第八話
朝が近づいていた。
東の空は仄かに白めき、太陽の到着を今か今かと待ちわびていた。その前面には、電線にとまっている鳥たちがいて、まるで楽譜の音符のように連なっていた。まだ目が利かない時間帯なのか、飛び立つ気配はない。
いつもは窓越しで見ている朝の訪れを、生身の身体で経験している。
百聞は一見に如かずという言葉があるけれど、見るだけではまだ足りないと知った。五感を以て体験することで、初めて経験となり得るのだ。
だって同じ朝なのに、抱く感慨が全然違う。
足音ひとつ聞き漏らすまいとそばだてている耳は、運よく何も拾わない。始発電車には少し早いようで、駅に向かう人もなく、住宅街は未だ静寂を守っていた。
――朝焼けを迎えたい。
そんな衝動に駆られたが、明らかに望みすぎだった。
後、一時間もすればこの道も人が行き交うようになる。僕は成長したのかもしれないが、それはあくまで閉じた世界の中でだ。
不特定多数の人々を相手にするのは、まだ恐かった。いつの時代だって、穀潰しは軽蔑される。立ち居振る舞いや雰囲気でニートであることが露見してしまい、数多の双眸で弾劾されれば、僕の細い神経では耐えきれず、容易に発狂してしまうだろう。
だから、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、自宅を目指す。
タバコの煙のようになかなか立ち消えない白い息を顔に受けながら足早に歩く。
タッタッタとペース良くアスファルトを蹴る音。ジャケットにかじかんだ手を突っ込み、ジョギング一歩手前の歩行速度を保つ。
早い歩調は、何も焦りだけが全てじゃなかった。ぐつぐつと煮えたぎる高揚感が、のんびりしていることを許さなかったのだ。
この感覚を、なんとたとえればいいのだろうか。新しい学校に転校生として飛び込む感覚? 言葉の通じない海外にひとりで旅行に行く感覚? もしくは、新社会人として新しい職場に臨む感覚?
わからない。僕にとってはいずれも未知であったし、名付けようのないこの感覚に無理矢理名前をつけたところで、本質を掴めやしないだろう。
だけど、止まっていた歯車が動き出し、停滞していた世界が音を立てているのは事実だった。
あの公園での選択が正しかったのかはわからない。
僕の進む道にOLさんが絶対に必要かというと、おそらくNOだろう。けれど、彼女の持つ厳しさは絶対に活きてくる。彼女が指摘したように、僕の甘ったれた性格がひきこもり生活を増長させた面は少なからずあった。そして、その糖分過多な環境を許してしまう優しい人たちで構成されている世界で暮らしていれば、成長のしようがない。
しかし、そこに鬼教官を放り込めばどうなるか。
しつけのなっていない犬を容赦なく鞭で叩く冷徹さに、僕が耐えきれるのかは定かでない。またぞろ、お得意の現実逃避が始まるかもしれない。それどころか、かえってトラウマを増やす結果となり、ニート脱出はおろかひきこもりに逆戻りする危険性だってある。
だが、それがどうした。
兵は拙速を尊ぶ、という孫子の言葉は正しい。長い間、あの狭い一室の中で熟慮を重ねてきたが何も変わらなかった。稼働しない機械は錆びて動かなくなるように、無意味な長考は行動の硬直化を招いただけだった。ひきこもり生活が長引いたせいで、唯一機能していた脳味噌にすら蜘蛛の巣が張ってしまい、非行動を是とする思想を積極的に生み出す有様だった。
だからこそ、あの糸を掴み取った判断は間違っていないと信じたい。
ポケットから手を出し、苦労の跡がない綺麗な掌を見る。未だに、彼女の熱が残っている気がした。
そういや女性の手を握るのは小学校の時のフォークダンス以来だったけな、なんて暗黒の思い出をひとつ挟み、これから訪れるであろう彼女との日々を想う。
OLさんなら、そう……きっとこんな具合にご教示くださるはず。
「さあ、武井くん。まずはあなたの回らない舌を矯正するために発声練習をしましょう。私に続いてこう言うのよ。この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます。ハイ、続いて」
「は、はぁ? そ、そんなこ、こと……言えるわけ、ない、じゃないですか」
「どうして」
絶対零度の瞳で見下される。
彼女は表情ひとつ変えないまま、僕の肩を強く押す。支えのない身体は後ろに倒れかけるが、咄嗟に膝を落とすことで転倒を防いだ。
結果、跪くような姿勢になり、物理的にも見下される構図がつくりだされた。
「どうしてブタが意見するのかしら。今回は特別にブタ語じゃなくて人語を喋らせてあげようとする私の好意が理解できないのかしら。それとも、ブタ並みのオツムしかないから人語そのものが理解できないのかしら」
ゆっくりと脚を上げ、レコードの針のように高く尖ったハイヒールで、僕の剥き出しの太ももを強く踏む。
「痛っ」
漏れる声。
苦痛に変化する僕の表情を楽しむかのように、強弱をつけながら絶妙に圧をかけてくる。
「ほら、言って。さっきの言葉を。それとも忘れちゃった? なら、もう一度言ってあげましょうか」
あくまで淡々と機械的に述べようとしている言葉に、徐々に嗜虐的な色が織り交ざっていく。
「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます」
「……くっ。なな、何をしたって、ぼ、僕は、いい、言わないぞ。人間には、捨てちゃ、いけない、じ、自尊心というものが……はぅあぁ!」
「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます」
「じぇ、絶対に……言う……あひゃぁぁん!」
「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます」
「あ……あん……あ、ぼ、ぼくは……」
絶え間なく与えられる甘く快く感じられる痛みに、人としてのプライドが薄れていく。
凝りほぐされていく些末な頭で、思う。
僕は本当に人間なのだろうか、と。
果たして、部屋にひきこもって食って寝るだけの存在を人間と呼んでいいのだろうか。これでは、食肉センターに送られる前にブクブクと太らされるブタと同じではないか……僕は、人間なのか……それともブタなのか……ニンゲン……ブタ……。
突如、太ももを通して供給されていた快楽が消え去った。
驚愕し、愛に飢える子どものように心細げに見上げるが、あるのは能面のような無表情。
「欲しいのなら」
後は言わなくてもわかるでしょう? そう言わんばかりに、凄惨に口の端を吊り上げる。
じくじくと痛む太ももをさすり、歯噛みする。
……欲しければ、捨てなければならない。ゴミ箱の中へ、廃棄物処理場の中へ、僕自身を。そして人間としてではなく、一匹の醜悪なブタとして生きなければならぬ。だけど、そんなこと……僕には……僕には。
決断するまでに、さほど時間はかからなかった。
人と家畜との葛藤の中、僕は叫ぶ。
「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございますぅぅぅぅ!」
「よろしい」
そうして彼女はやおら鞭を取り出し――って、おいおい混ざってる混ざってる。この前プレイしてたエロゲの内容と混ざってるって。一体、僕は何を妄想しているんだ。確かに、OLさんは女王様的な気質がありそうだけども、そして似合いそうではあるけれども、さすがにそんな調教……じゃなかった教え方はしないはず……しないよな?
このゲーム脳ならぬエロゲ脳を圧殺したいと思う明け方近くでした。
ピンク色の妄想が鳴りを潜めるのを待ち、熱っぽい身体を静めるため肺に冷気を取り込む。
らしくもなく興奮していた。身体だけではなく、心の方まで急いていた。熱せられた魂には、いかなる肉体的な冷却も意味をなさず、単に肺を痛めるだけだった。
堪らず、走り出した。
ここ最近は走ってばかりだった。先週も走ったし、数時間前にも走っていた。が、その内容は全く異なっている。今までは逃避ゆえの疾走であったが、現在はゴールに向かっていく直向きな情熱があった。
悪い気分じゃなかった。いや、ちょっと嘘。やっぱり恐い。比率としては、九割は恐怖。そして残りの一割に、鈍く光る期待が見え隠れしている。
僕は、人生の転換期にいる。立っているステージが六畳一間の部屋から一段上がり、眼前には無限の世界が広がっている。
意味もなく、叫びたくなった。
ボロアパートが見えてくると、一気に疲労感と眠気が襲ってきた。眠る時間にはまだ早かったが、思っている以上に消耗していたようで、自然とあくびが出た。
「生活リズムも元に戻さないとなぁ……」
夜に起きて昼に眠る生活は健全とはいえないだろう。けれど、深夜勤務の仕事に就くのなら、今の方がいいのかもしれない。コンビニの夜勤とか、あまりお客さんが来なさそうだし、脱ニートにはちょうどいい仕事な気がする。
……まあ、捕らぬ狸の皮算用か。そもそも、まともに外出できるようになったのだってここ最近の話だし、就労開始時期がいつになるかだなんて予想もつかない。どれだけのレベルアップを重ねれば、アルバイターまで辿り着くのだろうか。
今にも崩れ落ちそうな錆だらけの階段を静かに登りながら、未来予想図を思い描いてみるが、集中力の切れた頭ではすぐに白紙になってしまう。
どちらにせよ、今日はもうおしまいだ。イベントは消化した。後は休息を得て、明日から発生するであろう新イベントに備えよう。
何か一つ、大きな出来事をこなすと、今日はこれで終いだという気がするのは、何も僕だけではないだろう。
けれど、こんな言葉もある。一難去ってまた一難。災難というのは一度だけで終わらず、連続性を有している。そして不条理な災難は、善人だろうが悪人だろうが、構わず降りかかってくる。
階段を登り切り、自室へ向かおうと短い角を曲がって――硬直した。
全身の肌が粟立つ。外気の冷たさにではなく、心因性の恐怖によるものだった。脊髄に直接、冷水を注入されたような感覚に眩暈がした。悲鳴を上げかけるが、臓腑の引きつりにより強制的に中断された。
二○三号室の前に、誰かが立っていた。
木肌の荒いドアにもたれかかり、心ここにあらずといった様子で白む空を見上げている。
どれほどの時間、外で待っていたのだろうか。化粧気のない顔は気の毒になるほど白く、まるであてどなく彷徨う幽鬼のようだった。存在感が希薄化し、周囲の景色に溶け込む姿は一枚の風景画みたいで、危うく見落とすところだった。
最後の最後にとんでもない爆弾を落とされ、上向いていた感情がオセロのように一気にひっくり返った。
逃げなければならない。
本能的にそう思った。
忘我の状態にあるのか、幸いにも階段の軋む音が聞こえていなかったようで、僕の存在にはまだ気付いていない。
焦らず、音を立てず、慎重に階段を降りていけ。その後のことは気にするな、街頭に人があふれていようとも、少なくともこの場所より百倍マシだ。
うまくいくはずだった。
足音一つ立てまいとスニーカーを脱ぎ靴下姿になったし、姿勢を低くして死角に入る入念さまでみせた。
が、個人の領域ではどうにもならぬ要素があった。
地平線と家屋に隠されていた朝日が、ようやく顔を出した。
残響の如く、微かに付着していた夜の暗闇を追いやる白い光が、あらゆる者を照らし出し、はぐれ者の背に遮られた影が、彼女に向かって伸びていく。
――あれほど迎えたいと切望していた朝焼けに裏切られるだなんて、これ以上の皮肉があろうか。
与えられるはずの陽光が不足していることを訝しみ、血の気のない顔をゆっくりと、遮蔽物の方へ向ける。
そして、汚れた靴を片手に持った、腰を引いて縮こまる情けのない姿の愚者を、両の眼が見据える。
その声は小さかった。
だが、ノイズのない朝の世界では、僕の鼓膜を震わせるのに十分な声量だった。
「兄さん」
武井涼子が、兄を呼ぶ。