第七話
深夜の公園に、二つの影が対峙している。
一方は自信満々に腕を組み、もう一方はベンチに腰掛けうなだれる。
どちらか優勢なのは、一目瞭然だ。しかし意外なことに、情勢は拮抗していた。
借りを返す。借りを返させない。
傍からみれば、これは不毛としか言いようのないやり取りだった。
もらえるものなら、もらっておけばいいじゃん。第三者はそう思うだろう。僕だって金一封とかなら喜んで受け取るけど、OLさんからはどうにも一回だけじゃ終わらせない、その後の伸展をにおわせるような不穏な雰囲気があったので、僕としてもおいそれと首を縦には触れなかった。
彼女はもはや敵意を隠そうともせず、マンガだったら『ギロリ』なんて擬音がつきそうなくらいの勢いで睨みつけていた。おかしいな……僕は一応、恩人(仮)だったはずじゃ……。
苛立たし気に腕を組んでいるOLさんの姿は、この展開が不本意なものであることを告げている。
実際、不本意だったろう。僕みたいな気の弱そうなもやしっ子、すぐに説き伏せられると考えていたに違いない。しかし、実際は塹壕戦の様相をなしていて、決着がつきそうな気配は今のところ見えない。
が、それは意外でもなんでもないことだった。こっちは普段から世の「働け」という正論に耐えているのだ。それに比べれば、これしきのプレッシャーなんちゃない。意固地になったニートの頑強(頑迷)さを思い知るがいい!
ジリジリと焦げ付くような停滞の後、ハァと煩わしさと共に白い息が吐き出される。
いい加減、水を掛け合うだけの議論には疲れたらしい。OLさんは勢いよく缶コーヒーを飲み、中身を空にすると、数メートル先のゴミ箱に向かって投擲した。ナイスコントロール。見事、空き缶は目標地点にイン。
長身のモデル体型から繰り出された、華麗なピッチングフォームを見て、思う。
――彼女は、どうして僕とつながりを持とうとするのか。
なにも僕は、自分のことだけを考えて拒絶しているのではない。僕みたいな気持ち悪いニートとこれ以上付き合わなくていいように、彼女に配慮してやっているのだ。それが、なぜ伝わらない。もしくは、わかっていて気付かないフリをしているのか。
借りを返さないと気が済まない性分だと、OLさんは言っていた。
そこには杓子定規な義理堅さだけじゃなくて、幾ばくかの善意も含まれているのだろう。しかし、その善意が困りものなのだ。
善意の押し売りがなぜいけないのか分かった気がする。善意というのは、相手が望むものを十分に理解していて、初めて成り立つものなのだ。一方的な善意ってのは、ほとんど暴力と変わらない。
ほら、ひとりはいただろう? ちゃちな博愛主義を掲げて、爪弾き者を集団の中に引き戻そうと努力する哀れな善人が。そいつがどうして孤独なのかを理解せず、お行儀のいい思想を掲げて余計な行動を起こし、結果……いや、脱線している。過去の苦い思い出はとりあえず脇に置いておこう。
とにかく、人とのつながりなんて、持たない方がいいに決まっているのだ。
人とのつながり――僕はこれを『糸』と呼んでいた。
一般的に、糸を持つのは良いこととされている。学校教育でも、しばしば糸を『絆』という耳障りの良い言葉に変換し、道徳の授業等で礼賛している。
糸は素晴らしい! 糸によって人々は助け合い、共存しているのです! 皆さん、一本でも多くの糸を保有しましょう! 糸が人生を豊かにするのです!
授業の中で、テレビの中で、書物の中で、インターネットの中で、手を変え品を変え、糸を至上だと喧伝している。
そのプロパガンダを疑う者は誰一人としていない。無邪気な賛同ゆえに、糸の布教は電撃のような速さで広まり、順調に信者を増やしていく。
一元化された価値観の中では、糸を一本でも多く持つ者が勝者となる。糸を手に入れるべく奔走し、量と質を自慢する。友だち多いアピール、人脈広いアピール、著名人と交流あるアピール。糸を自慢する輩が後を絶たないのは、これが原因だ。
が、僕は疑問を呈したい。そして、危険性を訴えたい。
――糸は本当にそんなに良いものなのだろうか、と。
結論から言ってしまうと、糸は害悪でしかない。しかし、人類にとって悲劇なのは、糸を持つことを強制されていることだ。
何も難しい話ではない。
たとえば、学校や会社などの社会集団において、糸を持たずにいればどうなるか。簡単だ。孤立し、排除されるだろう。ひどい時には、攻撃される可能性だってある。
だからこそ、彼らは必死で糸を掴んでいる。そして全神経を注いで、糸を調節している。
糸は、緩めすぎても、張り詰めすぎてもいけない。緩めすぎた糸は徐々に細くなって、いつかはちぎれてしまうし、張りつめすぎた糸は、その張力に耐えきれずプツンと切れてしまう。
それが、一本だけならまだいいだろう。しかし、その実、二本三本、いや、十本五十本、人によってはさらに多くの糸を調節している。
多くなった糸は、絡まるのが自明だ。多数の糸を絡まらないように調節するのは至難を極め、神経がすり減る作業である。そして起こり得る最悪のケース――糸が絡まってしまった場合などは想像したくもない。
なんとか解こうと苦心するけれども、緊張で震える手ではうまくいくわけがなく、かえって状態は悪化してしまい、遂には玉状になって、切断する以外には道が無くなって、けれど切断してしまえば己の立場が危うくなるため、どうしようもできず右往左往し――そして彼らはようやく気付く。
手に掴んでいたはずの糸が――いつの間にか、己の首元に括られていることに。
…………。
以上のような地獄を目にしても、なお、糸は素晴らしいものだといえるだろうか。いえるわけがない。自殺の原因不動のナンバーワンが人間関係というのも頷ける話だ。
だが、真実を口にしたところで何も変わりはしない。現実を直視しても辛いだけだ。だから皆、地上ではなく天上を見上げ、糸を祭壇へと掲げ上げ、崇め奉る。かつてドイツ唯物論が、神は人類を疎外する悪しき概念であると喝破した功績を、再び無に帰す愚行を犯している。
しかし、数少ないながらも、そんなグロテスクな現状を、欺瞞であると見抜いた人々がいる。
ひきこもりニートたちだ。
ひきこもりニートは、世間とのつながりをなるべく断とうとする傾向を持つ。それは、人間関係が己を殺しうる刃へと変質するのを熟知しているからだ。
実家暮らしのひきこもりニートの場合、お盆や正月はまさに正念場といえる。実家に続々と集まる親戚たち。「この部屋なにー?」と無邪気な疑問とともに叩かれるドア。「もういい年なのに、いつまでああなのかしらね……」と壁越しに聞こえてくる大人たちの嘆き。
その度に、ひきこもりニートは思う。
孤独でいたい、と。誰も自分を知らず、関わろうとしない土地で生きていたい、と。
糸の性質のひとつに、保有者が弱者であればあるほど、鋭利になるというものがある。ピアノ線のような鋭さとなった糸は、保有者の皮膚を裂き、血を流す。
こんなもの、手放してしまいたい。けれど、手放せない。
ライフラインを他者に委ねてしまったひきこもりニートは、ひとりで生きていくことができない。故に、彼らは歯を食いしばって痛みに耐えながら、血だらけになった手のひらで糸を握るのだ。
つまり。
糸は極力断ち切るのが正解である。余計なものは削ぎ落すというオッカム先生の理論は、人間関係にも応用できる。
だから、僕とOLさんは、関わるべきではない。関わってしまえば、そこに新たな苦痛が生じるだけ。
大手を振って、サヨナラバイバイ。これが、互いにベストな選択だった。
「詭弁ね」
『糸』論を再考した直後、頭上から降ってきた否定に、思わず顔を上げる。
心を読まれたのかと思った。が、単に僕の悪癖が出ただけだと気付き、慌てて開けっ放しの口を閉じる。
「欠点を度外れに拡大して、さも誤謬しかない論であると誘導するのはデマゴーグの手法そのものよ。どんな思想にも、良い点と悪い点がある。その功罪を総合的に捉えて批判するのが、正しい展開じゃなくって? 確かに、あなたの言う糸によって苦しむ人は多い」
でも、と彼女は自分の身を抱きしめるように片腕を寄せ、
「それと同じくらい、糸によって救われる人は多いはずよ」
僕を見つめる瞳には、切実な色があった。知識人が民衆に蒙を啓く時のような上からの教えではなく、なんとか自分の考えを理解して欲しいといった、地道で土臭い、健気な光があった。
なぜ、彼女はこのような瞳をするのだろうか。
面と向かって説かれたものだから、さすがの僕も馬鹿正直に受け取らざるを得なかったが、提示されたヒューマニズムはすぐに冷笑的な色に塗りつぶされた。
結局、OLさんの考えは恵まれた者の意見でしかなかった。糸から恩恵しか受けてこなかった人には、なかなか負の側面が見えてこない。円満な家庭の中にいた人と、日常的に虐待を受けてきた人とでは、家族という共同体に対する考えが百八十度異なるのと同じように。
僕と彼女の間にある溝は、思いのほか深いようだ。
「それに、武井くんがさっき例に挙げていたひきこもりニートたちは、まさにその糸のおかげで生きているんじゃない。彼らが糸を否定してしまったら、野垂れ死ぬしかないわよ」
マジで深いようだ。
僕の『糸』論は、一瞬で切り捨てられた。そりゃもうバッサリと袈裟切りに。もしやおぬし辻斬りか? と危うく訊ねるところだったでござるよ。
「というわけで、借りを返すことは決まったわけだけど」
いつの間にか決まってしまった。
「武井くん、何か困っていたり、助けて欲しいことはない?」
困っていることか……なんなら今、すっごい困っている。OLさんが僕の前から去るだけで、その借りを返すという目標は達せられるわけだが、そんなことは口が裂けても言えなかった。
どうしよう……と、視線を下げた先には缶コーヒー。
「か、缶、こ、コーヒー」
「? 缶コーヒーがどうしたの」
「おご、奢ってもら、ったから、ち、チャラ、ってことで、こ、これで、かか、借りは……い、いや、なんで、もないです」
無言で凄むのは反則だろう。思わず途中で回れ右しちゃったじゃないか。
「それに、借りといえばこれだって……」
と言って、彼女は肩のあたりをポンと軽く叩く。
OLさんの意味深な目配せの意味を捉え切れずにいたが、
「あ」
コートだ。見覚えのあるコートだと思っていたら、僕のだった。そういえばあの日の夜、彼女の肩にかけてあげた気がする。ほとんど無意識にやっていた行為だったから、すっかり忘れていた。
というか、どうしてOLさんはわざわざ僕のコートを着ているんだ……。返すつもりなら、袋にでも入れて別に持っていればよくない? ああ、でもそしたら荷物になるしなぁ。そもそも、僕と会える可能性はかなり低かったわけだし、そっちの方が合理的か。
「これ、返すわね」
と、口では言っても、OLさんは中々コートを脱ごうとしなかった。そりゃそうだろう。誰だって寒い冬の夜に、防寒具を外したくはあるまい
「あ、あ、あげ、ますよ」
多少、値の張った代物ではあるが、長い間使ってきたコートだ。もう十分に元はとった。
が、言った直後に、僕が長年着てきたコートが、もはやゴミそのものだということに気づく。ゴミ処理を相手に押し付けてしまった罪悪感に襲われ、慌てて申し出を取り下げる。
「あ、の、ややや、やっぱり返して、ください。そんな、ふ、古いコート……いら、ないです、よね。だ、だからぼ、ぼぼ、僕が」
「もらえるのなら、もらっておきます」
顔には出していなかったが、やっぱり寒かったのだろう。もう返さないぞといった感じで、前開きだったコートを閉じる。
それから、なんとなく会話が途切れ、僕らは二人で黙りこくっていた。
その隙間のような時間帯が息苦しくなる直前、
「武井くんって、今、何しているの」
彼女にとっては何気ない質問だったろう。いい年した大人がする世間話なんて、仕事の話に決まっている。
が、その世間話は、僕にとっては喉元に突きつけられたナイフと相違なかった。
「ここ、コーヒーを、飲んでいます」
返答に困った僕は、あろうことかウィットのないジョークで誤魔化した。そのまま僕の会話スキルの欠如を、呆れた様子でスルーしてくれれば有耶無耶になるかと期待したが、
「いえ、そういうことではなくって、武井くんが今、何の仕事をしているのかってことなのだけれど」
……逃がしてくれませんね。さっきから確実に殺しにくるな、この人。ターミネーターかなんかなの?
僕はうなだれて、汚れたスニーカーを見つめた。
さて、どう嘘をつこう。きちんとしたストーリーを考えなければならない。なんせ、僕はもう二十七歳だ。四年制大学を出ている人ならば、普通に働いて、それなりのキャリアを身につけている頃。しかし、まともな労働経験がない僕に、具体性のこもった話などできるはずがない。
ならば、アカデミズムの世界に身を投じている設定にするか? 中退こそしたが、大学には通っていたわけだし、内部のシステムには精通している。よし、これでいこう。なかなかポストが空かず、不満たらたらな研究生の武井ヒロシくん。完璧だ。
と、僕が設定を煮詰めていると、
「武井くんって、ひきこもりなの?」
対戦車砲を歩兵相手に用いるようなオーバーキルだった。
動揺が大きすぎて、地震が起きたのかと錯覚したくらいだ。喉がギュッと締まり、数秒、呼吸ができなくなる。瞬きの回数が倍に増え、眼球は焦点を失う。
――この女、確実に殺しにきやがった。
取り落としそうになった缶コーヒーをギュッと掴み、
「あ、あ、あ、のですね。僕は、今、どこにいる、いますか?」
質問の意図が読み取れなかったのか、OLさんは困惑気味に「どこ?」と呟いている。
「そそ、外。外、ですよ。深夜の、公園ですよ。こ、これの、どこがひきこもりだって、いうんですか。屋外で、どど、どうやって、ひき、ひきこもればいいんですか」
ちょっとキレ気味な語調に、彼女も少しばかり驚いている様子。上体をやや後ろに逸らし、遠慮がちに目を伏せた。
「ととと、というか、どど、どうして、僕を、ひ、ひきこもりだと、お考えに、なな、なったんですか」
「どうしてって……さっき、武井くんが糸について話していた時、ひきこもりについての具体例がやたらと実感がこもっていたから」
「ひひき、ひきこもりの例は、昔、書籍で読んだことがあ、あるだけで。ほ、ほほとんど、いん、引用みたいなものですよ」
「それに、あの日の夜、二人組にひきこもりだって指摘された時も、妙に反応していたから」
「あれは、ああ、あれは、売り言葉に買い言葉と、いい、いうやつでして、言葉の綾と、いい、いいますか……」
大丈夫、落ち着け。とにかく冷静に対応しろ。ボロを出さなきゃ、僕がどうしようもない堕落的人間だってことはバレやしない。
ボクシングのスパーリングのように、しっかりミットで受け止めろ。そうすれば、直撃を食らうことはない。
「……わかった。質問を変える」
さっきよりも幾分、声を落として、
「武井くんって、ニートなの?」
………………。
僕は、夜空を見上げた。
世の中には、決して訊ねてはいけない質問というものがある。
「今、何しているの?」「仕事は?」「恋人は?」「結婚しているの?」「子どもは?」「え、キミいくつだっけ?」「ああ……まあ、人それぞれだからね」
――嗚呼、OLさんには人の心がないのだろうか。
「に、ににニートの定義にもよります」
ややもすれば落涙しかねなかったので、なるべく淡々と答えた。
「そもそも、に、ニートの語源は、ノット・イン・エデュケーション・エンプロイメント・オア・トレーニング……ぼ、ぼ、僕はエンプロイメントは、していないけれど、え、エデュケーションと、と、トレーニングはしている……た、たしかに、広義のニートには、含まれるかも、しれないけれど、ごご、語源的なニートの定義からは、やや、逸脱してい、るわけでああ、あってでして……つまり、で、ですね。僕をニートと、定義するかどうかは、恣意的な見方によるもの、であり、確実性の薄弱な……」
コミュ障特有の一方的な長広舌。会話の基本はキャッチボールだというのに、バッティングマシンのようにポンポンと球を放っても仕方があるまいに。でも、弱りに弱った今の僕には、こんな対応しかできなかった。
なので、
「……ええ、そうです。ぼ、僕は、たし、たしかに、ニートです」
認めることにした。
余計な飾りを外して身軽にはなったが、心には新たな重りが付け加わった。
もういっそ、僕がどれだけ駄目な男なのかを滔々と語ってやろうか。
へっへっへ、と自虐的な笑いが漏れる。今が、昼間じゃなくてよかった。子ども連れの多い昼間の公園で、こんな笑い方をしていたら通報されかねない。
己への蔑みを求めてOLさんを見るが、彼女の瞳には蔑みの色はなく、ただ食い入るように僕を見つめていた。
女性の身体には合わない男物のコートが、徐々に肩からずり落ちる。
襟を首元まで引っ張り上げて、
「武井くんはどう思っているの」
「……ど、どういう意味で、しょうか」
「あなたは現状で、ニートのままで、満足しているの」
「まさか!」
僕はベンチから勢いよく立ち上がった。
残り火のように、心の奥底で微かに熱をもっていた何かが急激に燃え立った。
「こ、この、このままで、いいわけないじゃ、ないですか。このままで……」
僕は一から説明しようとして――思いとどまった。
仮に百万の言葉を費やしたところで、スーツを身に纏うこの女性には一も伝わらないことを瞬時に悟ったからだ。
彼女にわかるわけがなかった。
無為な一日が、どうしようもない早さで過ぎることを。食事をする時、娯楽を消費する時に、これは自分のカネではないのだと後ろめたさを覚えることを。社会に居場所がないことによる居たたまれなさに、身体中が痒くなることを。するべきことは理解しているのに、行動に移すことができず、爪を噛んでいるうちに朝が来ることを。そして、「また明日」と呟いて、眠りにつくことを。
彼女にわかるわけがなかった。
絶対に流すまいと決めていた涙が、あっけなく頬を伝う。
「僕は……」
何度も、考えていた。僕をこんなに苦しめるものの正体は一体何なのかと。
最初は、社会の同調圧力かと思っていた。
いい学校を出て、いい会社に就職して、結婚して子どもをつくり、幸せな老後を送る。
社会で漠然と共有されている『普通の人生』が、僕を疎外しているのだと思っていた。
けど、違った。
僕を苦しめているのは、僕自身だった。
何も生産せず、寄生虫のように妹の財布にへばりつく僕を、僕自身が許せなかったのだ。
人は、究極的には外部からの攻撃ならば耐えられる。しかし、内部からの攻撃にはどう耐えよう? 自分の頬を自分で打つだなんて、狂人の所業でしかない。
だからこそ、和解せねばならなかった。でも、断罪者はニートである僕を許しやしなかった。
人はパンのみにて生きるにあらず。十字架に張り付けられた彼はそう言った。全く正しいと思う。人には、衣食住だけでは到底満たすことができない、尊厳みたいなものがあるのだ。そしてその尊厳は、社会に参加し、与えられた役割の中で誠実を尽くすことによって、露の一滴だけをようやく得られる。
やるべきことはわかっている。わかっては、いるのだ。
「決めたわ。あなたへの借りの返し方」
迷いを断ち切るような強い声。しかし、その勇健な声音とは対照的に――優しい笑顔がそこにあった。
不思議な笑みだった。
たとえるなら、押し入れの中にしまっていたおもちゃ箱から、昔ベッドで眠る前に抱きしめていた人形を見つけたような。
「私は、武井くんのニート脱出の手助けをする」
提示された回答はあまりに斜め上であった。あまりに斜め上だったものだから、虚を突かれ、「アッ、ハイ」と機械的に首肯してしまった。
「決まりね。それじゃ――」
「いやいややっぱ、やっぱり、ちょ、ちょっと待った!」
両手を突き出し、ブンブンと振る。
待て待て待て待て。今、OLさんは何て言った? 僕のニート脱出の手助けをするだって? 勘弁してくれ。有難迷惑どころじゃない。大迷惑だ!
「いいいい、いや、あ、あありがたい、申し出では、ありますが、自分のペースでやりたいといいますか……」
「自分のペースでやった結果が今なんでしょう?」
ぐっ!
「で、で、でも、僕は、つい最近、ひき、ひきこもりを脱出しました。だから、に、ニート脱出も、近いうちに……」
「今までひきこもっていた人が、とんとん拍子でニートを脱出できるとでも? 小さな成功体験を都合よく解釈しすぎじゃないかしら」
うぐぐぐっっ!
くそ……さっきから正論ばっかり言いやがって。ふざけるなよ! 何も言い返せないじゃないか!
「武井くんは自分に甘すぎるのよ。そして多分、まわりの人たちも優しすぎる。今のあなたに必要なのは優しさじゃなくて厳しさよ」
「……す、スパルタ反対」
「あのね、苦しいのも痛いのも嫌、でも変わりたい。そんな贅沢な願い、神さまにだって叶えられやしないわよ。いい? 変わるためには、身を削る覚悟が必要なの」
身を削る覚悟。そう言った時のOLさんには、社会の荒波にもまれてきた人だけが有する妙な説得力があって、口ごもってしまう。
「武井くんは変わりたいの? それとも、今のままでいたいの?」
正論の刺し傷による出血多量で死んでしまいそうな僕に、最後通牒が突きつけられる。
武井ヒロシは本当に変わりたいのか、それとも、ただの皮相な頑張っているアピールなのか。
「本当に変わりたいと思うのなら、この手を握って。強制はしない。決めるのは武井くん自身よ」
差し出される手。
それは地獄に垂れ込む救いの糸か、それとも地獄へ引きずり込む災いの糸か。
この『糸』を、僕は持つべきなのか。
……。
頬に残っているであろう涙の跡を、上着の袖で掻き消す。雑に張り付けられたガーゼも一緒にこすってしまい、ひりつくような痛みが残る。
けれど、これから進むであろう道には、こんな痛みとは比にならない痛みが待ち受けている。
……。
僕は、ニートだ。
ひきこもりは卒業できた。
けれど、ひきこもりとニートとでは、卒業の難易度は全く異なる。
目の前にそびえ立つ険しい山脈を、たったひとりで登りきれるのか。休むことなく、引き返すことなく、山頂を見上げ、一歩一歩前進できるのか。
僕は、そんなに強い人間なのか。
……。
成長とは、己の弱さを自覚することから始まる。
認めよう。
僕は弱い。それも、とんでもなく。
身体こそ大人だが、精神的にはまだ赤ん坊だ。そして赤ん坊は、誰かの手を借りなければ、ひとりで立つことすらできず、生きていくこともできない。現に、僕は「ひとりの方がずっとマシさ」とうそぶく一方で、ひとりの力で生きていない。
ならば、どうするべきか。
……。
後、数時間もすれば、この街は動き出す。大勢の人が、社会の一員として動き出す。その中で、僕はどうするべきか。
……。
頬の痛みは、もう気にならなくなっていた。
「……もう、寝覚めのいい毎日にはウンザリなんです」
僕は握り締める、眼前に垂れ込む糸を。
思いのほか小さくて温かい、その糸を。