第九話
働かざるもの食うべからず。
これほどシンプルに世界の真理を言い表した言葉があるだろうか。
世界で一番読まれてきた書物といわれる聖書においても、似たような文句が記載されていることを考えれば、これは古今東西を通じての真理といえよう。だからこそ太古より人類は労働者を尊び、不労者を蔑んできたのだ。
さて、ここで疑問がひとつ。
働かざるもの食うべからずというけれど、働くことから逃れているニートは、どうして食えているのだろうか。
だって、おかしいじゃないか。
上記にある真理に則れば、ニートは餓死せざるを得ない。だけど、実際には彼らは食えている。食えてしまっている。のんべんだらりと生きてしまっている。
これじゃあ不公平じゃないか。
マジメに働いている人からしたらたまってものではない。自分たちがせっせと畑を耕している横で、ニートはあくびをしながら寝っ転がっており、そのくせ食卓の席にはしっかりとつくのだ。真面目に働くのが馬鹿らしくなって、手に持っている鍬と鎌をそのまま投げ捨てたっておかしくない。
なぜ、ニートはこの絶対的な大原則からの逸脱が許されているのか。
答えは非常にシンプルだ。
——この不届き者に対し、衣食住を提供する者がいるからだ。
ニートには、必ず支援者が存在する。
その支援者の大部分は親族が占め、次に友人、恋人、知人、行政機関と続いていくが、いずれにせよ彼らの支援によってニートは生活している。
働かざるものが、食えてしまっている。
一見すると、この支援者はニートにとって一番の味方だ。本来は石を投げられる存在である怠け者を、庇護のカーテンで外部から見えなくしてやり、その中で温かいスープを提供してやるのだから。
聖書に出てくる神様だって、ここまで優しくはない。
しかし、だ。
こと自立という視点から見れば、この一番の味方は、一番の敵へと姿を変える。
優しき支援者たちは、元々は有していたかもしれない自立の種を、栄養剤の過剰供給により腐らせてしまっている。最低限の水さえ与えていれば、萌芽したかもしれない僅かな可能性を摘み取っている。これはまさしく、敵対的行動ではないか。
一番の味方が、一番の敵。
この構図はなかなか皮肉が利いていて愉快だが、当事者としては笑えない。
その優しさが——否、甘やかし——が、ニートを堕落せしめているのだ。ぬくい毛布の中に包まる時間を延長させ、自立への意志を確実に削いでいく。
「今は時期が悪い」
「不景気だし、どうせ職もない」
「体調もあまり良くない」
「心身ともに万全を期してから動き始めるべきだ」
言い訳なんてものは、いくらでも思いつく。ニートという生き物は、行動しないことにかけては一級品だ。甘やかしてくれるのなら、徹底的に甘えよう。すねを齧らせてもらえるのなら、骨の髄までしゃぶりつくそう。それが、ニートという存在なのだ。
だからこそ、支援者たちはニートに手を差し伸べてはならない。
むしろ、その差し伸べた手で、ニートを谷底へと突き落とさなければならない。
そうだ。
今すぐ、ニートたちを千尋の谷へ突き落とせ。
彼らのことを想うのならば、彼らの最大の敵対者であれ。そうでもしなければ、彼らは一生自立しないぞ。
ああ、つい過激な主張をしてしまったせいだろうか。優しき人々の怒りの声が降ってくる。
「精神的に弱った人々に労働を押し付けるとは何事だ!」
「人それぞれ、働けない理由があるものだ!」
「援助を打ち切ったらニートたちは飢えて死んでしまうぞ!」
「これは迂遠的な殺人ではないのか!」
「このような非人道的な行いを許していいのか!」
おお! なんとお優しいご意見だろうか!
いやはや、社会というのは本当に弱者に優しくなった。そのおかげで、僕みたいなニートでも生きやすい世の中なりつつあるのは、道徳的には賞賛すべきものなのかもしれない。
けれど、それは本当に正しいことなのか。
飢える者たちにパンを与えることはたしかに正しいかもしれない。でも、それ以上に、パンを得るための心構えと手段を説く方が、よっぽど正しいだろう。
ニートに必要なのは、優しさよりも厳しさなのだ。
だからこそ、優しき支援者たちに告ぐ。
労働せぬ不届き者を、追い詰めて、追い詰めて、追い詰めて、奈落の底まで追い詰めてやれ。
じりじりと後ずさっていた踵が、ついに何も触れなくなり、砂礫が闇の中に飲み込まれていくのを見れば、ニートは媚びるような笑みを浮かべるだろう。
「まさか、冗談だよね。ただのポーズだよね」
と、震える声で訊ねるかもしれない。
だが、容赦はするな。
慈悲を押し殺し、目は逸らさず、黙々と距離を詰めていけ。
そうすれば、ニートは全てを察するだろう。諦念に眼を濡らした後、ほんの一瞬だけ憎悪の瞳で睨みつけるだろうが、しかし最終的には地面に額をこすりつけ、粘つく唾液で口元を汚しながら、更生に向けての言葉を吐き続けるだろう。
「必ず自立しますから、明日から頑張りますから、だから、だから、堪忍してください」
そしてニートが顔を上げた時、それでも変わらぬ意志を見せるのなら、鋼のように固い意志がそこにあるのなら、ニートは、ニートはきっと——
ガラスのコップが机に置かれる、その硬質な音で我に返った。
観念の世界から、物質の世界へと強制的に引き戻される。深海から急浮上させられたかのような衝動に目眩を覚え、眉間のあたりを指で揉む。
再度、目を開けた時には、全てが終わっていればいいのに。
そう願ったが、耐えがたい六畳一間の現実は、これっぽっちも変わっていなかった。
相変わらず、僕と涼子は、コタツを挟んで向かい合っていた。
壁にかけられた時計は、おそらく午前六時頃を示しているだろう。閉じたカーテンの隙間から、にじみ出る朝日がぼんやりと室内を照らしているが、対面する彼女までには届かず、その姿は薄闇に紛れている。存在感が希釈されているせいか、まるで幽霊と向き合っているような不気味さを感じた。
涼子の瞳を見るのが怖くて、顔を上げられずにいる。視線は常に斜め下を維持しているので、彼女が今、どのような表情をしているのかは全くわからなかった。
正座しっぱなしの足は徐々に痺れを覚え始め、筋肉痛とのダブルパンチに苛まれていた。足を伸ばしたいと思ったが、伸ばしてしまえば涼子の足に触れてしまうので、正座のままでいなくちゃならない。コタツの人工的な熱は膝小僧までにしか届かず、足先の感覚をさらに失わせていく。
一時間前の世界に戻りたいと、切実に思った。涼子と会わずに済んだかもしれない世界線。
いや、そこまでの贅沢は言わない。せめて愚行を犯す前の、数十分前の世界線に戻りたい。
この状態に至るまでに、僕はひとつ、大きなやらかしをしでかしていた。
数時間も凍える屋外で待っていた涼子に対して、冷たい水を提供してしまったのだ。しかも、ただ蛇口からひねり出しただけの水道水を。
言い訳をさせていただきたいのだが、決して嫌がらせなどではない。
『客人はもてなすべき』という、辛うじて思い出した社会通念に対して、僕の人生経験は圧倒的に貧弱だった。とりあえず飲み物を出せばいいだろうと思い、咄嗟にガラスのコップを手にとって、水道水を注いでしまったのだ。
せめて体を温める白湯にすべきだったと思い直したのは、すでに中身が満たされたコップを差し出した後であった。
いや、もっと言えば、事前にお茶を買い置きしておくべきだったのだ。梅昆布茶は絶対に常備すべきと強く主張していた、あのちびっ子が正しかったことが証明された。別に梅昆布茶とか必要なくない? とか穿った見方をせずに、素直に先人に従うべきだったのだ。
涼子は特にコメントせず、黙って水道水に口をつけてはいるが、その内心は計り知れない。実際は、おもてなし精神が不足している僕に呆れ果てているのかもしれない。それとも、僕への当てつけのために、あえて冷たい水を飲んで見せているのか。
わからない。
涼子の考えていることなんて、昔から何もわからないのだ。
そもそも、彼女はなぜ僕を待っていたのだろう。
生活費はポストに投函しておいてくれとメールを送信していたのに、なぜ言いつけに従わなかったのか。
僕の罪悪感を薄れさせるためにも、それだけは把握しておく必要があった。目線を下に向けたまま、ぼそぼそと訊ねてみる。
少しの間を置いてから返ってきた答えは、実に納得のいくものだった。現金をポストに投函しておくのは危険だから。それだけ。
ここで、僕の住むボロアパートについて少し説明しよう。
主に、集合住宅のポストというのは、直接ドアに投函口が設置されているタイプと、エントランスにまとめて投函口を設置しているタイプの、二種類に分かれる。そして、僕の住むボロアパートは後者のタイプであった。
今時のアパートであれば、ポストには当然ダイヤル式のカギがついていると思われるが、そんな未来的機能は搭載されていないため、セキュリティはほぼ皆無。しかも、投函口がかなり広めにつくってあるため、郵便物が外から丸見えときている。なんたる残念仕様の住宅。つくづく思うが、どうしてこのアパートは満室なんだろう……住む理由のが少なくない?
上記の点から、現金の入った封筒を投函しておくのは危険だと判断したため、僕が帰ってくるのを待っていたとのこと。
至極真っ当な理由ではあるけれど、凍えるような寒さの屋外で何時間も待つ必要があるとなれば、話は別じゃないだろうか。しかも、待ち人はニートの兄ときている。日を改めることもできただろうに、彼女は律儀に僕を待ち続けた。
そういうヤツなのだ。昔から、異様なまでに責任感が強い。
——たとえ憎ましい人物が相手だったとしても、それが義務であるならば、妹は淡々と果たすのだろう。
「…………」
針のような沈黙が続いた。
もともと、涼子は口数が少ない方だった。思えば、玄関前で顔を合わせた時、少しだけ僕の顔の傷が気になる素振りを見せたが、今に至るまで何も訊いてこない。
単純に、興味がないのだろう。
ひきこもりだった兄が外出していたことについても、ここ最近の目まぐるしい人間関係の変化についても、彼女にとっては、おそらく些末事でしかない。
ニートの兄を養っている状況自体に変わりがなければ、無風と変わらない。そんなところだろう。
「…………」
一時停止された世界の中、やおら涼子が動き出す。
鞄の中から何かを取り出し、そっとコタツの天板に置いた。
わずかに、視線を上げる。
そこにあったのは、大手銀行のロゴが刻まれた封筒だった。
ごくり、と生唾を飲み込む。喉仏が隆起し、鼻から息が漏れ出るのがわかった。
それなりの厚さをもったそれは、僕にとっては喉から手が出るほど欲しいものに違いなかった。これさえあれば、僕はもうしばらくだけ安寧の中にいられる。
——寝覚めのいい朝を迎えられる。
甘い蜜に引き寄せられ、喉から飛び出そうとしている手。
その手を、なんとか上下の歯で噛み切った。
——ここが分水嶺になるのではないか。
電撃が走るように、急に閃いた。
これは自身の生き方を選択する、千載一遇のチャンスなのではないか。
人間として生きるのか、家畜として生きるのか。
それを自発的に選び取る、またとない機会なのではないか。
……一旦、落ち着こう。
これを受け取ってしまえば、僕は家畜として生きざるを得ない。だが、受け取らなければ僕は人間として生きていける。底辺中の底辺には違いないが、それでも人間であることだけは保証される。
そして僕は家畜ではなく、人間として生きたかった。
なら、悩む必要はない。
でも。
でも。
でも。
それが出来たら苦労はしないのだ。それが出来ないから、苦悩しているのだ。
言うは易し、行うは難し。
人間として生きるということは即ち、働いて自立するということ。
働いて、自立するだって? 僕みたいな超絶コミュ障が? 社会不適合者を絵にかいたような人間が? これは映画でも漫画でもない、無味乾燥とした現実なんだぞ? 周囲の人々の力を借りてニートが自立するなんてチープなサクセスストーリーが、ここで成り立つとでも?
思い直せ。本当にこれを受け取らなくていいのか?
もし退路を断てば、本当に跳ぶしかなくなるんだぞ? 後戻りができなくなるんだぞ?
命がけの跳躍をするしかなくなるんだぞ?
さらに未来へ向かって手を伸ばしてみれば、そこにあるのはぬるりとした気味悪い感触。思わず、手を引っ込めてしまう。
無理だ。
絶対に無理だ。
僕に自立は無理だ。
手放したくない、しがみつきたい、寄生していたい。
無限に押し寄せてくる堕落への言葉。耳元で甘く囁かれ、太ももに優しく手を置かれる。
――バカ言うな。
僕は、それらの言葉を遮断するために、強く歯を食いしばり、力強く膝に爪を立てた。その痛みのおかげで、少しだけ思考がクリアになる。
決めたじゃないか、変わるって。
大家さんの助力を受け入れたのは何のためだ? OLさんの手を握ったのは何のためだ?
変わるためだ。
凪の海にウンザリし、たとえ嵐が待っていようとも、ここにいるよりマシだと舵をとったのは誰だ。
僕だ。
なら、飛べ。
僕は初めて視線を上げ、涼子の方を見やる。相変わらず、彼女の表情は薄闇に紛れてうかがえない。
構うもんか。
そして僕は、覚悟を決めた声でこう言った。
「これは、もう僕には必要のないものだ」
目を覚ました。
「え」
先ほどよりも、ずっと暗い闇があった。
首を動かし、時計を見る。暗闇の中で光る細長い蛍光色は、午後七時を示していた。
一瞬、今が現実なのか夢なのか、判別がつかなくなった。さっきまで早朝だったのに、いつの間にか夜になっている。
混乱から抜け出すため、目やにのたまった目元を擦り、深く呼吸をする。少しづつ、自分と現実とを調和させていく。
どうやら朝の一幕の後、そのまま眠りについてしまったらしい。
無理もない。深夜のOLさんとの一幕を含めれば、あれほど疾風怒濤だった一日もない。しかも、これまでの日々が代り映えのしないニートライフだったことを思えばなおさらだ。心身ともに疲れ果てて、寝落ちするのも致し方がない。
「……寒っ」
コタツで眠っていたせいか、上半身がすっかり冷え切っている。布団で眠っていれば無駄な電気代を使わずに済んだのに、と少し後悔。
冷えた身体を温めるため、首元まですっぽりとコタツの中に入り込む。次第にほぐれる身体とともに、口元も緩んでいく。
「やった……僕は、やったんだ……」
言いようの知れぬ充足感が、じんわりと神経に染み込んでいくのがわかった。
やり遂げたのだ。ずっと言わなければならなかった一言を、僕はようやく言えたのだ。浅ましい自己を否定し、自立への一歩を踏み切ったのだ。
無論、恐怖はある。
莫大に増えたリスクとタスクを思えば、歩む道は苦難で溢れているのかもしれないが、これでいいのだ。
尻に火が付けば、ノロマなニートも動かざるを得ない。稼がねば、餓死する。そして、僕に餓死する勇気はない。ならば、働くしかない。
よし! 深夜になったら、コンビニへ行って求人誌を取りに行こう! いやいや、それだと時間がかかるな。インターネットで求人サイトをチェックする方が効率的かな。今はネット求人の方が一般的らしいし、そっちのが求人のバラエティも豊かだろう。
僕の進む道は、ただ暗いだけじゃない。
道の終わりにあるであろう、栄光の『脱ニート』というゴールに向けて、悠々と歩き出そう。
そうだ。
もう、僕に涼子は必要ない。
これからは、ひとりで生きていくんだ。自立するんだ。
変わるんだ。
「……ふぅ」
そして、十分に温め終えた上半身を上げ—―僕は、コタツの天板に鎮座する『現実』を発見した。
「な——」
リアリティのある夢を見たことはないかい? それもかなりハッピーな夢。心の底から醒めたくないと願ってしまうような夢を見た後だと、起きてからもしばらくの間、現実とのギャップに引きずられてしまうことがある。今、まさにその状態だった。
断続的に脳内で再生される、途切れ途切れのワンカット。そこには、卑しい顔をして、封筒を受け取る僕がいて……。
呻く。
呻く。呻く。呻く。
「僕はクズだ……」
わかりきったことを呟くな。
拳で膝を叩く。
「僕はクズだ。僕はクズだ。僕はクズだ。僕はクズだ。僕はクズだ。僕はクズだ」
だから、わかりきったことを呟くなって。
何度も、叩く。
なぜだ。
なぜ、受け取ってしまったのだ。
変わるって決めたじゃないか。不退転の覚悟を決めたじゃないか。資金源さえ断てば、生活に行き詰まって、渋々アルバイトでも始めたかもしれないのに。
なのに、どうして。
どうして、僕はこうクズなのだ。
「……いや」
そうだ、まだ終わっちゃいない。
夢の中の英断を、リプレイすることは可能じゃないか。
今すぐ、この封筒をガスコンロの火にかけて、灰燼に帰してしまえばいい。そうすれば、強制的に退路は塞げる。
やり直せばいい。今度は夢ではなく、現実でやり直せばいいのだ。
「……そうだ、僕は変わるんだ」
封筒を手に取り、のろのろと台所へ向かい、ガスコンロに火をつける。
ゆらゆらと揺れる青い炎。
それをじっと見続けると、ある種の催眠状態に陥ってくる。
今の不安定な精神状態でなら、踏み切れるかもしれない。
炎に向かって、そっと、封筒を近づけていく。
——が、途中で止まってしまう腕。
あれ? どうして僕は動けない? やれよ。今すぐ、やれよ。退路なんて断ってしまえよ。
――けれど、本当にそうしてしまったら。
自立への道。
僕が、人並みに働けるのか? 誰が雇ってくれるのだ? 職歴なしの二十七歳を。学歴だって、大学中退。正社員での雇用は無理だ。なら、まずはアルバイトか? でも、接客が必要なサービス業はまず無理だろう。まともに会話ができない阿呆を雇う余裕はないはず。なら、肉体労働か? この非力な細い身体で、肉体労働? 馬鹿な、一時間だって持ちやしない。なら他は……他はなんだ? 営業職? ははは。笑わせるな、天地がひっくり返ったって不可能だ。それに、仮に……仮にだぞ? 理想的に事が運び、就労することになったとする。そしたら、どうなる? すぐクビになる。そうに決まっている。無能の烙印を押されてゴミ箱に投げ捨てられても、なお、僕は立ち上がることができるのか? また、その焼きゴテを押し付けられるのがわかっているのに? 苦痛しか待っていないと理解しているのに? 揺らぐ。揺らぐ揺らぐ揺らぐ揺らぐ揺らぐ。嗚呼、僕の決断とはなんて脆いのだ! 己の惰弱さに吐き気がする。どうして、僕は普通ではないのだろう。普通に生きていくことができないのだろう。僕はどうして……いや、僕だけのせいじゃない。涼子も悪い。そもそも、アイツが僕を支援するからいけないのだ。さっさと関係性を断ち切ればいいのに。家族だからって、同じ血が流れているくらいで、僕みたいなクズを扶養するなんておかしいだろう。そうだ。涼子が悪いんだ。全部、涼子が……。
理不尽に妹を恨む浅ましさは理解していたが、そうでもしなければ耐えられなかった。全てを自分の責任にしてしまうのは重すぎるから、相手の責任へと転嫁する。典型的なクズの思考。嗚呼、弱者が強者を恨むのは、なんと醜いことか。本当は加害者のくせに、被害者であるかのように振る舞う。こんな惰弱な精神、根絶やしにすべきなのだ。殺せ、殺してしまえ、誰でもいい、こんな精神、殺せ。
「なーにやってんの? ヒロシ」
玄関のドアから、小動物が半身をのぞかせる。
「へ」
瞬間、スローモーション。
手から滑り落ちる封筒、驚愕で見開かられるくりくりの丸い瞳、ヘビのような俊敏さで伸びる白い手、寸でのところでキャッチされ握りつぶされる封筒、返す刀で回されるガスのツマミ、そして消える青い炎。
この間、わずか数秒。
タイムラプスで撮影したかの如く、一連の流れがよく観察できていた。
「こんの、アホちん!」
顔を真っ赤にした大家さんが、激しく肩を上下させながら叫ぶ。
「どうして、お金を燃やそうとしてたのよ! 無職のヒロシにはわからないかもだけどね、あたしたちはこの紙切れを手に入れるために色んなものを犠牲にしてんのよ! これは、お仕事している人たちに対する冒涜だわ! ってか、燃やすくらいならあたしに頂戴よ! 貢いでよ! お姉ちゃん、マジでプンプンだからね!」
珍しく、いくらか怒気を含んだ声で説教をする大家さん。あまりにごもっともすぎるご説法だったので、返す言葉がなかった。傍から見れば、僕のやろうとしていたことは蛮行でしかない。いや、凶行か。
しかし、その精巧な紙細工に、どれほどの血肉が詰まっているかは、無職である僕にも、痛いほどわかっていた。だからこそ、灰にしなくてはならなかったのだ。
「……い、いっそ、ぼ、僕の代わりに燃やしてくださいよ、それ」
「だから、そんなことできるわけ……」
と、再度、声を荒げようとしたところで、僕の様子がおかしいことに気づく。
大家さんは、即座に怒りを引っ込ませると、ふーっと一息ついて髪をかきあげた。
そんな風に、急に大人びた態度をとるのはやめて欲しかった。僕がいかに情けない人間なのかが思い知らされてしまうじゃないか。
「ま、とりあえず話を聞かせてくれる?」
栗色の髪を揺らしながら、彼女は背後の六畳一間を親指で示す。そのジェスチャーはいかにも芝居がかっていて、少しキザったらしかった。
後から考えれば、大家さんとしては何かしらのツッコミ待ちだったのかもしれない。だが、僕にはそんな余裕すらもなく、ただゾンビのようなふらふらとした足取りで、中へと促されるのみであった。






