調が急に乱暴になった。

「お母さんは居ないのね。どうしたの? お使い?」

 かん高い声でしゃべる。

「お勤めなの? いつ帰ってくるの?」 

 立て続けに問いかけてくるので、返事をするひまなんかない。

「君がミツルの腕を折ったのね」と、僕をにらみつけた。

(こいつはミツルというのか……)

 僕はおばさんの視線にかまわず、うなだれたミツルを眺めていた。

「ミツルのシャツはひどく破れたわよ。あなたは乱暴だね」

 そう言うと、僕の頭のてっぺんから爪先までジロリ眺めて、少し目もとをゆるめた。

(僕のシャツも破れてるだろう。どういう状況だったか分かるだろう……)

 僕の気持ちは冷静だ。

 でも、おばさんは、すぐもとの調子にもどってきつい口調でしゃべり出した。

「あのね。君! ミツルは腕を折ったんですよ。どうしてくれるの? 

 右腕なんだよ。鉛筆を持てないでしょう。勉強出来ないんですよ。

 今、お医者さんへ行ってきたけど全治一ヵ月です。ひどいことをしてくれたわ。私は君のお母さんとお話ししたいの」

 おばさんは僕の顔から目を離さない。

(一ケ月のけがは重傷だ……。でも僕のせいじゃない!)

(お母さんがいないことは言いたくない!)

「いったいあなたって子は、うちのミツルにどんな恨みがあって、こんな乱暴をしたの?」

 おばさんは顔を寄せてきた。

 僕はその顔を見上げたが、吊り上った目に威圧され思わず顔を伏せた。

(でも挫けない!)

(恨みだと?)

 僕は顔を上げ、うしろのミツルをにらんだ。

 言いがかりをつけて待ち伏せしたのはそっちだ。

(ひきょう者め。恥ずかしくないのか?)

 そのミツルは横を向いたままだった。

「お母さんはいつ帰ってくるの?

 そういえば、あなたの名前は熊谷孝でしょう。この家の表札は安藤でしょう。あなたの家族はどうなっているの?」

(そんなことは関係ない……)

 僕は、おばさんの陰に隠れるようにしているミツルに、声をかけたかった。

(もし、ミツルがこっちを向いたら、「卑怯者」とののしってやる!)

 一人で興奮していたおばさんが少し冷静になったようで、僕の視線の先を確かめるようにわが子を振り向いて口を強く結んだが、また僕に向きなおった。

「どうしたの? さ!」

 おばさんは、あごをしゃくって返答をうながした。

(答えるもんか……)

 悪いのはそっちじゃないか!

 あいつが僕のホッペタをつねらなかったら、こんなことにはならなかった。

 僕が抗議しようとおばさんの顔を見上げて、目と目がぶつかって、おばさんは怒り出した。

「答えなさい。お母さんはいつ帰ってくるの?」

(そんなことしゃべるものか!)

 と、僕は歯を食いしばって、負けなかった。

「もうっ!」

 おばさんは目をそらした。

(怒られても、どうされてもいい……)

 と、僕はおばさんのよく動く唇を見ていた。

「私はもう帰るからっ! 家の人にちゃんと話しときなさいよ。

 何よ、この子は! ひとことも謝らないで!」

 バタン

 ドアを閉めて帰って行った。

(絶対に謝るものか!)

 反発した僕の顔には涙なんか出なかった。

 吹っ切るように、僕は台所で朝の食器を洗った。



           六


 夕べと同じ七時十分にカズさんが帰ってきた。

「ただいま」

「お帰りなさい」

「おや? どうした? その顔は?」と、カズさんの細い目が見開いた。

 僕は答えられない。

「そうか、やったか……。大丈夫か、けがは?」

「うん」

「薬箱は知ってるな? その顔の引っかき傷は消毒しときな。

 お前は、男だもんな、やっつけられたらやり返せよ。

 お前はやせてっけど力があっから、けんかは強いっぺ。子供の社会といっても、今は、競争社会だもんな。お前も学校でいろいろあんだろう。厳しいよ、な!

 でも、タカシは気持ちがやさしいから、弱い者いじめはしねえべな」

 カズさんは、そう言って僕の頭をなでたので、

「痛い! こぶ!」と、言いそうになって、身をすくめた。

 カズさんは僕の顔の引っかき傷に消毒液を塗ってくれて、それから会社の作業服を着替えた。僕は台所に行き、舞茸と油揚の味噌汁の鍋を火にかけ、味噌を入れる準備をした。

 味噌は食べる直前に入れる、とカズさんに教わった。

「オッ! サラダにコロッケか。味噌汁もつくったか、上出来だな。

 さてと、俺はそこでトンカツを買ってきたぜ。

 ほらっ! たまにはこってりした物を食いたいだろう」と、ビニール袋をテーブルに置いた。

「えっ! うん」と、僕の返事は複雑だ。

「俺は、今日、仕事がひと区切りついたから、ビールがいいなあ。まだあったべか?」

(しまった! 冷蔵庫のビールは品切れだよ……)

「今、買ってきます。おつゆを見てて下さい」

「いいよっ! ウイスキーをやるよ」

「すぐだから行ってきます」

 僕は、運動靴をひっかけて薄闇の表に飛び出した。すぐそこの通りの自動販売器で、今日は一番大きな五六〇円の缶ビールを買った。

 カズさんは、ときどき晩酌をやる。

「これで気分が切替えられるんだよな」と言って、おいしそうにビールを飲む。

 たいがい缶ビール一本だが、この間は、そのあとウイスキーに手を伸ばした。その時、「もうちょっと、やっか?」と言って、僕の顔を見たので、自分のお酒なんだからお好きなようにどうぞ、と僕はうなずいた。

 カズさんは、いつもは晩ご飯が済んでから机に向かって勉強するのだが、たくさんお酒が入るとのんびり寛ぐので、僕は歓迎だ。そして、カズさんはおしゃべりになる。

 さっきカズさんは、僕の傷ついた気持ちに気づかない振りして、やっつけられたらやり返せと言ったけど、本当はとても心配してくれていることが分かる。カズさんに抱きついて、ありがとう、と言いたい気持ちだ。

(ガンバレ、タカシ。カズさんがいるじゃないか。独りぽっちじゃない……)

 僕は、今日一日の嫌な出来事の、胸の中の残像を追いはらった。

 

 どこからかニシンの焼く匂いが漂ってきた。

(ニシンはお父さんの好きな魚!)

(お腹がすいた……)

 僕は足を早めた。

(僕が、あのトンカツを買わなくってよかった……)

 実を言うと、買物で、コロッケにしようかトンカツにしようか迷ったが、トンカツは高いので止めたのだ。

 僕は一日千円の予算でおかずの食料品の買物をしている。押入れに僕とカズさんの秘密の金庫があって、僕は自由にお金を扱っている。そして買物の記録はすべてノートにつけている。

(お母さんが家計簿をつけていたのを、まねしているのさ……)

 お母さんの顔が目に浮かんできた。

(お母さんのトンカツは大きかった……)

 お父さんの顔が浮かんできた。

(お父さんは毎晩ビールを飲んでいた……)

 そして、僕は、

「チコ」と、つぶやいた。

 知恵子は、小さい時、自分のことをチエコと言えなくて、チコちゃんって言っていた。それで僕らは知恵子のことをチコと呼んだ。

 知恵子は、僕といっしょにお使いに行きたがった。

(お母さんに、ありがとうと言われるのがうれしかったのだろう……)

 こうやって夕暮れになると、毎日のように家族の顔が浮かんでくる。

 あわてて、

「もう、あの家に、皆は居ない」と呟いて、夕飯の食卓の情景を打ち消したが、せつなくて胸がこみ上げてきた。

 そして、僕といっしょに残されたジャックのことを想い出すと、保険所で殺されに違いない、あの犬がかわいそうで顔がぐちゃぐちゃになってきた。

(泣き虫め!)

 頭の中を振り払うように首を振って、拳で顔をぬぐって、僕は駆けだした。

(カズさんが待っている……)

(僕は、もう、家なき子じゃない……)

 こんな近くにおつかいに来ただけでも、僕が帰る家があることを幸せに思う。

 この瞬間、僕の買い物のビールを、家で待っていてくれる人がいることをうれしく思う。


「ただいま」

 カズさんはシャワーを浴びていた。

 カズさんが帰ってくると、ほっとする。僕はカズさんにいろんなことを話したいが、実際には少ししか話してない。カズさんはおしゃべりな人でないこともあるが、僕の方の気持ちにも遠慮があって、以前のように気軽に話せなくなってしまった。

 それでも、何もしゃべらなくとも、ただじっと僕の顔を見てくれる眼差しがやさしい。

(とても好きだ……)

 とうとう昼間のことは、けんかのこともあいつの母親が来たことも、カズさんには話さなかった。






         第二章 校長室の客                                四月十四日(金)

           一


 いい天気だ。

 でも、ほっぺたの傷が引きつるし、気が重い。

 教室に入ると、僕を見る皆の目が変わっている。きのうまで僕に近づいて話しかけた子も、今日は遠くから眺めているという雰囲気だった。

 きのうの昼休みにミツルと僕のいさかいがあって、今朝の僕の傷ついた顔を見れば、あれから放課後にどんなことが起こったか分かる筈だ。

担任の工藤リカ先生が教壇から僕を見て、

「オヤッ?」と、いうような顔をしたが何も言わなかった。きれいなお姉さんのような先生だが、僕は打ち解けてしゃべったことがない。

(先生は昨日のけんかのことは知らない……)

 

 昨日の四名の席をそれとなく確かめたが、張本人のノッポのミツルの姿はなかった。

 僕は、油断なく身構えて過ごした。 

 騒ぎは、二時限目の授業が始まろうとする時に起きた。

 まず、リカ先生が呼び出され、

「すぐ、戻りますから、自習してなさい」って、教室を出て行った。

 それからしばらくして、次に、僕が校長室へ連れていかれた。

 ドアを開けて、ぴょこんと頭を下げて入って、顔を上げると、校長先生とリカ先生が相手をしているのはミツルの母だった。

 おばさんは僕の方を見た。

「おや、少しは反省しましたね」

 僕は、反省なんかしない。そっぽをむいた。

「まあ」

 背の高いおばさんが恐い顔してにらむから、僕はドアの前で突っ立っていた。

 リカ先生が僕のそばに来た、

「熊谷君。ミツル君のお母さんに謝りなさい。おわびしなさい」

 僕は思わず首を小さく振っていた。

(なぜ僕が謝るんだ!)

 先にけんかを仕掛けたのはあいつだぞ! 僕は腕を折ってやろうとしたのじゃない……。

(先生は、僕に、どうしたのか聞いてくれてもいいだろう……)

 リカ先生が、引きつった声で、

「熊谷君! ミツル君が腕を折ったのは君のせいでしょう! 謝りなさい」

(先生は何も知らない……)

 僕は、リカ先生の顔を見上げたが、その、きつい、なじるような大きな目にたじろいで、うつむいた。

(先生は僕を怒っている……。そんな馬鹿な目にあってたまるか!)

 そのまま誰も無言だった。

 僕は頭の中がボーッとして、どうしたらいいのか、何が何だか分からなくなってしまった。そしたら、周りの人のことが気にならなくなって、

(叱られているのは、本当に僕なの?)

(なぜ、僕がここにいる?)

 と、この部屋の騒ぎが、まるで、人ごとのように思えた。

 無意識の内にこの場から逃れたくなったのかも知れない。僕は顔をあげて、窓ガラスの向こうの青い空を眺めていた。

 そしたら、目を吊り上げたおばさんが僕を指さして、

「何よ、この子の態度は! 昨日もこうだったんだから。人を馬鹿にして……。

 ちっとも悪いことをしたとは思ってないのね。なんて強情なんでしょう。

 この子の親に謝らせてください!

 ミツルは右腕のけがで一ケ月間、鉛筆を持てないんですからね。塾へ行ってもノートが取れないんですよ。いったい全体どうしてくれます?」

 と、いっきにしゃべったおばさんは、校長先生に向き直った、

「この学校ではこのような乱暴な子供を放任しているのですか? 暴力はいけないと反省させないのですか?」

校長先生は眼鏡の奥からじっとミツルの母の顔を見ていたが、考えを整理しているのか、返事しない。

 するとおばさんは、今度は、リカ先生に向かって、

「あなたは、いったいどんな教え方をしているんです? この子に注意しましたか?」

「申し訳ございません。さっき申しましたように、私は昨日の放課後のけんかのことは知りませんでした。それにこの子は転校してきたばかりでして……」

「オッヤ! そうですか。じゃあ、あなたのせいではないのですね。前の学校の教育が悪かったのですね」

(やっぱり僕を悪者にするのか……)

怒りがこみ上げてきた。

(絶対に口をきくまい……)

 目に溜まった涙が落ちそうになるのをこらえた。

(泣くな、弱虫!)

(違う、くやしいのだ……)

 うつむいたら、ポロリと涙が落ちた。

白けた時間が流れた。

 それまで黙っていた校長先生が、僕の方に近づき、僕の顔をのぞきこんで大きくうなずき、肩に手を置いた。

「さあ、タカシ君。もう教室に戻りなさい」

 小柄でやせた校長先生のどっしりした声だった。

 それからリカ先生に、

「大事な授業ですから、先生も教室へ戻りなさい」

 そして、おばさんに向き直って、

「奥さん、後ほど私が詳しい事情を調べまして、御報告に伺います。大変ご迷惑をおかけしましたが、この場はこれでご勘弁下さい」と、白髪混じりの頭を下げた。

 リカ先生は、僕の肩を抱くようにして廊下へ連れ出した。そして、僕の涙をハンカチで拭いてくれた。

(リカ先生が、やさしくなった……)

(先生は、あいつの母親に怒っている!)

 それから僕の肩に手を廻したまま、教室まで並んで歩いた。

「さあ、皆が待っているわ。授業を急がなくっちゃ。あとで話しを聞かせてね」



            二


この日、ミツルは学校に出て来なかった。

 僕は休み時間に、ドングリ眼鏡、狐目、デブの三人を一人ずつ捕まえ、

「おいっ!」と、昨日のけんかの続きを吹っかけた。

「ミツルのけがは、僕のせいじゃないぞ。悪いのはお前たちだ! 違うか? 文句あるか?」

ドングリ眼は、目をしょぼつかせ、黙ったままうつむいてしまった。

 狐目は、一瞬、敵意に満ちた目で見返したが、それだけである。

「意気地なし!」

 と、なじっても、目を伏せて、僕にかかってこれないのだ。

(一人では何も出来ない弱虫……)

 デブは僕の言葉に、弱々しく胸に手をやった。まだ胸が痛むのだろう。


 教室の雰囲気は、すっかり変わっている。昨日まで我が物顔に教室内をひっかきまわしていた乱暴者グループが、ミツルが出てこないこともあって、おとなしくなってしまった。

 そして、僕がそいつらを脅かしたから、僕にしゃべりかけるヤツは誰もいなかった。


 昼休みに、リカ先生に呼ばれた。

「さっきはごめんね。君の言い分を聞かないで……。くやしかったのね」

 色白の先生の黒い瞳が、僕の目をのぞきこむ。

 僕はうなずいた。

「どうしてあんなことをしたの?」

「僕がやられるから……」

「そう、ミツル君は身体が大きいからけんかが強いのね」

「いや、強くない。でも四人だったから……」

「そうなの、相手は四人で君一人だったの。君は強いんだね。でも、なぜけんかになったの?」

 僕は、昨日の昼休み時間に起きた最初からの、すべてを話そうとした。でも、「けんかの原因は?」と聞かれて、僕は何もしてないとしか答えられなかった。

 なぜミツルが僕にいいがかりをつけてきたのか考えると、僕のしゃべり方があいつの気に触ったのだと思う。

(先生に、僕の言葉の〔なまり〕のせいだと言いたくない……)

 それでも、四人が僕を裏庭に連れて行って取り囲んでけんかを仕かけてきたことは、理解してもらえた。

 それから、カズさんと僕のこと、つまり僕の家のことをあれこれ聞かれたが、カズさんといっしょに暮らし始めてまだ十一日しか経っていないから、どう話していいのか分かりやしない。

「カズさんって、君の親戚じゃないの?

じゃあ、どういう関係の人? 今のお父さんでしょう!」

(えっ、お父さん?)

 僕は絶句した。

「それで?」と、返答をうながされても、僕は答えられない。

 始業のベルが鳴ったので二人はあわてて教室へ戻った。

(先生は、せっかちに事情を呑みこもうとしている……)

 僕のことを簡単に話しなさいと言われても、それは無理だよ。この三ケ月、僕はとてもひどい経験をしているのだから……。

(リカ先生と僕とは、気持ちがすれ違っている……)


 孤児になって、ずいぶんといろんな人の世話になった少年である。

そんな少年が身にしみて感じたのは、やさしい言葉をかけてくれる人の中にも、心から心配してくれる、信頼していい人と、表面はいたわりの言葉をかけてくれても、本気で心配してくれているのかどうか、本当のところは分からない人がいることだった。

(この先生は、自分を裏切るだろうか?)

 その不安が少年の心に影を落としている。


 放課後、リカ先生に呼ばれて、そのまま校長室へ入った。

 そして、校長先生にけんかのいきさつを聞かれたら、リカ先生が僕に代わって話してくれて、時々大きな目で僕の顔を見るので、僕はうなずいた。

(僕のことをよく分かってくれた!)

 リカ先生がかばってくれると思うと、僕は打ち解けて校長先生に話せた。

 そして、校長先生は的確に質問する。それで全部話してしまった。

「そうか。ミツル君が君の言葉を馬鹿にしたのが始まりか。四対一で囲まれて、けんかが始まったのか……」

 校長先生はリカ先生にうなずいた。そして、僕の顔をまじまじと見た。

「そうか、顔のこの傷はミツル君につねられた跡なのか……」

「僕は絶対に謝りません。悪いのはあいつなんですから……」

「君が悪くないということは分かりました。あとは先生に任せなさい」

 落ち着いて静かに話す校長先生を、僕は好きだ。

 すぐに僕は解放された。

 廊下に出て、リカ先生が僕の肩に手を置いて、「さようなら」と、言ってくれた。


 ランドセルを小脇に抱えた僕は、頬をなでる心地よい四月の風に向かってひとりでに駆け出していた。






          第三章 スッポン

                            四月十七日(月)

             一


 今夜はカズさんはいない。明日まで出張だ。

 僕は一人で寝床に入っている。

 今日、またけんかをやってしまって、身体のあちこちが痛い。


 学校の帰り道、急いで歩いていて、六年生の二人連れを追い抜いたとたん、

「おい! 待て!」

 振り向くと、一人が僕の肩をつかんだ。赤いティシャツを着たそいつは、意地悪な目で僕の顔をのぞきこんだ。

「お前だろう? このあいだミツルの腕を折った転校生は?」

(この六年生は知っている!)

 おととい、おつかいの商店街で、僕がよそ見して歩いていて、ぶつかりそうになってにらまれ、バツが悪かった。

「お前は生意気なんだってな」

(まただ!)

(でも、ここで逃げちゃ駄目だ……)

 僕は覚悟を決めて、言った、

「ミツルが悪いんだ! 放せ!」

 そしたら、赤シャツは僕のえりをつかんで引き寄せ、いきなりビンタを食らわしてきた。僕は歯を食いしばってその瞬間に耐えた。

 僕はくじけない。

(こんなばかなことはない!)

 僕より大きくて力が強そうだが、けんかは、やってみなければ勝つか負けるか分からない。

そいつの目をにらみ勇気を胸にためた。

(ここで負けたら、だめだ! あとあとまでいじめられる……)


 勝ち誇って目を怒らせた相手の顔が迫ったので、反射的に広げた右手を突いた。

 手のひらが鼻に当たり、ぐにゃりした瞬間、骨がぶつかった。赤シャツは、

「げぇッ」っと、顔を押さえ、崩れるようにしゃがみ込んだ。

 鼻血にびっくりして、泣き出した。

 僕も手首が痛かった。

 もう一人の黄色のシャツを着たのは、ぼう然と突っ立っていた。小柄で、こいつなら負けないと思ってにらんだが、黄シャツに闘う気はない。

 突然、黄シャツが学校の方へ駆け出していった。

「逃げるのか!」

 呼び止めたが、振り向きもしない。

 僕は立ち去るわけにはいかず、うずくまって顔を抑えている赤シャツの鼻血が落ち着くのを眺めていた。

 地面に吸い込まれた血が、強い陽にさらされて黒い点になる。

「上向いたらいいよ」と僕が声をかけたら、赤シャツは尻を下ろして、顎をあげ、そうした。

 低学年の生徒たちが何組か足音を忍ばせるようにして側を通りすぎて行ったが、僕は気づかないふりをした。そうやって、しばらく過ぎた。

 バタバタと足音がしたので振り向くと、さっき逃げ出した黄シャツが六年生を二人連れて戻って来た。

「こいつか?」と、その内の緑色のシャツを着た大柄のが僕をすごんだ。

「あっちが先に殴ってきたんだ」と、僕は精いっぱい言った。

 それから、その緑シャツにやられた。もう一人の白いシャツの男も、先ほどの黄シャツも加わって僕の身体を捕まえた。

 何発か殴られ、地面に引き倒された。

 一方的に殴られ蹴っ飛ばされ、一時は気が遠くなりそうになったが、その大きな緑シャツが、仰向けにころがった僕に馬乗りになって、他の二人は手を引いた。

 万歳したかっこうの両手首を両手で押さえつけられ、両肩を膝で圧迫され、僕は身動き出来ない。

 相手が大きく息を吐いたので、どうやら向こうの激情はおさまったと感じた。

(嵐は吹き抜けた……)

 僕は冷静だ。

 そいつは、

「どうだ、仕返ししてやったぞ。弱いヤツだ」と、大きく目を見開いて威張ったが、僕の腹の上で前かがみになって両手が放せないのだ。

 僕はこの状態で押さえつけられていても、痛くもなんともない。

(もう、相手は手を出すまい……)

(僕が泣き出すのを待っている……)

(よし! 今からだ。僕は負けない!)

 そのまま僕はおとなしくしていた。

 視線をそいつの顔から外し、空を見ると、真上に白い雲が流れていた。

 そうやって、何分か過ぎた。

 さっき鼻血を出した赤シャツが立ち上がったようだが、僕に対する敵意は失って、じっと突っ立っている。

 緑シャツが、

「どうだ、まいったか」

僕は答えない。

 緑シャツは僕を持て余して、背を伸ばしてキョロキョロしだした。

 そして、ついに僕が狙っていた機会が来た。

 そいつが油断して横を向いた隙に、急に力を込めて右腕を縮めたら、相手の手が外れてその身体が僕の方に倒れかかってきた。それで、僕は両手でそいつの左手をつかみ、顔を持ち上げて、口に入った人さし指にかみついた。

「ギャッ」

 一瞬、僕の口の中の指が曲がって外れそうになって、僕は強くかんだ。

「ワアッ」

 相手はふたたび悲鳴を上げた。

 指がちぎれる、と思ったのか、そいつは抵抗を止めた。そして真っ青な顔をして腰を浮かせ、僕の身体から体重をはずした。

 黄シャツも白シャツも立ちすくんでいる。

 しばらくそのままの姿勢でいたが、僕が左手でそいつの体を押して起きあがろうとすると、自分から身体を動かした。

 そして、僕はその指をくわえたまま立ち上がり、その時、指が外れそうになったので強くかんだら、あいつは身をよじった。そして、

「指を放して……」

 と、泣き声で請うた。ほかの者たちはぼう然としている。

 それで僕が勝った。


「もう、こんなけんかは嫌だ!」

 思わず、寝床の中で叫んだ。

(何で僕をいじめる、転校生だからか?)

 チコといっしょだった頃は、こんなけんかはしたことがなかった。

(あの頃はおとなしいお兄ちゃんだったが、今じゃ乱暴者だ……)

 でも、負けたらだめだ。

「チコ、見ててくれよ。お兄ちゃんは誰にも負けないぞ」

 そんなことをつぶやきながらも、僕は心の中で泣いている。

(弱虫め!) 


 辛酸をなめた少年だ。

「寂しくっても泣いちゃいけない」なんて、誰に言われたわけではないが、メソメソしていたら負けてしまうことを知っている。

 現実を見すえ、必死に自分で局面を打開していかなければならないから、泣いている余裕なんかない。

 親の庇護のない孤児であれば、自分で自分の身は守らなければならない。

 降りかかる苦悩は、自身で始末しなければ、誰が助けてくれようか。

 他人に甘えて寄りかかり、じゃけんに振り払われて、みじめに傷つくのは嫌だ。それは幼くとも苦難の波にほんろうされた身の、本能が命じる生きる術。

 少年には、すねたり、ひがんだり、身近な人や物に当たったりする、甘えはない。

 少年は、相手がどんなに強くても、勇気を奮い立たせ立ち向かっていく。 



             二


 寝床から起き上がった。

 カーテンの隙間から表を覗くと、三日月お月さんがいた。

 顔を洗って頬の火照りを冷ました。

 なかなか寝つかれない。

 うつぶせになったら、枕に当たった頬が痛い。

 それで、施設にいた頃のことを思い出した。

 今日みたいに殴られて顔が腫れて、痛くて寝つかれなかったことがあった。あの頃の僕のあだ名は、スッポンだった。スッポンは、いちどかみついたら絶対放さない。雷が鳴るまで放さないそうだ。


 まだ幼い少年が、おぼろげながら意識していることがある、それは、弱さを見せたら、やばくなることである。

 なぜなら、苛める側にはサデスチックな感情があるから、相手がおろおろうろたえたり、媚びた弁解をしたりすると、よけい腹立たしくなって、かさにかかって攻撃しかねないからである。

 また、被害者が黙って暴力に耐えていると、無知な子供がバッタの足をもぐように、ついひどいことをやってしまうのが人間なのだ。

 どんなに弱くとも、「痛い」「苦しい」「やめろ」と、泣き叫び、身を守る意思を強く出さなければならない。

 少年は相手がどんなに強くても、どんなにやられた時でも、気持ちを強く持ち、最後まで相手に屈しない。誰から教えられたわけでもないがこの少年が会得した、相手に咬みつくスッポンの戦術は、せっぱ詰まった少年が生き延びる知恵だったのだ。


 木田市の施設にいた頃は、僕はよくけんかをした。たいがい年上の連中が相手だった。

 黙って彼らの命令に従っていたら家来にされてしまう。

「お前、五十円を貸せ」なんて、言われても、僕は、

「嫌だ」と言い張った。そして、なぐられた。

 くやしいので僕も負けずに相手にしがみついていった。しかし、向こうは大きくて力があるから、結局は組み伏せられてしまう。そんな時、僕は相手にかみついた。腕、手、指、どこでもかみついた。

 あの時は寒い朝だった。三つ年上の子が僕の鉛筆を取り上げようとしたので、嫌だと抵抗したら、建物の陰に連れていかれた。あいつは、あそこで一番横暴で身勝手なヤツだった。

 僕がどうしても承知しないものだから、今日みたいに、思いっきりほっぺたを殴られた。何発かなぐられた。そして、雪の上に倒され身動き出来ないように組み伏せられ、勝ち誇った相手が目をむいた顔を近づけて、僕を脅しにかかったんだ。

「俺の言うことを聞けねえのか」

「!」

「もっと痛い目にあわしてやる」

 あいつの白い息が僕の顔にかかってきた。あいつの顔が間近にあった。この瞬間を僕は待っていた。

 僕がガバッと首を起こし、口を開けてあいつの顔に噛みつきにいって、上の前歯が頬に触れたら、びっくりして僕の上から飛びのいた。

 それからあいつは僕に手を出さなくなった。

 でも、あの日、腫れ上がった顔をした僕は、

「誰とけんかした? 誰にやられたんだ?」と、先生にうるさく聞かれた。しかし、僕は無言で通した。

(先生にチクッても、後で仕返しされるだけだ……)

(先生は助けてくれない……)

 あの晩もフトンをかぶって、痛さと悔しさで泣いた。

 

 どんな年上の相手でも、僕は、いったん噛みついたら相手が泣き出すまで放さない。

 相手も、痛くて皮が破れそうで、最後は泣いて言う、

「許してくれ」

 そこまで頑張るのがけんかに勝つコツなんだ。

 そして、スッポンとあだ名がついてからは、僕は上級生から殴られなくなった。

 先生に、かみつくのは卑怯なやり方だって叱られたが、僕みたいに独りぼっちの小さい子が負けないためには、しょうがないだろう。

(あの先生のことは思い出したくない。施設のことは思い出したくない……。止めよう……)


 その前の名賀の街にいた頃は、いじめられることもなかったし、幼かったせいか取っ組み合いのけんかなんかしたことがなかった。あの頃は、独りぽっちがどんなことか、考えたこともなかった。

(チコがいたし、いつもジャックといっしょだった……)

 僕の顔を見上げるジャックの姿が目に浮かぶと、涙があふれて顔がグチャグチャになってしまう。

 かわいそうなジャック。

 僕は頭を振って、頭の中からジャックのことを追い払う。

 僕は、頭をあげて気持ちを切り換えた。

 そうしたら気づいた。

(そうだ! あの犬……)


 僕のアパートから学校へ行く途中、いつも近道をする路地で、金網に囲われた庭に、一匹の犬がつながれている。黄色い水仙の咲いた狭い庭で、その犬はいつも金網に顔をこすりつけるようにして通る人を見ている。尻尾の立った茶色の雑種で、頭を上げると僕の腰の高さほどもある。耳がピンと立っていて、鼻面から口の周りにかけて真っ黒で、ずいぶん怖そうな顔付きだが、この犬の目を見るとやさしい犬だということが分かる。

 僕は初めて見た時から気になっていた。

(身体つきがジャックに似ているんだ……)

 

 また、ジャックのことを想い出した。

ジャックはあの名賀の街にいた時に、僕が拾ってきた子犬だった。

 まだヨチヨチ歩きだったチコが、触りたくて触りたくて、いつも追いかけていたし、ジャックもチコにまとわりついていた。

 チコがずいぶんと歩けるようになってからは、ジャックの綱を持ちたがった。それで散歩させる時はチコがいっしょだった。

 チコは死んじゃったし、ジャックもいない。

 カズさんは、僕が木田市の施設に行く時に、

「ジャックを知り合いに預ける」と言って、連れていったけど、僕は信用していない。

 あのあと、僕がジャックのことをたずねた時の、カズさんの寂しそうな顔は、嘘に決まっている。

(ジャックは保健所にやられたのだ!)

 だって、あの時は、お父さん、お母さん、チコ、皆がいっぺんにいなくなり、僕一人だけが取り残され、そして、その僕も施設に入って……、だからジャックが居る所なんてない。カズさんだって東京へ転勤した。

(皆んな死んでしまった……)

(死ぬってどういうこと? 急にいなくなってしまうことなんだ……)


 そんなことを考えているうちに、いつの間にか涙が出てきて、手でぬぐったのは覚えている。

(ジャックのことを考えると泣いてしまうんだ……)

(負けるなタカシ!)


そのまま寝入ったようだった。






            第四章 寂しい犬 

                             四月十八日(火)

              一 


 今日もいい天気だ。

 朝、早めに家を出て、その路地の庭に立ち寄った。

 金網越しに立った僕に、その犬が近寄って来た。そして僕を見上げた。

 僕がうなずいて、

「ヨシ、ヨシ」と言うと、そいつは尻尾を振った。

(よし! 友だちになれる!)

 僕は、金網の間からそいつの鼻面を撫でた。

(この犬は散歩に行きたがっている……)


 その日、学校の帰り、僕とそいつがあいさつしている時、来かかった買い物籠を持ったおばさんに、その犬は急に激しく尻尾を振って甘えた素振りをした。

(飼い主だ!)

「おや、怖くないのかね。君は犬好きなんだ」

 見かけはずいぶん取っつきにくそうで、乱暴なしゃべり方をするおばさんだが、この口調に意地悪はない。眼鏡の奥の目は優しい。

 それで僕は思わず、

「この犬、散歩に行きたがっているようだけど、僕が連れてってあげようか?」

「えっ、行ってくれる? 

私は腰を痛めて困ってたの。夜、お父さんが帰ってくるまで待っているの。

 大丈夫よね。

 じゃあ、ジョンをお願いするわよ! いいのね」

(ジョンって名か……)

「うん」

「ジョン、大丈夫ね! このお兄ちゃんが散歩に連れてってくれるんだよ。ちゃんと言うことを聞くんだよ」

 言葉が分かるわけがないが、首輪に引綱を繋いでいる間も、うれしそうに尻尾を振っている。

「ジョンはあなたが気に入ってるわ。大丈夫ね」

「うん、行ってきます」

 そう言って、僕が、綱を引いて歩き出したとたん、

「待って! 駄目よ! 袋よ!」

 おばさんの大声が呼び止めた。

「えっ?」

「ほら、ウンチの始末をしなければいけないでしょう」

 移植ベラ、新聞紙とビニール袋が入った手提げ袋を手渡された。

 僕は河原にジョンを連れていった。簡単だった。

 この犬は、勝手に先に歩いて無理やり綱を引っ張るようなことはしない。しかし僕が駆けだすと、全力で走り、競争になって僕はあとを追いかけた。

 でも、立ち止まって、

「おすわり!」と言うと、きちんとお座りするのでぜんぜん問題ない。よくしつけられている。

 三十分ほどして戻ってくると、おばさんがニコニコ手を振って迎えてくれた。ジョンの綱を預けると、

「ありがとう」と、大きな声で言って、ほほえんだ。

僕が帰ろうとすると、

「待ってちょうだい」と呼び止め、家の中に入るように手招きした。

 僕は、その威厳のある態度に押し切られた。

 どぎまぎして玄関を上がろうとすると、今度は、

「待って、足が汚れているわ」と言って、雑巾をしぼってきて、

「さあ、これで足を拭きなさい」

 次に洗面所で手を洗わされた。

(お母さんみたいに、いやおうなし……)

 それから、台所のテーブルでホットケーキとオレンジジュースをごちそうになった。おばさんは隣に腰掛けて僕が食べるのを眺めていた。

「あなた、何年生? 六年生?」

「五年です」

「そう、しっかりした顔をしてるわね」


 そして、この日からジョンの散歩が、放課後の僕の日課の一つになった。

 学校がひけると、僕は、まずジョンの家に寄って鞄をあずけ、散歩に連れ出す。

 僕は、ジョンを連れてこの街をあちこち探検した。クラスで誰かが話していたお祭りのあった公園とか、サッカーの試合をやったグラウンドとか、どんな所か行ってみたいところは、少しぐらい遠くとも訪ずれた。ジョンは喜んでついてきた。

 知らない街の路地では、同じ年頃の子供がたむろしていて、侵入者をこばむように監視するものだが、ジョンがいっしょだと平気だった。とても恐そうな顔をしたジョンだから、どんな意地悪そうなヤツに出会っても、相手の敵意は感じなかった。


 おばさんの話しでは、

「遠くからでもあんたの足音を聞きつけて、金網の側で待っているよ」

 ジョンは、僕を見ると尻尾を振って喜ぶので、こちらもうれしくなる。僕が引綱と例の手提げ袋を持って近づくと、跳ね回ってワン、ワンと吠え、早く行こうとさいそくする。

 僕だって、家に一人いるよりどんなに楽しいことか。

 僕はどんなに学校の帰りが遅くなってもジョンと付き合った。おばさんが用意してくれるオヤツも魅力だった。


            二


 教室では、相変わらず僕はしゃべらなかった。

(僕の言葉には〔なまり〕があって、皆のようには話せない……)

 そう意識すると、口をつぐんだ。また、そんなことを考えていることを人に知られたくなかったので、たいがい、一人でいた。

 時々、話しかけられても、僕が「うん」とか「いいや」とか、短い返事しかしないので、クラスの連中は、よっぽど無口だと思っただろう。

 近くの席の連中は、そのように打ち解けない僕でも、何の理由も無く他の子をいじめたり意地悪したりしないと理解してくれたようで、暖かく接してくれた。

 真ん中の一番後ろの席のエミちゃんなんか、毎朝、顔が会うとニッコリほほえんでくれ、励まされているような気持ちになる。

 しかし、教室内では油断がならない。他愛ないふざけっこがエスカレートしていさかいになり、逆上したヤツが僕に当たってくることがある。そんなとばっちりが及びそうな時、僕は出来るだけ身を避けた。しかし、前にけんかしたドングリ眼鏡とか狐目のように、僕のことを面白く思わないヤツもいて、わざと僕を巻き込むようなふざけを仕掛けてきた時は、敢然と腕力をふるって拒絶した。

 いくら子供の世界でも、突然ふざけかかるとか、いたずらすることは、相手を見くびって馬鹿にすることだ。

 僕はいたずらを仕掛けられたと気づくと、本気でつかみかかっていった。相手が後ずさりしながら、「なんだ、こいつマジかよ」なんて言うと、かえって許さなかった。押し倒して馬乗りになり、相手が泣き出すか、許してくれというまで押さえつけた。

 僕をからかうとどんなことになるか、やられたヤツは身に沁みているに違いない。


 それから僕は、授業についていけないところがあって、コンプレックスがあった。

 分数が分からない。

(掛け算の答えは大きくなる筈なのに、分数の掛け算はそうはならない。どうしてなんだ?)

 教科書が違うし、この学校の進み方が早いせいだろうが、勉強が出来ないということは初めて味わったことなので、悩んだ。なんとか努力しようとする意志はあるが、算数の教科書は、読もうとしても難しくてわからない。

 授業中、先生に当てられて答えられない時などじっと屈辱に耐えた。

 その時間が終わって、

「分数の割り算は、ひっくり返してかければいいんだ」と僕に教えてくれたやつがいた。

「どうして、そんなことをするのだ?」と、僕が聞いたら、

「なにをばか言ってんだ」とあきれられた。

 あとで、そのやりとりを、気心の知れないヤツにからかわれた時は、僕は憤然とこぶしを握って立ち向かい、相手をたじろがせた。

 僕は付き合いにくいヤツ、けんかっ早いヤツと思われただろう。でも、僕はもめごとにかかわりたくないから、放っておいて欲しいと願っているのだ。


 ただ、救いはあった。

 僕が、リカ先生に信頼されていることは、誰の目にも明らかだっただろう。

 先生は、僕がもめごとを起こしても、一方的に僕を非難したり、なじったりするような叱りかたはしなかった。

 そして僕は、どんなに暴れていても、

「止めなさい」

 リカ先生の一言で、止めた。そして先生は、

「後で、職員室へ来なさい」

 級友たちは、僕は職員室でガッチリしぼられたと思っているだろうが、実際は違う。

 職員室へ行くと、リカ先生は、

「どうしたの?」

「うん……」

「もう落ち着いたね。大丈夫ね」と、僕の気持ちを気づかってくれた。

 そして僕の家のこととかカズさんのことを、ポツリ、ポツリたずねた。





   第二部 寂しくて眠れない夜

          第五章 先生のごちそう


             一


 孤児の少年が、この学校に転校してきて二週間が過ぎた。

 少年は、同級生からからかわれて相手をけがさせた。少年は上級生に絡まれたが、相手の指にかみついて負けなかった。激動の二週間だった。少年は乱暴者と呼ばれたが、本当はそうでないことを理解してくれる人たちがいた。


                           四月二十一日(金)

「タカシ君、どうしたの? きのうも今日も、何だかボヤッとしてるんじゃない?

 今朝は遅刻したでしょう。何かあったの?」

 放課後の職員室で、リカ先生に聞かれた。

 このところカズさんの出張が続き、おとといの晩帰ってきたと思ったら、昨日の朝また出かけ、僕はひとりぼっちでいる。

 そして、今朝は寝坊して、朝ご飯を食べずに走ってきたが、先生より何歩か遅れて教室に入ったのだ。

「今朝は何時に起きたの?」

 問い詰められて、一人ぼっちの生活だと白状した。

 僕一人じゃ何をやっても張り合いがない。朝寝坊をしてしまうし、ご飯の支度もいいかげんになって、朝晩、パンで済ましている。

「ちゃんと朝ご飯を食べてる?」

「ん……」

「ご飯は誰が造ってくれるの?」

 答えられない。

「それじゃ、今朝は何を食べたの? 話してごらん」

 先生に、根掘り葉掘り問いただされて、僕の食生活をありのまま話してしまった。

「ふーん、そうだったの」

 先生は、何か考えていた。

「君は、今晩のごはんを自分で作るのね。明日の分もね」

 僕はうなずいた。

「よーし、それじゃあ、ね! 

 今晩、先生がご飯を造ってあげましょう。

 君んちへ先生が行っても大丈夫?」

 僕はびっくりしたが、

「うん」と、こっくりした。

「よし、いいわね」

「ええ!」と返事したが、どうなるのか、事態が飲み込めなかった。

「そうね……。五時ちょっと過ぎにタカシ君ちへ行くから、家で待っててね。おいしいのを造ってあげるから期待していいわよ」と、一人決めしている。

 とんでもないことになった。

 僕は何を買って置こうか迷ったが、ジャガイモ、ニンジンと卵があったので、キャベツひと玉と鳥のモモ肉三百グラムを買っておいた。そして、いつもより念入りに部屋の掃除を済ませ、炊飯器を仕掛けた。


 約束の時刻、重い買い物袋を下げた先生が到着した。

 急いで歩いてきたようすで、上気した顔が輝いて、とてもきれいだった。

 台所で、

「まあ、良く片づいているじゃない! 感心だね」

 そして、ジャガイモを剥きながら、

「タカシ君は学校に慣れたかな?」

「……」

「友だちは出来た?」

 と、僕の顔を覗いたので、僕は首を振った。

「クラスの子は気持ちのやさしい子が多いわ。そのうち仲良くなるわ」

 エプロン姿のリカ先生は、よその家のお姉さんみたいだ。

 先生と二人の食卓は少し緊張した。しかし、おいしいものはおいしい。僕はパクパク食べた。

 豚肉のソテイがおいしかった。缶詰のパイナップルがたくさん添えてあった。緑のブロッコリーもひさしぶりだった。

 クリームシチュームがおいしかった。お代わりした。明日の分もある。

「私はね、お料理がとっても好きなの。

 でも、今はね……、食べてくれる人がいないでしょう。つまらないわ」

「……」

「これからもタカシ君が一人の時は造ってあげるから、今日みたいな時は教えてね」

「うん」


 それから先生は僕のことをたずねた。

 木田市の施設に入る前の名賀市のことをずいぶん話したが、それからの僕の境遇の変化が激し過ぎて、呑み込めないようだった。

 ぼくはカズさんに引き取られて、迷惑をかけないように、洗濯、掃除、食事の準備は自分でやろうとしていると話した。先生は黙ってうなづいた。


 七時半になった。

「カズさんの出張はいつまで?」

「来週の水曜までです」

「えっ、そんなに長いの? 

 じゃあ、明後日の日曜日、私は夕方からお仕事があるので、お昼ごはんを造ってあげるわ。いいね」

「うん」

「そうね。タカシ君。そのうち、休みの日に私んちへ遊びにおいでよ。歓待するわ。

 でもなかなか休みが取れないのよね。その時は連絡するからね。約束だよ、君」

「うん」

「人間って、一人で居ると、どうしても寂しい時があるのよね。

 タカシ君は小さいのに、我慢して立派だわ。カズさんが居なくて、寂しくてどうしようもなくなったら、私に話しなさいね。話し相手になってあげるわ」

 いくらリカ先生でも、僕がそんなに甘えるわけにはいかない、と思った。

「それから、私はお庭が好きなの。お花を植えるのがね……。誰でもお花は好きでしょう。

 人はね、どんな人にも好きな人嫌いな人があって大変だけど、お花はね、嫌いな人はいないわよね。

 タカシ君とこは一階だけど、前の庭にお花を植えられないの? せっかくの花壇だから、もっときれいにしたらいいのに……。先生が種を蒔いてあげようかしら」

「うん」

「この部屋も殺風景ね。何か、植木鉢があってもいいわね。今度、株分けしたのをあげるわ」     

「はい」

 それから、僕は料理を教えてもらうことになった。あさっても先生が僕の家に来てくれて、筑前煮というのを造ることにした。


 リカ先生に親しくしてもらって、嬉しかった。

 僕は学校に行くのが、とても楽しみになった。

 先生に、にっこり微笑まれると胸がドキドキした。



             二

                           四月二十四日(火)

 今日は、一日中、雨だった。

 リカ先生は一日置きに来てくれて、今日で三回目になる。そして、明日はカズさんが帰ってくる予定だ。


 学校から帰る時、ものすごい土砂降りだったので、ジョンの散歩は後回しにした。家に着いてびしょ濡れになったシャツを着替えていると急に雨足が弱まった。すると、先生から電話があって、

「今から行くわよ。途中、買い物して」

 それから僕は先生を待っていた。

 いつもよりずいぶん早く到着した先生は、

「雨だから早めに済ましましょう。今日のごちそうはてんぷら。てんぷらは初心者には無理ね。カラッと揚げるには油の温度が難しいわ。油に火が付いたりしたら危ないから、上級コースね」

 そう言われて、僕は、ホッとした。

「先生、僕、犬の散歩がまだなんです。今から行ってきます」

「そうなの、早くお帰りよ。

てんぷらは揚げ立てがおいしいから、早くいただきましょう」

 小降りの雨の中を僕は駆け出した。


 このあと、思いがけない展開になった。突然、カズさんが帰ってきていたのだ。


「ただいま」

 ドアを開けるなり、カズさんの作業服の、背の高い後ろ姿がテーブルに見えた。そばに大きなカバンがある。

「あれぇ、カズさん! 帰ってたの!」

「よう、元気だったな」

「早かったね! 明日じゃなかったの」

「一日早く仕事が済んだんで、お前を驚かしてやろうと連絡しないで帰ってきたんだけど、俺の方が驚かされたっぺ」

 僕が近づくと、

「この人は、どこの人?」と、カズさんが低い声でたずねた。

「先生だよ! ご飯を造りにきてくれたんだよ」

「えっ! 先生か! それは、それは……」

 カズさんは、立ち上がって、改まった大きな声で、

「先生でしたか。どうも失礼しました。タカシが大変お世話になってありがとうございます。私はタカシの保護者の安藤和三郎です」

「こちらこそ、留守中に、勝手におじゃましてすみません」

 天ぷらを皿にとりあげていた先生は、顔だけこちらを向けて大きな声で答えた。始業式の前日、僕たちが学校に行った時は担任の先生が決まっていなかったので、カズさんとリカ先生とは初対面だった。


 その晩、僕は本当に幸せだった。

 もっとも、ちょっとした揉めごとはあった。

 食事の支度が出来るとすぐ、先生が帰ろうとしたからだ。

(先生に帰られたら、嫌だ!)

 先生はいつものようにいっしょに食べていくつもりだったのを、カズさんがいるので遠慮している。

「先生、いっしょにご飯を食べてってください」と、お願いした。

「失礼します」と言って靴を履きかけた先生を、無理やり僕はひきとめた。

「先生、駄目だよ。帰っちゃ嫌だよ」

 背の高いカズさんが大きな声で、

「どうぞ、お願いします。先生」と、小柄な先生の手をとって引きもどした。ふだんおとなしいカズさんにしては強引なところがある。僕も最後は、先生の背を押して席に着いてもらった。

 先生のてんぷらを、

「うまい、うまい」って、カズさんが食べた。

 カズさんは先生にビールを注いだ。

 先生もカズさんに気を許したようで、おみやげのカマボコを、「おいしいわ」とほおばった。 

「イヤア、びっくりしました」と、カズさん。

「私も、驚きましたよ」と、先生。

 以下、カズさんと先生がかわるがわる語った話。


 カズさんは、出張先で自分の担当する仕事が早く片づいたので、皆より一足先に帰ってきた。そして我が家のドアを開けたとたん、女の人の声が、

「あらっ、早かったのね」

 そこで、

「しまった! 家を間違えた」と、あわてて表へ出て、

「久しぶりに帰って来て、家を忘れたか……」と、表札を確かめた。しかし、

「間違いない。いったい、誰だろう? 

タカシはどこへ行ったんだ……」

 そこで、思い切って、ゆっくりドアを開けたら、

「タカシ君。濡れなかった? まだ降っているんでしょう?」

 と、てんぷらを揚げていた先生は、振り向かずに話しかけた。

 それで、どういう人だかわからないが、タカシの知り合いの人が晩ご飯を造ってくれている、ということが分かった。

 今の話しだとタカシはすぐ帰ってくるようなので、そのまま腰掛けて、様子を見ることにした。

 そうやってテーブルに肘をついて先生のうしろ姿を眺めていた。

「私もね、ふと何だか妙な気がして振り向いたら、男の人が座っているのでびっくりしました。でも、あなたが笑顔だったので、怖くはありませんでした」

「僕は、『あなた、だーれ?』って、言われましたよ」

「私も、『君こそ誰だい』って、言われました」

「それは失礼しました!」

「すぐ、カズさんだって分かりました。でも、『僕はワサブロウだけど……』って、言われて、カズさんとワサブロウさんと、二人いるのかと迷いました。それで担任だと言いそびれました。すみません」

「僕もですね、あなたがどこの誰か分からず、また、どういうわけで来てくれてるのかも見当がつかず、とまどいましたよ。まさか担任の先生とは考えませんでした」

 で、二人は、そのまま僕の帰りを待つことにしたのだそうだ。

 

 だんだん二人は打ち解け、缶ビールが五本、空になった。

 二人とも僕のことを、先生は学校での僕を、カズさんは家での僕を話題にしてしゃべった。いつもは静かなカズさんがとても楽しそうだった。

 食事が終わると先生は、

「どうもごちそうさまでした。楽しかったです」と、立ち上がり、食器を片付けはじめた。

「あっ、それは僕がやりますよ」と、カズさん。

 結局、三人がかりで食器を片づけた。

 そして、僕が駅まで先生を送っていった。

 雨は止んでいて、塀越しに張り出した柿の木の枝の黄色い若葉が、外灯に光っていた。

「カズさんって、いい人ね」

「うん」

「でも、いきなりテーブルに座ってるんでびっくりしたわ、先生は」

 そう言って微笑まれた、ほんのり赤くなった、きれいなお顔だった。

 



       


        第六章 乱暴者と呼ばれて

 

            一

                            四月十四日(金)

 少しさかのぼるが、ミツルの骨折から四日たった昼休みのことだった。

リカ先生が僕を自習室に呼び出し、

「きのう、校長先生といっしょに、松池ミツル君の家に行ってきました。お父さんとお会いしました」と、話しだした。

 

 校長先生が、

「責任があるのはミツル君の方でして、熊谷君にやましいところはありません。このことはミツル君はもちろんのこと、熊谷君も含めた当事者五名から事情聴取した結果です。先に手を出したのはミツル君です。

 昼休みに熊谷君の言葉の訛りをからかって、そして、放課後、四人で組んで熊谷君一人を校舎裏に連れ出したのです。

 腕を折ったのは、取っ組みあって、もつれて倒れたためで、意図的な行為ではございません。間が悪かったということでしょうか。

 まあ、なんといたしましても、わが校の児童がこのようなけんかをしたということは、私としましては面目次第もございません。特に松池さんには、ご子息にけがを負わせる事態となり、申し訳ございませんでした。私の監督不行届きをお詫びします」

 両手をついて頭を下げられたそうだ。

 お父さんは、

「ご迷惑をおかけしたのは、こちらの方こそ、です。お騒がせしました。子供にはよく言い聞かせておきます。どうもすみませんでした」と、大恐縮だったそうだ。


「これで、タカシ君、終わったわよ。

 ミツル君にはノートをコピーしてあげたから、ちゃんと勉強しているわ。もう何も気にすることはないのよ」

 しかし、僕の気持ちはおさまらない。

(ミツルが悪いのに、なぜ校長先生が頭を下げるんだ?)

 校長先生は、弱い者いじめをするミツルのことで保護者に文句を言ってもいいのに、反対に、申し訳ないと謝ったのだ。

(監督不行き届きか!)

(ミツルの母親はひどい人だ……)

 あのおばさんなんかちっとも恐くはない。僕には関係ない人だから、何を言われても無視してやる。

 ただ、ホッとしたのはカズさんに迷惑をかけずに済んだことで、とうとうカズさんには秘密にしたままだった。


 ミツルとはあれっきりで、特に和解したわけではないが、けんかのけりは自然に着いていた。ミツルは意識して僕を避けているようだが、わざわざ僕からミツルに仲直りを申し出る必要はない。



           二

                           四月二十一日(金)

 新しい転校生が来た。

 僕の隣に机を運んできて、ヤスシが座った。僕と同じぐらいの背格好で、眼鏡をかけている。慣れないせいか、キョロキョロして落ち着かない。

 僕はクラスの子供たちの名前もぜんぶ覚えたので、ヤスシに聞かれるまま教えることができた。


 この頃は僕の緊張もほぐれ、僕なりにクラスに溶け込んで落ち着いて過ごせるようになった。

 僕が上級生を泣かしたので、

「タカシは恐いぞ! 怒ったら何をするか分からない」

 そんな噂が広まったようで、もう誰も僕をからかうヤツはいなくなった。

 六年生とのけんかは、誰からも仕返しはなく、あれでおさまった。

 あの後、緑シャツと出会った時、照れくさそうな顔をして、

「おう!」と手を挙げたので、僕は目礼を返した。それからは、僕は彼に会うと、遠くからでも、「こんちわ」ってあいさつする。そのようにして上級生に敬意を表すのは悪い気分じゃない。しかし、赤シャツとはちょいちょい出会うが、打ち解けるきっかけがなくて、互いに知らないふりをしている。



            三

                            四月二十七日(木)

 今日はがっちり叱られてしまった。

 ヤスシのお陰だ。


 僕は生活当番だったので、放課後、教室に残って学級日誌を書いていた。そんな僕を、

「いっしょに帰ろう」と、ヤスシが待っていて、そこに二人、ヤスシと話したい連中がいて、にぎやかに雑談していた。

 前の学校のことをたずねられて、ヤスシが、

「生徒数はこの学校の半分ぐらいだ。でも校庭はこの倍ぐらい広い」などと、答えている。

 小さな丸顔に眼鏡をかけているヤスシは勉強が得意そうである。そして誰とでも親しそうに話しする。

 ヤスシには、僕みたいな訛りはない。

 新入は、だいたいは皆から歓迎されるので、好奇心旺盛なクラスメートがヤスシの周りに集まる。そして、なぜか、ヤスシはいつも僕の側にいる。席が隣だから当然だが、さらに家の方角が同じだから、僕といっしょに帰ろうとする。

 ヤスシは、何のこだわりもなく僕に話しかけるので、つられて僕も皆の話の輪に加わっている。


 その時は、放課後で、打ち解けて話しがはずんでいた。そのうちヤスシがふざけて、僕が書き終えた日誌を大声で読み上げたので、僕は、

「こいつめ!」って、捕まえて取り上げようとした。ヤスシは身をかわして逃げる。

 初めてヤスシが僕に心を許してふざけてきたことだし、僕にとっても、この学校に来て友だちとふざけあった最初の経験だった。これまでの緊張が解けて気がゆるんだのか、僕は、はしゃぎ過ぎた。

 ヤスシは日誌を掴んで机の間を逃げ回って、僕も、

「返せ!」と、おもしろがって追いかけて、そのうちに他の連中も僕に加勢した。三人でヤスシを捕まえようと、机にぶっつかったり足を踏み鳴らしたり、教室はものすごいドタバタの騒ぎになってしまった。

 たまらなくなってヤスシは廊下へ飛び出し、バタバタ走って逃げた。僕がまっ先になって追いかけた。その時だ、

 ガラッ、

 一番はじの一組の教室の戸が開き、男の先生が恐い形相で出てきた。

 四角い顔に太い眉の、三十代半ばの先生が、両手を広げ僕の前に立ちはだかった。

「しまった」

 と思っても、もう遅い。

「コラッ! 何を騒いでいるっ!」

 一喝され、毛むくじゃらな腕が僕の体に迫ったので、観念して捕まった。

 先に逃げてたヤスシの方は階段を下りて逃げ切り、追いかけていた僕が捕まった。

 他の連中は、ずーっと遅れていたので助かった。

「なにごと?」

あちこちのドアが開いて生徒たちが出てきたので、先生は僕のえり首をつかんで教室の中へ引きずり込んで、

 ピシャッ!

ドアを閉めた。

 先生はその教室で、一人で何か書き物をしていた様子だった。

 シーンとした教室で、僕が一人、大柄な恐い先生ににらまれている。

 教壇に立たされ、徹底的にしぼられた。

「廊下を走ったらいかんことぐらい、分からないのか?」

「なぜ、クラスメートをいじめるのか?」 などなど、説教されて参った。

 僕は、ドタバタ騒いで迷惑をかけたことを反省し、

「すみませんでした」と、謝った。

 でも、全然、通じなかった。

 あの先生は、僕がヤスシをいじめていたと思い込んでいるから、僕が何と言っても分かってくれない。

「お前は乱暴だって評判じゃないか」

「……」

「ただのふざけで、あんな大騒ぎになるか! 嘘つくな!」と、角ばったあごが迫る。

「僕はヤスシ君をいじめてません。彼を捕まえたら、それでふざけっこは終いです」

 僕が弁解すればするほど、先生はいらだってしまった。

「お前は、ミツル君の腕を折ったんだろう」

「あいつが悪いんです」

「お前は、六年生の手にかみついてけがさせたらしいな!」

「でも!」

「もう、弱い者いじめはしないと誓え」

「弱い者いじめはしてません」

「なんだと!」

 だんだん声が荒くなって、太い眉を立て、こめかみに青筋を浮かべ、

「まだ、分からんのか、強情者め」

 先生は拳を握った。

(逆上して、なぐられる!)

 恐くて体がこわばり、一瞬、目を閉じそうになった。

 しかし、先生の視線が僕の顔からそれ、その口から深い息が洩れたので、

(助かった!)

 僕は足を踏ん張り、勇気を奮い起こせた。

(廊下を走ったことは、僕は悪いと謝った。でも弱い者いじめはしていない……)

 悪いことをして叱られているというより、何だか自分が災難に遇っているような気分になって、僕の気持ちは白けた。

(どうしても分かってくれないんなら、それでもいい……)

 恐怖心が薄れ、開き直ったということだろう。

 そのまま無言で通した。

 そうやってしばらく経った。

興奮が納まった先生は、大きなため息をついた。

 どうしても従わない僕に、あきらめたのだろう。

「素直にならんと損するぞ」と言った。

 僕は口ごたえする気はなかった。

「もう、いい。帰っていい。あとで自分のしたことを考えてみろ」

 黙って頭を下げて、その教室を出た。

 殴られずに放免されて助かったが、重たい気分だ。

(この先生には嫌われる……)

(誤解されたままなのはつらい……)

 廊下を走ったことが、いつのまにか人をいじめたことになって、叱られている。

 あの叱り方は、何だか、僕がこの学校で一番の乱暴者みたいじゃないか。

(僕はそんなんじゃないよ……)

 うつむいて、とぼとぼ教室に戻ったら、思いがけないことに、ヤスシが一人で僕を待っていた。

 そして、

「ごめんね」と、謝ってくれた。

 もとはと言えば、ヤスシが学級日誌を読み上げたことが発端だが、彼に悪気がないことは十分承知している。むしろ僕に親しみを感じてああいうことをしたのだ。

 ヤスシの気持ちがとてもうれしかった。

 並んで校舎を出て、ふと気づくと、頭上の太い枝に紅色の豪華な桜が咲き出していた。

 校庭に一本だけある八重桜。

 僕は背伸びをして、三輪ついた枝先を手折った。

「そんなことしたら、また叱られるよ」

「大丈夫、これくらい……。どうだ、きれいな桜だ」

「僕は、こんな桜、知らない……。でも、きれいだね」

「八重桜さ。前の学校にもあった」

 ふと、お母さんのことを思い出した。

二年生の時、こんな立派な桜が咲いてたって、小枝をお母さんにあげたら、八重桜だねって言って、チコの髪にピンで止めたっけ。

 一瞬、お母さんの声が脳裏に響いたが、僕は頭を振って消した。

「あげる。これをお母さんにあげたら?」

「うん、君は?」

「いらない! 僕はお母さんはいないから、いいっ!」

 桜の小枝を指でつまんだヤスシは、立ち止まって僕を見つめた。

 僕はかまわず急ぎ足で歩いた。



            四          


 次の日、一時限目が終わって、リカ先生に呼ばれ、廊下に出た。

「ヤスシ君と、なぜけんかしたの?」

 真顔で詰問されたが、

「ふざけただけです」と、事情を話し、

「廊下を走ったのは叱られてもいいですが、友だちをいじめたと怒られるのは心外です。だってヤスシは僕が怒られている間、心配して教室で待ってたんです」と語ると、先生は笑いだした。

「あの先生が怒ると恐いでしょう。なるほど君は誤解されたみたいね」

(笑いごとじゃないよ、先生! 僕には深刻な問題だ……)

 そしたら、真顔にかえった先生の説教が始まった。


「私からも、あの先生には話しておきますが、君もしっかりしなさいよ。

 君は苦労しているから分かると思いますので、大人の気持ちを話します。

 人との付き合いには、どうしたって思いも寄らないことで誤解を受けることがあります。誤解されたまま過ごしていることがずい分あります。でも、誤解に耐えられない時は、自分で解決するのが大人なんです。

君はまだ子供ですが、あえて先生は言いますから、考えてちょうだいね。

 誤解したのはあの先生のほうですが、君も、自分の行動をきちんと相手に分かるように説明しなかったのだから、反省しなさい。

 もう一歩踏み込んで、あの先生に分かってもらえる言い方がきっとあったでしょう。

 君みたいに誤解されやすい人は、どうしたら今度のようなことを避けられるか、考えるべきですよ。

 あの先生を恨んだらいけませんよ」

 先生の丸い目がじっと僕の顔を見ている。

(誤解か!)

(僕が、あの先生の誤解を解くのか!)

(しかし、あの先生は僕の話を聞いてくれないじゃないか……)

(僕はどうしようもないじゃないか……)

(あの先生は先入観で僕を叱って、勝手じゃないか!)

 僕のふくれっ面を見とがめた先生は、

「タカシ君、人のせいにするのは大人じゃないですよ。あなたは皆より大人です。

 あなたが誤解を解く努力をしなければいけないのですよ。

 時間がかかるかも知れませんが、そうやって努力して人間関係は解決するんですよ」

 さらに先生は念押しした。

「あの先生に会ったらきちんと、お早うございます、とあいさつしなさいね」

(リカ先生は、いじけそうな僕の心の中をすっかり見抜いている……)

 これだから、この先生は怖い。

 先生は何かあると、君は皆より大人だから……、と言って、僕を特別扱いする。

(大人か……)

 何となくリカ先生のおっしゃることは分かるような気がする。

(僕に早く大人になれと言っている……)

「うん」

 そう返事して、この件は終わった。


 そのあと、僕とその恐い先生と、廊下ですれ違って、僕は先生に目礼した。

「おはようございます」と言う時刻はとっくに過ぎていたので、黙って少し頭を下げただけさ。

 相手の先生はどうしたかって? 

 僕の目礼に気づいたかどうか分からない。先生の反応がなかったから、もっとはっきり頭を下げなければいけなかったのかも知れない。

(でも、あの先生は僕とは関係ないんだ……)


 リカ先生は、僕が騒動を起こした時は、理由がある筈だって理解してくれる。

「どうしたの?」って、聞かれると、

「あいつとけんかした」と、素直に話して、その状況を分かってもらえる。しかし、

「どうして? なぜ、けんかになったの?」とか、

「誰がどうしたの?」とか、

「誰が悪いの?」とか、そういった質問をされても、僕は答えられないことが多い。

 前にミツルの腕を折って、あいつのお母さんから一方的に悪者扱いされた時は、

「ミツルが悪い。僕の責任じゃない」と、言い張った。

 しかし、子供同志のささいなけんかで終わってしまったことのあれこれを、先生に言いつける気持ちにはならない。

(男の子なら誰でもそうだろう。簡単には告げ口はしない……)

 いくら先生が好きでも僕はそんなことは言えないよ。カズさんに聞かれても言えないし、お父さん、お母さんが聞いても言わないだろうな。それが男の子さ……。


 このような悪者探しの問いを鋭く追求されると、僕は困ってしまう。

(相手が悪いだけじゃない。僕だって悪い……)

 リカ先生は、僕ら男の子の気持ちの中には、自尊心の壁があることを知っている。

「どうしてなの?」って、リカ先生に問われても、僕が答えられなくて口をつぐんでしまった時は、

「おっや? 黙秘権を行使するのね!」って、許してくれる。そして、

「あなたって、強情なくらい口が固い子ね。責任感が強いのね。男の子はそのくらいが頼もしいね」と、あきれられたのか、感心されたのか、どっちか分からないが、そう言われて、僕は悪い気はしなかった。

 こうやって、僕はリカ先生には素直に気持ちを預けられた。



             五


 学校では、僕は一人ではない。そして、ヤスシがいつもいっしょにいる。

 ヤスシは予習してくるから授業が良く分かるようだった。しかし、ヤスシはキョロキョロ落ち着かないところがあるし、それに自分の手に負えないとなると、すぐ人に頼る。

 でも、僕は、ヤスシの気持ちが分かったので、うるさくまとわりつかれても、少々あいつが無茶なことをしても、許すことが出来た。そして、あいつが級友たちとの付き合いでへまをやった時は、力になってやった。だから、クラスの皆は、僕とヤスシは仲が良いと見ている。

 しかしヤスシとふざけることは、あれっきりだった。

 僕は、友だちとふざけて遊んでいられる境遇でない。毎日、夕方は掃除、洗濯、買い物、炊事をしなければならない。それにジョンが散歩を待っている。

 ジョンと川原へ行く。

 ぼんやり夕暮れの川の流れを見ていると、落ち着いた気持ちになる。

 ジョンがいるので寂しくない。

 この頃では、六時前には御飯の支度にとりかかることにしている。

 野菜を洗ったり刻んだり、けっこう、台所の仕事は時間がかかる。それだけ料理が上手になって、手の込んだ料理をやってるってことなのさ。


 晩ごはんの用意を済ませて、カズさんの帰りを待つ。支度が早く済んだり、カズさんが遅かったりすると、ボンヤリ待っている。

 七時を過ぎて、カズさんが遅くなる時は、電話がかかってきて、

「先に食べときな」と、言ってくれる。お腹がすくので一人で食べるが、寂しくて辛い。

 そんな時は、必ずのようにお母さんの晩御飯のしたくの光景を思い出し、家族三人のことを考える。そして、そんな夜は、布団の中まで思いを引きずり泣きじゃくっている。


 カズさんが帰ってくると、ホッとする。

 カズさんが出張の時は、早めにご飯を食べて後片付けし、布団を敷いてすぐ寝れるようにする。しかし、寂しくて、夜中にそっとジョンに会いに行ったこともある。それから学校に行って、一人で校庭を五周走って帰って来たこともあった。


 まもなく四月が終わる。

 タカシが転校してきて一ヶ月、緊張のうちに過ごした新しい学校生活だった。

 でも、父母と妹を失ったタカシにとっては、激動の四ヶ月が過ぎたところである。そして、今、タカシには、カズさん、リカ先生、級友だち、そして、ジョンとおばさんらの、心を許せる人たちがいる。






          第七章 あの事故のこと


                              五月二日(火)

 ゴールデンウイークの最中である。

 明日から三連休。カズさんも休めるそうだ。何となく楽しくなる。

 そしたら、廊下ですれちがったリカ先生が、

「タカシ君。明日、わが家へ来ない? ごちそう造るわよ」と、誘ってくれたのでますますうれしくなった。そして、夕方四時にうかがう約束をした。

 晩ご飯のときに、カズさんに話すと、すごくうらやましがった。

「それはいいな。ごちそうだろうな」 

 カズさんはしばらく考えこんでいたが、

「なあ、先生に、こっちに来てもらったらどうだべ。俺もご相伴にあずかりたい。先生さえよかったら、来てもらうべ」

 そんなわけで、先生宅へ僕が電話して、僕んちへ来てくれるようお願いした。そのあとカズさんが電話に出て念を押して、

「先生は買物を済ませて三時過ぎにこっちに着くのですね。……。私が買物代金を持ちます。……。そうさせてください」

 そういう手筈になった。ついでに先生は、学年始めの僕んちへの家庭訪問をすることになった。



                              五月三日(水)

 いい天気だ。

 カズさんは念入りにひげをそっていた。

 僕は台所のあちこちを磨いた。

「タカシ、大掃除するか」

 二人で部屋を片付けて、下駄箱の中まで整理した。

「お腹が空いた」

 お昼は肉うどんを造って大盛りで食べて、そのあと、僕は早めにジョンの散歩を済ませた。

 先生は約束どおりの三時に、両手に買い物袋を下げて、姿を現した。

「こんにちは。おじゃまします。給食係が来ました」

 そして先生は荷物を整理しながら、僕に、小さな声で、

「あのね、駅のロッカーに荷物を預けてきたの。タカシ君、取って来てくれない」

 それを聞いていたカズさんが、

「俺、行ってくるよ」と、僕の手からロッカーのキーを取って、飛び出していった。

 そしてその風呂敷に包んだ荷物といっしょに、スイトピーの花束を下げてもどってきた。

 楽しい食事だった。

 メインデッシュはトリの丸焼き。

(僕たちの誕生日に、お母さんが造ってくれたやつ……。そんなことをリカ先生に話したことがあるから、覚えてくれていた!)

 先生が駅に置いてきた荷物は、大きな蓋付きのアルミの鍋だった。これがなければトリの丸焼きは出来ない。

 カズさんは先生にビールをすすめた。先生もけっこういける口だ。

 アルコールが回った二人の話がはずむ。しゃべるのは先生で、カズさんは聞き役だ。

 僕はお腹が一杯になったのでテーブルを離れた。


「ワサブロウさん、あなたはタカシ君と親戚ですか?」

「いいや、タカシ君は僕の世話になった人の息子さんです。ご両親と妹さんが交通事故で亡くなられて、タカシ君は一人になってしまって、それで私が引き取ったのです」

 僕はテレビをつけて、畳に寝そべっていたが、耳に入ってくる二人の話が気になった。

 二人は声を落として続けた。


 問われるままにカズさんは、今年の一月十五日のあの事故のことをポツリポツリと語った。

 無茶な運転の乗用車のとばっちりを受けて、親子三人の乗った車がダンプトラックに押しつぶされたこと。

 交差点に差しかかったそのダンプトラックは、角を曲ったとたん、前を走っていた乗用車が止まっていたので、急ハンドルを切ってその車を避けて対向車線に飛び出したが、運悪く、そこにお父さんが運転してきた乗用車が来かかって、正面からぶつかってしまったこと。

 前の席のお父さんとお母さんは即死だったが、後ろの席のチコは頭から足まで全身に傷を負って、病院に運ばれて息を引き取ったこと。

 ダンプトラックの前で急停車した乗用車には、よそからきた若いカップルが乗っていて、角を曲がって道を間違えたことに気づいて停まったらしいのだが、この若い運転者の非常識で身勝手な行動が事故の原因だということ。ダンプトラックの積載量オーバーも重なっていたこと。そんなことをしんみり話した。    

(チコは大けがして死んだ! 痛かったろう……)

(お父さんの運転は悪くない!)

 僕は、ガードレールが大きく引っ込んだ事故の跡にお花を供えたことを思い出していた。

 僕は聞き耳を立てていた。

「なぜ、タカシ君といっしょに暮らしているのです? タカシ君は施設に入ったんでしょう? さしつかえなかったら聞かせてください」


 担任の先生が保護者に質問していることであるが、二人の大人が、相手を理解しようとする、落ち着いた心地よい会話であった。


 あの事故の日、お父さんは、カズさんに勧める縁談のことでご両親に会っておきたいと、カズさんの実家を訪ね、その帰り道に事故に遇ったのだ。

(僕はサッカーの練習があっていっしょに行かなかった……)


 僕は、初めて事故の様子を知った。そして、カズさんの気持ちが分かった。


「タカシ君が施設に入ったのは、引き取ってくれる親戚がいなかったのですか?」

「熊谷さんは北海道で育って、若い頃、家を飛び出したらしいです。よく知りませんが、上京して苦学したのでしょう。ですから、北海道に親戚の方はおられます。しかし、あの時は分からずじまいでした。

 奥さんの方は実家が福岡でした。おばあさんが何年か前に亡くなられて、それで奥さんの方の近い身内はいなくなったそうです。

 あの時は、私は、熊谷さんの下でやっていた設計の仕事をやりとげるのに精一杯でした。いろいろと指導していただいた熊谷さんが突然いなくなって、私とすれば大変なことだったんです。必死の思いで何日か徹夜して、何とか約束の期限に仕事を間に合わせました。

 仕事の方のめどがついて気づいた時には、もう、いろんなことが片づいていまして、会社の総務のあっせんで、タカシ君が施設に入ることが決まっていました。

 まったく私のせいであの家族を失っておきながら、私は何の役にも立たなかったんです。そんなわけで私はタカシ君に借りがあるんです」

「そうだったんですか。それで、そのう……、そのお嬢さん。ワサブロウさんの御縁談のあった、お嬢さんはどうなさいました?」

「以前に何回かおつきあいしていたんですが、熊谷さんが亡くなられましたし、私も転勤してこのような状態になりますと、正直なところ、今、結婚を急がねばならないというような気持ちは失いましてね……。

 つい先だってもその方から電話をいただき、久し振りに会いましたが、以前のようには気持ちが結びつかなくなりまして、結局のところ、冷却期間を置こうということになりました。

 いや、あの方に縁談があるようなんです。こういうものは何かの縁でしょう」

 僕は思い出した。

(そのお姉さんなら家に来たことがある。『カズさんの彼女だ』と、チコに話した……)

 リカ先生に問われるまま、カズさんの言葉が続いている、

「あの街を出て四ケ月、私は東京の暮らしにとまどいましたが、もう落ち着きました。今はタカシといっしょで良かったと思ってます。

 私はあの近くの工専を出て今の会社に入り、熊谷さんの下に配属になり、育ててもらいました。まったく右も左も分からない私は、手取り足取り仕込んでもらいました。仕事の上では厳しくて妥協の無い方でした。よく、『勉強せい』って叱られましたよ。私も熊谷さんの教えは忘れませんよ。今は少しずつですが一級建築士受験の準備を進めています」


 そこまでの話は覚えている。

「おーい。タカシ。俺、先生を送っていくからな」

 肩を揺さぶられて目覚めた。いつの間にか毛布をかけられている。

「おやすみなさい」

 やっと寝ぼけまなこで先生にあいさつした。






            第八章 独りぽっちの夜


               一

                             五月八日(月)

 カズさんは、時々、帰宅が遅くなる。そんな時は留守番電話にメッセージが入っていて、僕一人で晩ご飯を食べる。

 この頃は、昼間一人でぼんやり過ごすようなことはないので、家族のことを思い出すことは少なくなったが、でも、一人でいる夜はつらい。

 ふとんの中で寝つかれない時など、何かのひょうしに家族のことを思い出す。お母さん、チコ、お父さん、皆の顔が浮かんできて、僕一人が置いて行かれたような気持ちになる。そして、ジャックと別れた場面が目に浮かぶと、こみ上げてくるのだ。そんな癖がついたのかも知れない。

 時々、夢の中でチコと話すことがある。チコに、

「お兄ちゃん」と、呼ばれたような気がすることもある。

 よく見る夢は、僕は三人といっしょにいた筈なのに、いつの間にか僕だけが部屋に取り残されている。それから必死に探し回ると、三人はひつぎに入っている。三人が火葬場で焼かれそうになって、僕が、「待って!」と叫んで、自分の声に驚いて目を覚ます。


 今日から四日間、カズさんは出張でいない。

 四日間も一人でいるのはつら過ぎるので、それで思い切って先生に、

「遊びに行っていいですか」と、話したら、

「今晩、いらっしゃい」

 それで、五時に先生んちへ行くことになった。先生の家は電車に乗って隣の駅にある。

 焼肉のごちそうだった。とてもおいしかった。カズさんが用意する焼肉と違うのは、野菜の品数が多いせいだろうか。プチトマトを焼いて食べた。ポテトサラダもおいしかった。お腹一杯いただいた。

「明日は学校だから、もう、帰りなさい」

「うん」

「君はね、さっき言ったように、勉強をやる気にさえなれば出来るんだから、がんばりなさいね」

(今日は、先生の説教を聞きに来たようなものだぜ。ごはんの時も勉強の話しばかりして……)

 先生は、帰りに漬物の包みを用意してくれた。そして、思いついたように、高さ三十センチぐらいのゴムの木が植わった直径十五センチほどの植木鉢を抱えてきた。

「君のお部屋は殺風景だから、これを飾っておきなさい。去年私が取り木したのよ」

 指さされる方に大きな鉢のゴムの親木があった。

「水やりを忘れないでね。葉っぱにほこりがついたら軽く洗ってあげるんだよ。ゴムの木は南の国のものだからお日さまによく当ててね。でも冬は外に出しちゃだめよ。

 大丈夫? 持って行ける?」

「大丈夫、大丈夫」

先生は植木鉢を風呂敷で包み、その中に漬物の包を入れてくれた。


 その鉢が枕元にある。

(負けるな、タカシ! 明日から力を入れて勉強をやってみよう!)


 何日か経って、リカ先生から、

「君。これを読みなさい」って、一冊の本をいただいた。

〔飛ぶ教室〕

 表紙を開くと、

〔贈 熊谷孝君へ 工藤理香 一九八六年五月九日〕と、書いてあった。

「……ケストナー作……」と、ふとんの中で読みながら寝入ってしまった。


 一人でいて、寂しくなった時はいつもこの本を読むことにしている。

 親元を離れて寄宿舎生活をしている主人公たちの気持ちが、僕にはよく分かる。

(しっかりせい、タカシ! 一人だからって負けるな……)



          二 

                            五月十二日(金)

「チコ……」

 今日はお前にそっくりな子を見かけた。

 後ろから見るとお前と同じオカッパ頭で、よく似た黄色いヒマワリの花柄の服を着ていた。思わず近寄ってみたけど、

「チコがいる筈はないよ、な」


 あれはいつのことだったろうか? チコと二人で中学校から歩いて帰ったのは……。

 あの日は、初めて、中学校の新グランドで僕のサッカーの試合があって、いつもはお父さんもお母さんもいっしょに車で応援に来てくれるんだけど、この日はつごうが悪くて、

「チコがお兄ちゃんの応援してあげる」と、お前が来てくれたんだ。

 あの時は、お前は、出来立ての新しい中学校に行ってみたかったんだろう……。

 あの頃、二つの中学校が統合されて、ちょうどその中間の場所に新しい校舎が建てられたばかりで、隣のお姉さんたちは自転車で通学していた。

 お母さんに二人分のお握りを造ってもらって、お前を荷台に乗せて自転車で行った。

 さて、試合が終わって、帰り道のことだった。お前が、

「お尻が痛い」って言い出したら、後ろのタイヤがペシャンコになってしまった。

「パンクだ!」

 自転車を押して二人で歩いた。

 ずいぶん遠かった。

 だんだん薄暗くなってくるし、お腹は空く。電話代も持っていない。歌を歌いながら歩いたけど、くたびれてお前は歩けなくなってしまった。

 それで僕は、あとで取りに戻ることにして自転車を道端に倒して、お前の手を引っ張って歩いた。途中、何度かおんぶした。

 外灯が無くて真っ暗闇の所では、お前は怖がって僕の腕にしがみついていた。

 家の灯が見えた時はホッとした。そして、お前はお母さんの顔を見るなり泣き出してしまった。

「そんなにつらかったのか……」

 僕も泣きたいくらいだった。

 お前のあの小さな柔らかい手の温もりを、覚えている。

 お前はやさしい子だった。

 僕がお父さんに叱られると、お前は悲しそうな顔をして、それとなく慰めてくれた。

 チコと別れる時が来るなんて、考えたこともなかった……。チコと最後に話したのはどんなことだったか、思い出せない。


 いつの間にか雨になったようだ。

「カズさんが濡れなきゃいいがな」

 と呟いているうちに、眠ってしまった。



              三

                            五月十三日(土)

今日は一日中、シトシトと小雨が降り続いていて、何となく肌寒い。

ジョンの散歩を済ませて、家の中を掃除した。買物に行って、野菜炒めを造ろうと思ってキャベツとモヤシ、ニンジン、豚肉を買ってきた。そして刻んで下ごしらえをして、いつでも造れるように準備した。

 部屋の中でボヤッとしながらカズさんの帰りを待っている。

 今日は土曜日だけどカズさんは会社に行って、帰りがずいぶん遅れている。

ふと、留守番電話の点滅に気づいた。

「急に残業になった。だいぶ遅くなるだろうから先に寝てなさい」

どうやら買物に出かけている間に電話があったようだ。

(こういう時が参るんだ……)

(お腹が空いている。ご飯を済まそう……)


 ご飯の後片付けをして、〔飛ぶ教室〕を読んだ。もう何回目かだ。

 それからふとんに入って、チコのことや、お父さん、お母さんのことを思い出していたら、寂しくって、寂しくって、しょうがない。

 今でも、あの町に戻ったら三人がいるような気がしてならない。

 まったく、僕の目の前から突然、蒸発したように三人ともいなくなった。

 あの日の夕方、僕より先に家に帰っている筈の三人が、いつまで待っても帰って来ない。心配していたら、夜中になって、真っ青な顔をしたカズさんが来て、その後のことは覚えてない。次の日、白い柩に入って三人が帰ってきた。

 お葬式を思い出した。一月十八日だった。

 あの時、僕は何をしていたんだろう? 遠い日のことのように思える。クラスの連中が大勢来てくれたのは覚えている。

 もしお葬式がなかったら、今でもきっと僕は三人が生きていると思うよ。あの町に、三人を探しに行くかも知れない。

 ジャックとは「さようなら」言って別れたが、お父さん、お母さん、チコには別れの言葉は言ってない。しかし、僕は火葬場で三人の柩が焼かれるのを見たから、もう三人はいないんだ。

 いつのまにか三人の名前を呼びながら僕は泣いていた。

(泣き虫、タカシ。こんなことでは、駄目だぞ!)


 いつの間にかウトウトしていたらしい。

 玄関が静かに開く音がした。

(カズさん……)

 ずいぶん遅い時刻のようだし、まだ寝ついてないと、カズさんが気にするだろうと思ったので、僕は寝たままでいた。


 僕の枕元をのぞきこむ気配がした。

「おやっ、泣いてたのか」と、低いつぶやきが聞こえた。






         第三部 迷い込んだ小鳥

            第九章 手乗り文鳥 


               一

                            五月十五日(月)

 いい天気だ。

 パジャマのままベランダのガラス戸を開け、両手を突き上げ背伸びをした。

 さわやかな五月の風が吹き込んでくる。

 素早く着替えて、昨夜の脱衣籠の肌着を洗濯機に放りこんだ。

「おー、早いな。お早う」

カズさんが起きてきた。

 僕は台所に立った。

 僕たちの朝食は、たいがい、パンだ。

 トーストは簡単だが、問題はおかずだ。

 リカ先生が〔簡単に出来るおかず〕という料理の本を贈ってくれて、僕たちのレパートリーはだいぶ増えたが、慣れてくると今ひとつ物足りなくて、おいしく造るのは難しいということが分かってきた。

 僕は卵料理ならずいぶん出来る。でも、ゆで卵は殻が割れて白身が飛び出るし、玉子焼きはうまくひっくり返せないで、いり卵にしてしまうことが多い。リカ先生に教えてもらった目玉焼きの秘訣は、蓋をして水を数滴たらし、むらすことだった。

 おひたしも出来る、ほうれんそう、ニラ、キャベツ……。そしてそのおひたしをバターいためすることも教わった。

「コンソメスープに、白菜とベーコンに卵を散らしてみよう」と、思って白菜を刻んでいたときだった、

 バタバタ 羽音がして、ベランダから何物かが部屋に飛び込んできた。

「あっ! 鳥だ!」

 その小鳥は、洗面所から顔を出したカズさんの肩に止まった。

「ホーッ、手乗り文鳥じゃないか。どっからか逃げてきたな。

 タカシ、ガラスを閉めな」

 カズさんは、右手でヒョイッとその小鳥を捕まえ、台所の金ザルをかぶせた。

「だいぶ疲れている」

 小鉢に水を入れて与え、白菜の先っぽを食べさせた。

「エサか……。粟だ。どこかで売ってないかな」

 とりあえず二階のおばさんに頼んでカナリヤのエサを分けてもらった。


 その日、学校にいるあいだ中、ずーっと気が散ってソワソワしていたが、放課と同時にまっすぐ走って帰った。

 路地の角のフェンスの側に来ると、ジョンが駆けよってきて尻尾を振りながら吠えたが、

「ジョン、ごめんよ。すぐ来るから待ってなよ」

 立ち止まらずに帰った。


 その鳥は元気でいた。

 僕が近づくと、

 チッチ、チッチ、と、さえずった。

 ザルを開けると飛び立ち、僕の頭の上に止まった。捕らえようとすると今度は肩に乗った。そのまま留守番電話を聞いたら、カズさんのメッセージで、

「ペットショップで鳥籠とエサを買いなさい」

 僕が捕まえようと手を伸ばすと逃げてしまう。腕にも止まるが、体を動かすとすぐ飛び立ってしまう。仕方がないのでザルをかぶせることはあきらめ、隣の部屋に飛んでいった隙に、そーっとドアを開け外出した。

 ジョンを散歩させ、それからペットショップへ行った。

 家に帰って、静かにドアを開け部屋に荷物を入れると、どこからかその鳥が飛んできたので、あわててドアを閉めた。その鳥は僕の後をつけて飛んでくる。

 大きな鳥籠を、とりあえずテーブルの上に置き、巣、菜っ葉入れ、水飲み、エサ箱を用意した。ぜんぶ整えて、

「さあー、どうぞ」

 そう言って手を差し伸べたら、その鳥は右手の親指に止まった。

(針金のように硬くて、細い足の指!)

 そのまま、手を鳥籠の入口に近づけると、自分でヒョイっと入った。

「お前はどこから来たんだ?」

 答える筈はないが、問いかけてみた。

 チッチ、チッチ、チッチ

 本当にかわいい。

 いつまでも鳥籠に見入っていた。



            二


 次の日、一度家に帰ってその鳥がが無事でいることを見届けてから、急いでジョンの散歩をすませてきた。


 ゴムの木に水をやっていて、

(おや? どうしたんだ?)

 先っぽの芽がなくなっている。

 カズさんがいじるわけはないし、よく見ればついばんだ跡がある。

(あの鳥のしわざか! 昨日、部屋に放している間だ……)

(しようがないヤツ。リカ先生は怒るかな……)

 でも、この鳥には好きなようにさせてやろう。時々、部屋の中で放してやろう。

(外へ逃げないように、窓を閉めなければならない……)

 僕の気持ちを知ってか知らないでか、気分よさそうにさえずっている。

 チッチ、チッチ、チッチ

「お前はなんて名前なんだ?」


 そっと両手でつかむと、柔らかい身体。まるで、チコの手のようだ。

「チコ! お前がいたら喜ぶだろうな。きっと触りたいって言うだろうな……。

 そうだ! お前の名前をチコにしよう!

 なあ! チコ、いいだろう。チコという名をこの鳥に付けても……。とてもかわいいんだよ」

 その文鳥をチコと名づけた。

 チコの籠の戸を開けてやると、ピョンピョンと止まり木を伝って外に出てくる。そして部屋の中を飛びまわる。そのあと僕かカズさんの肩や頭の上に止まる。

 そして、急に立ち上がったり、大きな声を出したりすると、飛んでいってどこか好きなところに止まっている。また、いつの間にか肩にもどっている。

 最初は、チコの身体が柔らかすぎて、潰れそうで、手でつかむのが恐かった。しかし慣れて、今では、僕も片手でチコをつかめるようになった。ふんわり包むようにつかむのだ。

「じっとしてなよ」って言って、サッと手を出すと簡単につかめる。

 不思議なもので、

(チコが逃げるかも知れない……)

 なんて一瞬でも思うと、すぐ飛んで行ってしまう。



                             五月十七日(水)

「アレッ! これはなんだべ。チコのウンチじゃねえか」

 夕方、帰って来たカズさんが叫んだ。

(そうだ、チコのものだ……)

 僕は、あわててテッシュペーパーで畳の上のその物をふきとった。

「これはやばえよ。チコを放しちゃいけねえべ」と、カズさんがあたりを見回した。

 でも、チコはあんなに嬉しそうに飛び回っているじゃないか。

 ずーっと籠に閉じこめたら、飛べなくなっちゃうよ。

 それにチコが肩に止まらなかったらつまらないよ。

「お願い。カズさん。チコのウンチは僕がふくから、チコを放してあげて……」

 それからは、カズさんの言うとおり、チコを籠から出す時はテッシュペーパーを持って目を離さないことに決めた。

ただ、僕が一人でいる時は、僕は目がいいのでチコのウンチが畳の上に落ちていてもすぐ分かるから、チコを籠に入れた後で、ざっと部屋中の床を検査して始末することにしている。

 ウンチと言うから嫌な感じがするが、これはぜんぜん匂わない。

「ウグイスの糞は女性の顔の化粧品になる」ってカズさんから聞いて、僕はちっとも汚いとは思わない。

でも、カズさんと二人の時は、テッシュペーパーを用意してチコを見張っている。もっとも、カズさんの方が目を光らせてチコの行動を見張るので、僕は何もしない方が多い。

チコは遊び疲れると、最後に、お気に入りの薄暗い便所のところの棚に止まる。それが、籠に連れもどす合図になっている。

 そして、チコが巣に入ったら、籠に風呂敷をかぶせて暗くしてやって、チコの一日は終わる。






         第十章 夢を見た朝

                             五月十八日(木)

            一 


チッチ、チッチ、チッチ

「チコが鳴いているな……」

 薄ぼんやり、そう意識したが、

「ウン?」

 次の瞬間、僕は跳ね起きた。

「しまった!」

 チコの籠は風呂敷がかぶったまま。

「カズさんはいないんだっけ……」

 ずいぶんと陽が高くなっている。表の方は静まり返っていて、近所の人は、皆、出かけてしまったようだ。時計を見ると、

「わあ、九時半!」

 すごい遅刻だ。

(どうしよう!)

 まずは、チコの籠の風呂敷の覆いをとってやった。

 チコはキョトンとしている。

「お前が起こしてくれたのか……。でも、大失敗だ。もう、学校は始まっている……。

 どうしたらいいんだ? チコ」

 お腹が痛くならないか?

 でも、リカ先生に嘘をついてもすぐ分かる。

 ともかく学校へ行こう。

「チコ、バイバイ」

 僕は顔を洗って飛び出した。

 路地の角でジョンが尻尾を振ってくれたが、あいつには僕の心の中は分かるまい。

 僕はふてくされて、

「何で学校に行かなけりゃならないんだ」と、つぶやいてみた。

 学校が近づくにつれ、だんだん足が遅くなる。

 僕の足は引き返したくなるが、このままもどったら、先生から電話がかかってくるに決まっている。

 ジョンにもさっき挨拶したばかりで、あの前を通って帰るわけにはいかない。

(ジョンのおばさんに見つかったら、よけいまずい!)

 頭を振り払って気を取り直し、僕は走り出した。

(こんな嫌な思いをするんなら、あのまま寝なければよかった……)

 後悔しても遅い。

(いったい、なんで夜中に目を覚ましたんだ?)

 ともかく、途中で目が覚めて眠れなくなったんだ。

(何を考えていたんだ?)

 そうだ! 変な夢だった。

 一瞬、あの夢のことが頭をよぎったが、すぐ正気に戻って、学校に向かって走った。


 通用門から入って校庭を横切っていると、あちこちの教室の窓から見られているようで、きまりが悪かった。廊下の端の階段を二階に上がり、教室にたどりついた。

 出来るだけ音を立てないように、ソーッと戸を開けたら、リカ先生がこっちを見てた。皆も振り返った。ピョッコリ頭を下げて僕は教室に入り、自分の席に着いた。

 こういうときは、一番後ろの席はありがたい。

 その一時限目の授業が終わると、先生が、

「タカシ君」と、声をかけて、目顔で合図したので、僕は先生の後を追って廊下に出た。

「どうしたの?」

「寝坊しました」

「それだけ? カズさんは?」

「それだけです。出張です」

「そう、心配したわ。もう遅刻しないように頑張るのね」

「はい」

「じゃあ」


 教室に戻ると、隣の席のヤスシがじっと僕の顔を見つめたので、

「寝坊した」と、言ったら、

「なんだ、寝坊か」と、大声をあげたので、皆が振り向いた。



            二


「嫌だ!」

 僕は大きな声で叫んだ。

 今朝の夢の中だった。その声で僕は目を覚ましたのだ。

 その夢は、こういうことだった。


 カズさんが、

「この家を出ていく」と、言うのだ。

 どういうわけか、リカ先生もいなくなると言うのだ。

 そして、ジャック、夢の中ではジョンじゃなくてジャックだった、ジャックもカズさんが連れて行くと言うんだ。

「どうしても行かなければならない」と、厳しい表情でカズさんが言うのだ。名賀の町でジャックをよその人に預けると言った時と同じように、寂しそうな顔をして、言い聞かせるように僕に言うのだ。

「チコは? チコは残るんだね!」

 カズさんは首を横にふった。

 それで僕は思わず、

「嫌だ」と、叫んだのだ。


 変な夢だった。

 カズさんがこの家から出ていく筈がないじゃないか。なぜ、リカ先生までいなくなるんだ。ジャックはもういないだろうに……、変な夢だった。

 それで思い出した。

 その、カズさんが家を出て行く夢のすぐ前に、僕はチコを殺した夢を見ていた。

 僕が逃げるチコを捕まえようとして、思わず力を入れて掴んだら、グチッ、骨が潰れる音がして、ぐったりしてしまった。

(チコを死なした!)

(僕が握りつぶした……)

 それが昨日の夢の始まりだった。チコを死なせた夢の原因は分かっている。


 こっちへ来るちょっと前、施設に居た頃の友だちのトシオ君と川へ遊びに行った時、

「石の下にハヤがいるぞ」と、彼が言うので、冷たい流れに素足で入って、両手で石の下を探ったら、右手に柔らかい物が飛び込んで来た。思わず握りしめ、

「捕まえた!」と、叫んだ。十センチほどのハヤだった。

 初めて手づかみで得た獲物だった。

 トシオ君に見せてから放してやったが、魚は腹を上にして浮いたままだった。僕が強く握ったものだから、魚の内蔵が傷ついたのだ。

 いたいけない生命を奪った悔いは、いつまでも心に残った。

 柔らかいチコの身体をつかむたびに、僕はあのことを思い出す。それが夢に出てきたのだった。


 そんな夢の中の叫び声で目を覚ました。

「チコがいる!」と、思いついて、起き上がって、籠にかぶせた風呂敷の隅をめくった。

 首を羽根の上に傾けてチコは穏やかに寝ている。

 表はまだ暗かった。

 ガラスに顔を寄せて見ると、薄い黄色のお月さんが僕を見おろしていた。

 すっかり目が冴えてしまった僕は、昼間やりかけだった算数の宿題を思い出した。帯分数の掛け算が分からなかったので、「いいや」と思っていたが、ヤスシが「仮分数にしてからやる」と言っていたのがこのことかと気づき、机に向かった。

 二十分ほどかかったろうか、やり遂げて、重荷を外したようにホッとした。

 そしたら、眠くなった。

 空が白みがかって、表で小鳥たちが鳴いている。

 時計を見るとまだ五時。

 まぶたがふさがって、

「ちょっとだけ横になろう」と、布団に入ったら、こういうことになった。






         第十一章 ジョンのおばさん

                             五月十九日(金)

            一       


 チコの目覚めは早い。お日様が上がると、

 チッチ、チッチ、チッチ、と、さえずっている。そうすると僕らも目覚めて、

「鳥籠の風呂敷を取ってやらなきゃ」と、起き出す。

 そんなわけで僕もカズさんも、早起きになった。


 学校へ通う途中の路地の角で、いつもジョンが待っている。

「お早う。ジョン」

 そう言って立ち止まって、金網越しに鼻づらを撫でてやる。せいかんな顔をしたジョンが、やさしい目なざしで僕を見る。


 放課後、まずジョンを散歩させる。

 散歩といっても川原まで走って行くんだ。そして人がいないところでジョンを放してやると、好きなところでオシッコとウンチをやっている。ウンチの跡は移植ベラで穴を掘って始末する。

 いくら親愛なるジョン様のウンチでも、出来立ては強烈に匂う。ビニール袋に拾うよりは、その側に埋めるのが手早いし、その方がこちらの鼻の被害は少ない。

 堤防で放してやって、遠くの方をウロウロしていても、僕が、

「ジョーン」

 大声で叫んだら必ず飛んでくる。

 それを見ていたよそのおじさんが、

「利口な犬だね」と、感心していた。


 ジョンのおばさんが、時々、僕に注意する、

「犬ってのは可愛がるのも大事だけど、きっちり、けじめをつけないといけないのよ。君はジョンより偉いのよ。分かる?

 言うことをきかせるのよ。こういう大きな犬はね、わがままにさせると、よその人に迷惑をかけるわ。子供と同じね」

 僕は前にジャックを飼っていたので、犬のしつけは知っている。

 犬は自分の家族の序列を見極め、一番威厳のある人に従う。そして、幼児のように、自分よりも下の序列だとみると、その人の言うことを聞かない。

 家にいたジャックは子犬のとき僕が拾ってきたのだが、そのころ知恵子はまだヨチヨチ歩きで、二人でじゃれあうようにして遊んでいた。そのうち、ジャックの方がどんどん成長して、後足で立ち上がると千恵子と背が変わらないぐらいの大きさになった。ジャックは知恵子の言うことを聞かず、知恵子がいつも、

「ジャック! だめっ」って、叫んでいた。


 犬を甘やかしてしまうと命令に従わなくなるので、毅然とした態度で接しなければならない。他の犬が来た時とか、子供が恐がったりした時など、僕が大声で呼んだらすぐに戻ってくるようにしつけとかなければ、放してなんかやれない。

 大事なのは綱を引いて歩く時で、必ず、僕の後ろを歩かせる。ジョンが前へ行きそうになったときは立ち止まって、

「駄目!」と、強く叱る。それで僕と犬との上下関係が決まる。

(恐そうな顔付きのジョンを従えて歩くのは気分がいい……)

 しかし駆け足するときに問題が起こる。

 僕は駆けっこは早いのでジョンと競争をするが、さいごはジョンに負けて引っ張られてしまう。

 それで、駆けっこする時だけはあいつの方が序列が上で、僕より威張っていいことにした。そして、

「終わり!」って、僕が号令をかけて立ち止まったら駆けっこの遊びは終わりで、それからは僕がボスになるのだ。

 ジョンは、僕の側にきて、

「威張りたかったら、そうしていいよ。それより、もっと早く走れないのかね? タカシ」とでも言っているように僕の顔を見上げる。

 ジョンは僕といっしょにいて楽しそうで、僕を信頼していることが分かる。

 そんな僕らを眺めて、ジョンのおばさんが、

「あんたはうちの子みたいね」と言う。


 家に帰るとチコがいる。

「チコ! 一人で寂しくなかったかい?」

 チコはしゃべらないので気持ちが分からないが、きっと、僕の帰りを待っているのだと思う。僕が鳥籠の扉を開けてやると、ピョンピョンと出て来て、僕の人さし指に止まってキョトンとした顔で僕の方を見、それから飛び立つ。部屋の中の好きな所にいて、僕の肩にも止まりにくる。その間に水と菜っ葉を替えて、エサの粟の殻を吹き飛ばし補充してあげる。

 チコは、昼間、ずっと独りぼっちでいても平気で、チッチ、チッチさえずっている。だから、チコは、僕なんかより強い心を持っているのだと思う。

 でも、籠に閉じ込められて自分では何も出来ないチコは、僕が世話をしてやらなければ生きていけない。ジョンのように、僕が呼んだら飛んできて肩に止まるとか、返事するとか、意思が通いあえたらいいのだけど、チコはかわいいから、それでいい。

(チコがいるから、僕は一人でない!)



            二 


 毎日、ジョンを散歩させている。

 おばさんが、

「そう言えば、あんた、どこの子? 最近引っ越してきたのでしょう?」

「うん」

「毎日、ジョンの面倒をみてもらって……、お母さんにあいさつしなきゃ悪いわ。お母さんは、この犬のこと知っている?」

 それで僕は困ってしまうが、首を振ってごまかした。

 ジョンの面倒を見れるのはうれしい。それに、おばさんの毎日のオヤツが楽しみで、果物とか自家製のケーキだとかをごちそうになる。でも、僕の家庭の事情をあれこれ聞かれるのは嫌だ。


 ある日、遅くなって散歩している時、ジョンが急に嬉しそうに、ワンワン、吠え出したと思ったら、綱を引っ張り、向こうから来た小柄な紳士に尻尾を振って近寄った。

(ジョンのおじさん!)

 会社の帰りなのだろう。小さな鞄を下げている。

「よう! タカシ君! いつもありがとう。さっきから君たちを見ていたけど、ジョンはうれしそうだね。君との散歩を喜んでいるよ」

「ん!」

「よくかわいがってくれてるね。ジョンは君のことが好きなんだ」

「ええ」

「君は、もう、ひと月の間、一日も休まないでジョンを散歩させてくれたんだね。ありがとう」

 僕は悪い気はしない。


 時々、ジョンを洗うのを頼まれる。

(放っておくと、犬の体臭が強くなって臭くなる……)

 庭でバケツにお湯をくんでジョンを洗う。身体にお湯をかけると毛が倒れて、ジョンの体が一回り小さくなる。それからせっけんをつけ、首から足まで泡立てて洗ってやる。次に身体をゆすぐ。水だと寒そうなので、おばさんがどんどんお湯をわかし、僕がバケツで運ぶ。

 あいつは迷惑そうな顔をして、

「しようがないな」って感じで、じっとしている。

「終わったよ。ジョン」と、声をかけると、ブルブル、身体を振って水をはね飛ばす。


 ある日のこと、放課後の掃除当番を勤めた後、校庭でサッカーボールを蹴っていた級友たちの仲間に加わり遊んでいた。

 ふと見上げた西の空に真っ黒い雲が広がっていたので、それで遅くなったことに気づいた。

 あわててジョンの家に来て、雨は間に合いそうだったので、大急ぎで走って川原に行き、ジョンに例のヤツをさせ、また駆け足でもどってきた。

「ハー、ハー」

 息をはずませている僕を見て、おばさんは、

「まあ、まあ、そんなに急いで……」と、あきれながら、

「テーブルにオヤツがあります。さあ、あがんなさい」

 オヤツには魅力があるけど、今日はだめだ。

「洗濯物を仕舞わないといけないので帰ります。ジョン! バイッ」

 おばさんに頭を下げて、僕は走って帰った。

 そのことがあってから、おばさんは機会あるごとに僕のことを問うようになった。そして、お母さんのこととか、お父さんのこととかを聞かれているうちに、

「家族は皆、死んで、いません」って、かいつまんで事情を話したら、じっと僕の顔を見つめ、そのうち涙ぐんで僕の肩に手を置き、

「かわいそうに……。困っていることがあったら、何でもおばさんに言いなさいね」

 と、言われた。

 今のところ困ったことはないけども、この次にシャツが破れたら、おばさんに縫ってもらおう。



               三  


 次の日、おばさんは、

「髪が伸びている」って、僕を捕まえ風呂場に椅子を運んで座らせ、散髪してくれた。

「どう、おばさんは上手でしょう。家の子供たちは皆、私がやったんだよ。まだ腕前は落ちてないわ」


「靴下をはきなさい」って、命令されたら、次の日、白い靴下を履かされた。わざわざ買ってきてくれたのだ。

「シャツが汚れている」って、言われたら、やはり次の日、新しいTシャツを用意してくれた。

「子供はしつけが大事なんだよ」と、言って、オヤツをいただく時の箸の使い方を注意される。そして、

「いただきます、ごちそうさまを、きちんと言いなさい」

 ある日、僕の顔を見つめながら、

「カラスのくちばしが出来てるね。昨日は何を食べたの?」

「焼肉」と、答えたら、

「野菜が足りないのよ」

 それで、ホウレンソウのおひたし、それに竹の子とフキの煮つけがギュウギュウ詰まったパックを、

「晩ごはんのおかずに」と、持たされた。

 次の日のオヤツはカボチャの煮付けとふかしたさつま芋だった。


 おばさんの命令は、即刻実行しなければならないこともある。

「フケがあるよ。頭を洗いなさい」と言われたら、湯沸かし器の火を付け、台所で頭を洗うことになる。

「耳のうしろを洗いなさい」で、濡れたタオルでゴシゴシ拭かれる。

「爪を切りなさい」と言われたら、爪切りを手渡される。

「ハンカチを持ちなさい」の時は、ハンカチをくれる。

 おばさんと顔を会わすと不意打ちのように何事かが起こるので、調子が狂ってしまう。

「遊んでばかりのようだけど、宿題はやっているの?」と言われると、おもしろくない。

(宿題のことまで、おばさんに報告する義務はない。僕はおばさんちの子じゃないのだから……)


 宿題の分からないところはカズさんに教えてもらう。

 カズさんは言うんだ、

「勉強ってのは、それに興味を持てるかどうかで決まるのさ。

 はなから嫌いではしようがないんで、少しずつでもなじんでいく事がコツなんだ。

 俺の建築士の勉強と同じさ。性に合わないと思っていた建築法規の分野も、だんだん慣れてくれば嫌いでなくなったよ。

 タカシは毎日復習しな。その日に習った内で一番嫌いな所を、どこでもいいから教科書を一ページだけ大声で読んでみな。大声で読むんだぜ。目で見て、口でしゃべって耳に聞かせてやるんだ。

 そしてそれが終わったら、口直しじゃないけど、今度は気に入ったところを一ページ読んでみな。

 そんなことが習慣になれば、少しずつ勉強が分かるようになるよ。

 勉強なんてものすごく奥が深いんだぜ。それぞれの学問の細かい分野で、生涯かけてそれだけを研究している学者がいるんだから、小学生がすぐ分かってしまうなんて考えちゃいけないよ。少しずつ積み重ねていくんさ。時間はあるんだからね」

 カズさんは毎日のように、食後、机に向かって難しい設計の本や法律の本を読んでいるので、僕も付きあうが、すぐ寝てしまう。カズさんは休みの日も勉強しているから、僕も見習わなければいけない気分になる。


             四


 ジョンのおばさんは、ちょっと口が悪いけれど、とても気持ちの優しい人だ。

「あなたはお母さんがいないから、私が注意してあげるわ。

 あなたはもっと清潔にしなさい。臭いって嫌われるよ」

 ぐさりと胸を刺す言い方をされても、僕は当然だと思うから平気だ。

「あなたのかっこうは薄汚いわね。ほらっ、半ズボンのお尻がこんなに汚れてるじゃない。何日も履きっ放しじゃだめよ」

「歯が黄色くない? ちゃんと歯磨している?」

「何よ、その頭、たまには櫛を入れなさい。頭がかゆくない?」

 そのような乱暴な言葉に、その時はちょっと傷ついても、あとで、あの時は親身になって叱られた、と満たされた気分になる。

 おばさんは、カズさんが留守だと分かると、

「家でご飯を食べていきなさい。お父さんと二人じゃ寂しいから……。七時半に来なさい」と、命令される。

 それで、もう何回かお世話になっている。

 僕が行くと食事がにぎやかで楽しいんだそうだ。

 おじさんは静かにお酒を飲みながら、僕とおばさんの話を聞いている。

 おもにジョンのことが話題になる。ジョンのけんか相手の犬のことだとか、ジョンの彼女のことだとか、二人が知らなかったことがいっぱいあったらしい。

「そーか。そーか」とか、

「へーエ、そんなことがあったの」なんて言いながら、僕の話を聞いている。

ジョンは、おばさんの下の息子さんが高校生の時に拾ってきた犬で、おばさんとおじさんの二人でジョンの世話をするのは正直言って大変で、僕が散歩をさせてくれるので助かっていると、おじさんに頭を下げられた。

ジョンのおばさんのことはカズさんに話している。そして、ちょいちょい晩ご飯のおかずをいただくようになって、カズさんは僕といっしょに出張のおみやげを届けに行ったことがある。

最近は、カズさんが留守だとわかると、ジョンのおばさんは、

「泊まって行きなさい」と言う。

「チコが待ってるし、帰って宿題するから……」と、帰るんだけど、そんな時は風呂に入れさせてもらう。

「あんた一人が入るのにわざわざお風呂を沸かすなんてもったいないでしょう。すぐ沸くから入って行きなさい。それとも今日は風呂に入らない気なの?」

 本当は僕は迷惑だけど、好意で言ってくれてるから、断れない。


 あるとき、ジョンのおばさんが、

「カズさんっていい人だね。好きな人いるの?」

「分かんない」

 リカ先生の顔がちらりと浮かんだ。

(ん! カズさんのお嫁さんがリカ先生?)

 そして、いつかのカズさんの婚約者のお姉さんの顔がボウっと目に浮かんだ。

「もし、カズさんにその気があるのなら、私がいい人をお世話してあげてもいいんだけどね……」

 僕なんかに、答えようがないじゃないか。

「カズさんがお嫁さんをもらったら、あんたはおばさんちへおいでよ。いっそ、おばさんちの子になりなよ」

「えっ?」

「私は子育てが終わってホッとしてんのよ。男の子は手がかかって大変だわ。でもあんたならいいわ。しっかりしているからね。どう、おばさんちの子にならない?」

これも無視。

(嫌だ! カズさんといっしょがいい!)


(カズさんがお嫁さんをもらう時がくるのだ……)

 カズさんが結婚したら僕は家を出なきゃならないのか、と考えた。

(それなら僕は一人で暮らす……)

 僕はチコを連れて行くから、どこで暮らしても寂しくない。


 また、ある時、おばさんは僕に聞いた、

「カズさんは転勤があるんでしょう?」

 僕はびっくりした。

(カズさんは転勤してここへ来たんだから、また転勤するかも知れない……)

 もしカズさんがよそへ転勤になったら、僕はどうなるんだ。

 リカ先生やジョンと別れるのは嫌だ!






          第十二章 花壇の手入れ


一週間ほどさかのぼる。

                            五月十二日(金)

 僕のアパートの花壇に、雑草の間に小さな赤いチューリップが一輪咲いた。僕はその草むらにハコベを見つけ、チコの餌に採っている。

 カズさんの前にこの部屋に住んでいたおじいさんがずっと手入れしていたが、その人が引っ越してから誰も管理しないので荒れてしまったということである。


 放課後、リカ先生が、

「これを蒔きなさい。ちょうどいい時期よ」

 と、花のタネ袋を手渡してくれた。カサカサと音がする。

 袋には赤と白のきれいな花の写真があった。

(ホウセンカ! 僕の家の、畑の隅に植わっていた……)

「この花は丈夫だから簡単に育てられるわよ。最初のうちは水やりを忘れないでね。ちゃんと種を播ける?」

「まかして!」

 それで、何だかリカ先生の顔がお母さんの顔と重なって、お母さんを思い出してしまった。


 僕はお母さんの手伝いでよく庭仕事をやった。夕方の水やりが僕の仕事だった。庭の花壇の草花と畑の菜っ葉に水をやるのに、バケツ二十杯ぐらいの水が必要だった。風呂水の残りをやるのが優先だった。毎日、両手にバケツをぶら下げて運んだので、僕の腕は力が強くなった。

 それから、お母さんは台所の生ゴミをいつも庭の隅に埋めていて、

「こんなにミミズがいるわ。いい土になったでしょう」って、自慢していた。


                            五月十四日(日)

 朝の片付けを済ませて、さっそく、僕とカズさんは隣のおばあさんから大きなスコップを貸りて、その花壇を耕した。真っ黒で、ふかふかの土だ。大きなミミズがニョロニョロ何匹もいた。

 雑草の中に菊など宿根草の株がたくさんあった。

「ここの花壇は、草に負けて貧弱だがいろんな花が植わっている。これまで大勢の人が植えたものだろう。皆それぞれの思い出がある花だろうから、俺が勝手に引き抜くわけにはいかない」

 と、言いながら、カズさんが仕分けて植え替えた。

「少し花壇を広げてやろう」

 と、芝生の部分を耕した。そして、空いたスペースをきれいにならしてホウセンカの種を蒔いた。

 僕は、晩、ジョウロで水をやった。

 四日目の夕方、何ケ所かで土の粒が盛り上がっているのを見つけた。

 そして五日目の朝、土の粒の間から黒い皮をかぶった芽がひょっこり顔を出した。小さな芽が、毎日伸びていくのが分かり、楽しみになった。




                           五月二十四日(水)

 暑い日の夕方だった。

 少し遊び過ぎたので、帰ってきてあわただしく家事に取りかかった。すっかり暗くなって仕事がひと段落ついて、夕刊を取りに表に出た。

 見ると、花壇に誰かがいる。

(二階のカナリヤのおばさん……)

(しまった!)

 側へ行ってみると、しおれかかった苗に、おばさんがジョウロで水をやっている。首を垂れたホウセンカが哀れだった。

 おばさんは僕の顔を見て、ほほえんだ。

 僕は、あいさつ出来なかった。

でも、おばさんのバケツが空なのに気づき、水を汲んできた。

(あのままだと、ホウセンカは枯れちゃったかも知れない……)


 それで、去年の今頃、畑の水やりを忘れてお父さんにひどく叱られたことを思い出した。

 遠くまで出かけて遊びほうけ、すっかり暗くなって家に帰って来て、

「自分の仕事を忘れるようなヤツは、うちの子じゃない」って、お父さんにどなられ、晩御飯を食べさせてもらえず、表に放り出された。

「僕は悪かったが、こんなことぐらいで家に入れないなんてひどいじゃないか」と、腹を立て、

「もう家になんか帰ってくるもんか」と、学校の方へ行ってみた。お腹がすいてたまらない。水道の水を腹一杯飲んでもだめだ。

いつの間にか家の側に戻っていて、ドアの前にたたずんだり、カーテンの隙間から部屋の中をのぞいたりしていた。

 あの時は知恵子が裏からそーっと出てきて、食パン、バナナと牛乳の入った袋を手渡してくれた。

 どうやってお父さんに謝って、家に入れてもらったのか、覚えてない。 



                           五月二十五日(木)

 朝、起きるなり花壇を見に行ったら、どのホウセンカも活き活きとしていた。

 ホウセンカは、五センチほどの大きさになり、全部で十五本育っている。ホウセンカの茎の色を見て、カズさんが、

「これは赤。これは白。これはよく分からないがピンクかも知れないな」と、花の色を予想する。そして、カズさんはむしった雑草をホウセンカの根元に覆った。

 カズさんが蒔いたコスモスも二センチほどになった。

 僕は、知恵子が好きだった松葉ボタンの種子を蒔いており、ゴマ粒のような芽が出ている。これは、赤、白、ピンク、黄色、いろんな色の花が咲く筈だ。

 カズさんが黄色いマリーゴールドを十株買ってきて端に一列に植えた。


 花壇らしい姿になったので隣のおばあさんが、

「玄関がすっきりした」って、喜んでくれた。このおばあさんは前に、

「身体が利けば、私もお手伝いしたいのよ」と、ジュースを差し入れてくれた人だ。






          第十三章 先生の誕生日


              一

                           五月二十六日(金)

 晴れわたった放課後。リカ先生が僕の顔をのぞきこんで、

「タカシ君、あさっての日曜日、ご予定は?」と、ニッコリ。

 晩ごはんに誘ってくれたのだ、ということはすぐ分かった。先生の顔にそう書いてある。

「もちろん、あいてます」

「そう、よかったわ。うちへいらっしゃいよ。ごちそうを造るわ!」

 それから声をひそめて、

「私の誕生日なの。一人じゃつまらないでしょう。絶対、来てね」

 その晩、カズさんに話したら、

「おい、おい、俺だけ置いて行くなんてひでえぜ。先生にはこっちへ来てもらうべ。

 二人でお誕生日のお祝いをしてあげんべ」

 カズさんが先生宅へ電話して、そういうことになった。

 次の日、カズさんは電気オーブンを買ってきて、そのことを先生に報告して、それから食材の費用は、先生に立て替えてもらうが、カズさん持ちだと念押した。



                                       五月二十八日(日)

 当日、カズさんは張り切った。まず、二人で部屋を掃除した。そしてテーブルに赤いバラを十本ほど飾った。

 先生は、この前のように重い買い物袋を下げて到着。

 先生にはまず、花壇のホウセンカを見てもらった。

「上手に育てているわ。感心。感心。もう、だいじょうぶだわ」

 それから、先生はチコを見るなり、

「君がチコ君ね。タカシ君の親友ね。君のお陰でタカシはメソメソしなくなったのね」

(ひどいぜ先生!)

「本当にかわいい小鳥ね」

 カズさんが目顔で合図したので、僕はベランダの植木鉢を指さし、

「先生! 先生にもらったゴムの木、チコが食べちゃったんだよ」

「あら、ひどいかっこう! でも大丈夫よ。次の葉っぱが出てるじゃない。

 ずいぶん大きくなったわね。水やりを忘れないのは感心!」

 リカ先生は、ゴムの木のいたんだことは少しも気にしない。そして、エプロンを取り出し身支度を整え、

「さあ、始めましょう」と、台所に立った。

 お祝いされるリカ先生自身がごちそうを造るのは何だか変だが、後片付けはすべて僕とカズさんとでやると取決めた。

 この日のごちそうは、チキンの丸焼き、これは僕の注文だ。カズさんの好きなカレイの煮魚、それに、竹の子と蕗の煮たの、ポテトサラダ、セリのおひたしだった。

 カズさんは丸いバースデーケーキを用意していた。

「あれ、ロウソクが十本しかないや」と、包みを開けた僕。

「ん!」

 しまった顔のカズさん。

「あるだけつけましょう」

 先生の言葉で十本に火を灯した。


 僕は、

「ごちそうさま」と言って、テーブルから離れ、チコを見ていた。

 カズさんと先生は、まだ、ウイスキーグラスを手放していない。

 背の高いカズさんと小柄な先生。二人で打ち解けて話しているが、今日はリカ先生が自分のことを話している。

 流れて来る二人の話し声を聞いていて、僕は、先生のことをずいぶん知った。

 今日で、先生は二十八才だそうで、カズさんより一つ上になる。恋愛結婚で二十三の時に結婚したが、たった一年で相手に幻滅してしまって、しばらくして離婚したのだそうだ。

「バツイチね」

 あっけらかんと自分でそう言う。             

「もう結婚なんかコリゴリだと思いましたわ」と、ちょっと舌のもつれた口調でしゃべっていた。

 カズさんは、時々、うなずきながら聞いていた。

 ショートカットの、やや小柄なスタイルのいいリカ先生が、カズさんより年上には見えない。活発な先生だから、クラスの男の子たちもパシッとやり込められて、言うことを聞く。どの子も、この先生が好きだろう。

 それから学校のクラスの話になり、学級運営のあれこれをリカ先生が話した。それから、何かの拍子にカズさんが僕のお父さんのことを話していた。

「タカシのお父さんは心の暖かい人でした。周囲に困った人、悩んでいる人がおれば、さりげなく手を差し伸べてあげてました。だから私など部下が慕いました。奥さんや子供たちを大事にする、やさしい、男らしい父親でした。子供たちをきちんとしつけ、特に息子には、誠実な男として生きるよう、厳しく育てていました。タカシはそんな父親の薫陶を受けてます」

「そうね。タカシ君は、やさしい素直な子供です」

 僕はお父さんの顔を思い浮かべた。お母さんもチコの顔も浮かんできた。

カズさんの話しが建築の仕事の話に移った。

 眠くなった。



           二

                            五月三十一日(水)

 リカ先生の誕生日から三日経った。

 晩ご飯を済ませて寛いでいた時、コーヒーを飲みながらカズさんが、

「おい、タカシ。明日、身体検査だろう」

「うん、そうだよ」

(でも、どうしてカズさんが知っているの? まだカズさんには話していない……)

 僕の不審な顔に気づいたのか、

「リカ先生から電話をもらった」と、カズさんが打ち明けた。

 どうやらリカ先生は、時々、カズさんの会社に電話しているらしい。先生にすれば、保護者のカズさんはふだん家にいないから、勤務先に電話するのは当然だろうと僕は解した。

「きれいな下着を履きなよ」と、カズさんは一言。

 でも僕は、チコを見ながら呟いた。

「先生とカズさんが僕の知らないところで話しているなんて、ちょっと面白くないよな……」

チッチ、チッチ。

「なあ、チコ。お前は僕に秘密なんかないよな……」


 カズさんがリカ先生を尊敬しているのは確かだ。いつだったか、

「リカ先生はよく生徒のことを見てくれてるね。いい先生だね。

 最初に俺が留守した時にさ、タカシを自宅に呼ばねえで、うちにきてご飯を造ってくれたっぺ。あれはさ、タカシに、次の日の分も用意してあげんべと、気をつかってくれたんだよ」と、言っていた。

 僕もリカ先生を尊敬している。ときどき叱られるけど、それは僕が悪いせいだと承知しているので、平気だ。

 

 リカ先生は僕たちのことを心配してくれる。

「カズさんは仕事が忙しそうなので、君の家のことが気になったけど、もう大丈夫よね。君が、家事を分担してるからやっていけるわね。料理の腕も少しは上がったようじゃない」

「うん」

「建築の仕事って泊り込みや出張が多いのね」

「そうです。お父さんもそうでした」

「こないだカズさんが言ってたわ。君を引き取る時には仕事を控えなければいけないと覚悟したが、君がしっかりしてるので仕事に専念出来るってね。それから、君が家のことをやってくれるので、一人で居た時よりもいい、と言っていましたよ」

「!」

「そうそう、カズさんが風邪を引いて寝込んだ時に、君が看病して大活躍だったんだってね。カズさんが、家族がいるといいものだねって、おっしゃってたわよ」

 十日ほど前、カズさんが珍しく寝込んだ。その前から風邪気味だと言っていたのを、こじらして、朝、熱が出て起きられなかった。学校から急いで帰ってきて、まだ寝ていたので、肌着を着替えさせ、おかゆを炊いたりオレンジをむいたりした。それからカズさんは病院に行って、二日間会社を休んで治った。

(カズさんは僕の恩人だ。喜んでもらえて、うれしい……)

「大変だけど、君は頑張るしかないよね。チコもいるし寂しくないよね」

「うん」


 今日で五月は終わる。

 タカシが新しい環境に移って二ヶ月が過ぎた。 自分では意識してないが、カズさんが出張で留守しても、もう布団の中でメソメソすることはない。

 チコといっしょのタカシは、もう孤独ではない。





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