第四話
「へぇ、思ったよりも片付いてるのね。ひきこもりの部屋って、もっとゴチャゴチャしていると思ってたのに」
大家さんは部屋を一望しながら(そもそも一望出来るほどの広さしかない)興味深そうに言った。
それは違いますよ、と心の中で反論する。
ひきこもりの部屋が汚いというのは大きな偏見だった。何も、世にいる我が同士の部屋全てが散らかっているわけじゃない。簡素な部屋のひきこもりだって、決して少数派ではない。
それに、彼らの部屋は汚いんじゃなくて単純にモノが多いのだ。収納スペースが限られているのに、モノだけはどんどんと増えていくから、自然と居住スペースが狭まり、見栄えが悪くなってしまう。
僕みたいな一人暮らしのひきこもりならともかく、実家暮らしのひきこもりはそこのところかなり切実と聞く。同じひきこもりとして、同情を禁じ得ないよ。
まあとにかく、全国のひきこもりたちの名誉のためにも、ここは強く擁護させてもらいました。
「だけど、ひきこもりって本当にすることがないのね」
大家さんが、からかうような口調で言う。
なんとなく嫌な予感がして視線を移すと、大家さんはちょうど何かを覗き込んでいるところだった。
何を見ているのだろうか。彼女の小さな背中越しに、それを伺い見る。
ゴミ箱だった。長年使用している、なんの変哲もないゴミ箱だ。ただひとつ特徴をあげるとするなら、使用済みのティッシュがたんまりと盛り上がってるぐらいで――
「って、ちょ、ちょ、ちょっと、なに、見てるんすかっ」
普段ひきこもっているとは思えない、肉食獣も惚れ惚れするような俊敏さでゴミ箱に飛びつき、素早くビニール袋の口を閉めた。この間、僅か十秒にも満たないだろう。火事場の馬鹿力というやつだ。
畜生、と心の中で吐き捨てる。
部屋に誰かを招くなんて事態、ひきこもりは想定していない。完全に油断していた。
「ちちち、ち違いま、すかかか、ら。はな、鼻を、か、かむのにつつ、使っ、たティッシュ、で、ですから。け、決して、い、い、いかがわしい、目的、で使っ、った、て、ティッ、シュでは……」
性生活の断片を見られた羞恥に歯噛みする僕とは対照的に「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫よう」と大家さんがニヤニヤしながらしながら言った。
「たとえヒロシが毎夜毎夜お姉ちゃんとの夜伽を夢想しながら事に及んでいたとしても、そりゃ仕方がないものってわけでさ」
してねえよ! と、本日二度目のツッコミ。
くそっ、生ける合法ロリのくせして一体全体なにを言っているのだこの人は。自分の体型を鏡で確認してから言って欲しい。特に、その断崖絶壁な胸とかを。
そもそも、僕にロリ属性はない。
たしかに、大家さんはなかなか可愛らしい容姿をしているし、十二分に人目を惹くかもしれない。が、それはあくまで愛玩動物的な可愛さであって、性的な魅力とは丸きり無縁だ。
なので、僕からしたら大家さんのツルペタボディとか実にどうでもいい。ぺったんこでスベスベしてそうな胸とか、形の良さそうな小ぶりのお尻とか、実にどうでもいい。ほ、本当なんだからねっ!
と、ひとり身悶えていたのだが、大家さん的には今のやりとりはもう終わったことなのか、いつの間にか勝手にコタツの中に入り込んでいた。
ふぃー、と湯に浸かったおっさんのような声を出して、猫みたく丸まっている。
「やっぱ冬はおこたよねー。あたしもストーブやめてコタツにしよっかな」
卓上に頭を乗せて、そんなことを訊ねてきた。とりあえず質問を無視して、邪魔そうにしていたノートパソコンをどかしてやった。ありがとう、と大家さんは礼を言う。
「ど、どっちでも、いいんじゃ、ないですか? ストーブも、コタツも、か、変わらない」
「いんや、それがけっこう変わるのよ。ほら、コタツは一極集中だから部屋全体は温められないでしょ? けど、ストーブ使ってる部屋全体が暖かいから、布団を出るのが億劫になりにくいの。それに停電の時にも使えるから非常事態の時には大活躍だし。でもなー。燃料代がなー。維持費の面で見ると色々違ってくるし、他にも細かな相違点があるのよねー。けどなー、あたしはやっぱりストーブかなー。なんていうか、コタツだときちんと暖まったって気がしないのよね。実際、外に出てる上半身はどうしても寒くなっちゃうし。それに、お姉ちゃんはいつもストーブの上にヤカン乗せて――あっ」
そこで大家さんはハッと顔を上げた。
「そうだよ。なにか足りないなって思ってたら、梅昆布茶だ。今のあたしたちには梅昆布茶が足りないよ」
コタツから出て立ち上がると、
「よし、ヒロシ。今からお姉ちゃんがお茶の用意をしてあげるからね。おこたで待ってなさい。茶筒と急須はどこに置いてあるの?」
「な、ない、ですよ。そんなもの」
「え?」
「え?」
「……またまたー。梅昆布茶を置いてない家庭なんてあるわけないじゃない。冗談はいいからさ、ほら、早く教えてよ」
「だっ、だから、本当に、ない」
「……あのさ。それ、嘘とか冗談とかじゃなくて、本気で言ってるの?」
「そうですよ。う、家に、梅昆布茶なんて、ないです。ち、茶筒とか、急須とかも、ない」
「…………」
「あっ、あの、お、大家さん?」
「ええええええええええぇぇぇぇぇぇ!」
大絶叫した。近所迷惑とか、そういうのは全く考慮していない、あまりにも純粋な驚き。見たところ、いつものふざけた演技の類ではないようで、正真正銘、心の底から驚愕していた。
当然、僕は混乱する。
えっ、なになにこの反応。ただ梅昆布茶がないってだけなのに、どうしてここまで驚かれる? 梅昆布茶って、そんなに普遍的かつ一般的な飲み物だったのか? 寡聞にして聞いたことがないぞ。
まだショックが抜けきらないのか、茫然自失とした表情で、大家さんはぼそぼそと呟いている。
「そうよね……ヒロシは、ひきこもりだもんね。常識とか、マナーとか、そういうのを知らなくても無理ないよね……。うん、そうだよ。そういうのを含めて、これからあたしが教えていかなくちゃ……」
いやいやいやいや。いくら僕がひきこもりだからって、梅昆布茶如きで常識とかマナーとかを疑われたくない。
というか、大家さんはまるで梅昆布茶が米やパン等の主食、いや、それ以上の必須食品みたいに言っているが、明らかにそれはおかしい。梅昆布茶常備派の方が絶対にマイノリティだ。いくら長年ひきこもっているといえ、それくらいの想像はつく。
ヒロシ、と大家さんは憐憫の情を織り交ぜた瞳で見てくる。止めろ、そんな目で僕を見るな。
「お姉ちゃん、今から部屋に戻って梅昆布茶を持ってくるから、先にお湯を沸かしといてちょうだい」
これからお産に取りかかる産婆のような切実さでそう言うと、返答を待たないうちに大急ぎで部屋に戻って行った。
どうやら、拒否権はないらしい。別に梅昆布茶とかどうでもいいんだけどな……。
ぽりぽりと頬を掻く。
仕方がない。不承不承ではあるが、言われた通りの準備をしよう。
台所へ向かい、棚から底の焦げたヤカンを取り出して、水道水を入れてから火にかける。
大家さんの並ならぬ梅昆布茶への情熱を見る限り「どうしてミネラルウォーターじゃないのっ!」とか言われそうな気がしたけど、そんな上等なもの置いていないのでスルー。
そのままコンロの火で暖をとっていると、大家さんが戻ってきた。
茶飲み道具一式を乗せた盆を持って、ふらふらと危なっかしい動きで台所に置く。はかったようなタイミングで、ヤカンもピーと鳴いた。
ヒロシはもう座ってて大丈夫よ、と言われたので、温かいコタツへ戻り、大家さんがお茶の用意をする姿をぼんやりと眺める。
慣れているのだろう、彼女は非常に手際よく準備した。ヤカンの熱湯を急須に注ぎ、茶筒から角切り昆布を適量入れる。すると、梅昆布茶の香りがこちらまで漂ってきた。
そして、またもや危なっかしい足どりで盆をコタツまで持ってくると、ファンシーな紅白セットの湯のみに、湯気の上る液体を注いだ。赤い方を自分の方に、白い方を僕に差し出す。
よっこらせ、と大家さんもコタツの中に入り、しばらくのあいだ愛おしそうに湯のみを撫でてから、梅昆布茶に口をつける。
「へはー」
そのままとろけてしまいそうな表情を浮かべて、コクコクと頷く。
「緑茶、紅茶、烏龍茶、と世の中には沢山のお茶があるけれども、やっぱり一番は梅昆布茶よね。これだけは譲れないわ。ヒロシも、そう思うよね?」
同意を求めてきたので、適当に頷いておく。ちなみに、僕はまだ手をつけていない。猫舌なのだ。
それからは沈黙だった。お互いに話題も尽きたため、箸休めのような静謐の中にいた。
心地の良い沈黙、という言葉を小説などで目にするが、こと僕に関してはそんな素晴らしい沈黙は持ち合わせていない。沈黙はただ気まずいだけだった。
唯一の救いといえば、大家さんが僕の無言に慣れていることだろう。今更、僕からの話題投下など期待していないはずだ。
「あのさ」
案の定、沈黙を破ったのは彼女だった。
「そろそろ、聞いてもいいかな?」
先程のおちゃらけた態度はどこへいったのか、やけに神妙な顔をするので、自然と身構えてしまう。なにやら胸騒ぎがする。ゴクリ、と生唾を飲んで、問い返す。
「な、なにを、ですか?」
「そのヒッドイ顔について」
大家さんの質問は、ナイフのように深く冷たく、僕の胸へと突き刺さった。
一瞬、呼吸が止まる。大家さんが気づいていたのは、部屋へ招き入れた時の表情から推測できていた。でも、彼女なら訊かないだろうと勝手に期待していた。とんだ見当違いだった。まさか、ここまでストレートに訊いてくるなんて。
「ひ、ひどいのは、もとからですよ」
これ以上は踏み込まないでください。
言葉の裏に潜む意図を察してもらえるよう、わざとらしく誤魔化した。
「違う違う。あたしが言ってるのは容姿云々とかじゃなくってさ。そのお饅頭みたいに膨らんだ、痛々しい顔についてだよ」
しかし、大家さんは容赦なかった。
「……このまえ、へ、部屋、で、転んだんすよ」
「転んだ? 一体どういう転び方をすれば、そんな綺麗にほっぺたが腫れるのよ。少なくとも、あたしには誰かに殴られて出来たものにしか見えないけど」
「…………」
「よかったら、聞かせてくれない? ここ最近のヒロシに、何があったのか」
冷や汗が一筋、頬を伝い、顎に雫をつくる。
脳内で再生されているのは、三日前の夜のこと。あの愚かしく、チンケな冒険譚。
人によっては、あれを喜劇だと捉えるかもしれない。だが、少なくとも僕にとっては悲劇でしかない。園児の学芸会よりも幼稚で、残飯を貪るハイエナよりも醜悪な、ただのつまらないお話。
――あれをもう一度、話せと言うのか。
いつの間にか握り締めていた拳が、膝の上でぷるぷると震える。
「ごめん、踏み込みすぎた」
大家さんの対応は早かった。僕の発するただならぬ嫌悪を即座に嗅ぎ取り、深々と頭を下げる。
「別に、ヒロシを傷つけたいわけじゃなかったの。けど、結果的には同じになっちゃったね。これじゃあ、尋問と何も変わらない。今の質問は、もう忘れて」
そう言って、気まずそうに目を伏せた。
僕も俯いて、梅昆布茶に映る自分を見つめた。
わかっていた。大家さんがなぜ、話を聞き出そうとしているのか。それは、僕の力になりたいからだ。
誰かに殴られた痕を見つけ、それを黙って見過ごせる人でないことは、僕も十分に知っている。彼女のおせっかいな優しさに、過去の傷ついた僕は救われたのだから。
だけど、それでも、大家さんがなんと言おうとも、僕に話す気はなかった。
苦い思い出を共有したところで、何が変わるというのか。僕が嫌な気持ちになって、大家さんも嫌な気持ちになる。嫌な気持ちがが二倍になる。そんなの無益じゃないか。それなら、僕のところで留めておいた方が生産的だろう。
それに、己の醜態をおおっぴらに語れるほど、自虐的で卑屈な人間ではない。だから、あの事件は墓まで持っていく。そう決めていたのだ。
――そう、決めていたのに。
「……み、三日前、な、なんです」
僕の口は、動いていた。自らの意志とは関係なく、感情とも関係なく、淡々と動き出していた。
梅昆布茶に映る僕は、目を点にしている。
なにをしているんだ。どうして、こうも容易に事を打ち明けているのだ。理解できない。心変わり早過ぎだろ。意味不明。
もういい。どうにでもなれ。
説明は、ひどいものだった。
話は飛び飛びだし、すぐ脇道に逸れるし、補足とかのフォローもないし、聞き手からしたら、たまったものではないだろう。僕が拝聴者なら、もうすでに席を立っている。
けれど、大家さんは辛抱強く聞いてくれた。口を挟まず、相槌も打たず、真摯な態度で聞いてくれた。
話す側として、その態度はありがたかった。下手に横槍を入れられでもしたら、錯乱してしまうからだ。おかげで、割と感情も抑えて話せたと思う。
話を終えた頃には、時計の長針は一周していた。
なんだか、ひどく疲れた。長時間喋り続けていたせいか、気付かぬ間に喉がカラカラに渇いている。
喉を潤すため、既に冷たくなった湯飲みを手に持ち、飲み干した。口内にしょっぱい味が広がる。
そして、否が応でも気づかされる――自分がちっともスッキリしていないことに。
洗いざらい話してしまえば、楽になれるかもしれない。そんな期待を抱いていた。なのに、結果はご覧の有り様だった。
ふつふつと怒りが込み上げていく。
なんだよ、何も変わってないじゃないか。こんな結果になるなら、話さなきゃよかった。これじゃあ、いたずらに心を毀損しただけだ。イライラする。なにもかも、無理やり話を聞きだしてきた大家さんのせいだ。
恨みの対象を睨みつける。
彼女はうつむいていたので、栗色の髪に隠れて表情は見えなかった。おそらく、僕を慰める言葉でも探している最中なのだろう。
「な、何もかも、無駄だったんですよ」
機先を制するために、皮肉たっぷりに言葉を投げかける。
「大家さんは、か、勘違いしているかもしれませんが、ぼ、僕は、あの二人組には感謝してい、るんです。変な勘違いを、し、してしまうのを未然に防いでくれた、んですから。今以上に傷つかなくて、済んだ」
こんな時だけは饒舌になるんだな、と自嘲する。
「それに、こっ、今回の出来事を通して、た、大切なことを、学べました。人が、本質的に変わるのは不可能という、じっじ、事実です。どんなに努力をしたって、ひきこもりは、ひひ、ひきこもりのままなんです」
じわり、と視界が歪む。泣くなよ、こんなことぐらいで。どんだけメンタル弱いんだ僕は。死ねよ。
「僕は……僕は一生、このままなんです」
その言葉を最後に、室内を支配するのは、深沈とした空気。
洟をすする。情けない。このまま消えてなくなりたい。本気でそう思った。
溜め込んでいた涙がこぼれ落ちそうだったので、慌てて袖で目元を拭う。これ以上、惨めなところは見せたくなかった。
「ヒロシ」
大家さんが顔をあげて、僕の名前を呼んだ。
やめてください。今はなにも言わないでください。ほっといてください。帰ってください。
思念を飛ばすが、彼女の口は迷わず動きだす。
聞きたくない。
そう思って、背ぐくまったのだが、
「ごめん。ヒロシの言ってること、お姉ちゃんぜんっぜんわからなかった」
てへっ。ペロリと舌を出して、イタズラが見つかった子供のような顔で謝る大家さん。
……。
…………。
………………ええー。
バイバイ、シリアスな空気。よろしく、なんとも言えない微妙な白けさ。いや、ほんと空気が読めないってレベルじゃないぞ。
なんてゆーかなー、と大家さんは困惑したように顎に手を添えている。
「下手な比喩になるけどさ、あるところに足が遅いと嘆く陸上選手がいるとするじゃない。で、実際にタイムをはかってみたら、なんと百メートル九秒台だったの。周りの人たちはタイムを見せて、いかに走者の足が速いのかを説明するんだけど、彼はそれをただの慰めとしか受け取らない。相変わらず自分は足が遅いと嘆き続けるだけ。まあ、そんな感じかね」
大家さんは名探偵よろしく人差し指を突きつけると、
「ヒロシ。アンタ、もう変われてるよ」
裁判官のように、高らかと宣告を下した。
「…………」
呆気にとられてしまい、しばらく何も言えなかった。大家さんの言ってることを脳内で吟味し、ようやく意味を理解した後、鼻で笑う。
なにを言うかと思えば、くだらない。
「僕が、も、もう変われてる、ですか。ハッ、どっどうせ大家さんは、僕が外に出たことを、あのOLさんを、たったた、助けようと二人組に立ち向かったことを、へ、変化などと呼ぼうとしたん、でしょう? ちっ。違いますよ、それ。あんなのは断じて、せい、成長なんかじゃない。だから、適当なこと言わないでください。意味のない慰めや賞賛が、ぎゃ、逆効果だってのは、大家さんだってわかっているでしょう」
「わかってるよ。分別はわきまえてる。それをわきまえたうえで、あたしは変わったって言っているんだよ」
「なら、証拠を見せ、てくださいよ。ぼ、僕がが、変わったっていう証拠を」
大家さんは首をかしげた後、黙って自分のことを指さした。
「えーと、証拠はあたし、としか言いようがないかな」
「わっわ、わけがわかりませんよ。言葉遊びは、よしてください。僕は変わってないし、これか、かっからも変わらない。それで、いいでしょう。屁理屈をこねるのは、やめてください」
「じゃあ、どうしてあたしはここに居るの?」
それは、意表を突く一言だった。自分の気付かぬ、もう一つの視点を指摘された時の驚き。まるで、だまし絵を見ているような気分だった。
そうだよ、どうして大家さんは、ここに居る? どうして、僕の部屋に居るんだ?
「なんだかんだでヒロシとも長年の付き合いになるけどさ、部屋に入れてもらうのは今日が初めてだよ。……なんて言えばいいのかな、重ね重ね下手なたとえになるけれど、ヒロシにとってこの部屋は、何人たりとも足を踏み入れてはならない、聖域みたいな場所だったじゃない? だから、ドアを開けて中に入れてくれた時は、驚いて動けなかったよ。半ば冗談で言ったつもりだったのに、本当に入れてくれるんだもん」
まっ、その特殊メイクみたいな顔にも驚いたけどね、と彼女は付け足した。
大家さんの言う通りだった。
僕にとってこの部屋は、言わば核シェルター。越えられてはならない最終防衛ライン。今までだって、ほとんど人は入れたことはない。なのに、どうして今日はこうも簡単に――
「とどのつまり、社会で最も必要なのって、コミュニケーション能力なのよ」
大家さんは続ける。
「けど、コミュニケーション能力ってのは、誰しもが最初から兼ね備えている訳じゃない。あれは他者と交流して培ってくものだからね。ヒロシも無意識下にそれを理解している。 だから、あたしを入れた。人嫌いな自分を殺して、他者と交わろうとした。コミュニケーション能力を得るために。社会に適応するために。こういうのをさ、人は成長って呼ぶんじゃないの?」
成長。その言葉が、ストンと僕の中に落ちる。
「これは推測だけど、変わろうとした動機は、単純に悔しかったからじゃないかな。臆病なヒロシが珍しくキレたっていうし、散々自分をバカにしたアイツらを見返してやりたいって心底思ったんだよ。僕はお前らが言うようなひきこもりニートじゃないぞ、ってね」
言われてみれば、あの時は自分らしからぬ憤怒だった。通常の僕ならば、泣いて逃げ出しているというのに。逃げるどころか、悪漢二人組に立ち向かっていった。
「たしかに、小さいよ。顕微鏡で見なきゃ視認できないほどの進化かもしれない。けどさ、三日前の事件を通して、自分の足で一歩進んだってのは、紛れもない事実だよ」
大家さんは慈愛に満ちた表情で、柔らかく微笑みかけた。
「今回は、いつもと違う。覚悟さえすれば、この生活から抜け出せる。大丈夫、このあたしが保証する」
一際強く、心臓が鼓動する。
本当に、脱却できるのか。この生きてるか死んでるかわからない腐った生活から、抜け出せるのか。証文の出し遅れには、ならないのか。
「大家さん」
「んっ?」
「僕は、変われるのでしょうか」
「変われるよ」
きっぱり、断言してくれた。その力強さが、頼もしかった。
「……変われるよ」
不意に遠い目をして、大家さんが言う。
「あたしが変われたんだもん。ヒロシだって、絶対に変われる」
昔日を、思い出しているのだろう。僕と大家さんが出会った、最初の頃を。
けど、
「大家さんの時とは、違うじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね」
痛いところ突くなあ、と困ったように呟く。
「けどさ、ひとりの人間が変わったってとこは一緒なんだから、参考くらいにはなるんじゃね?」
うわっ、超適当。いかにも大家さんらしい言い草だった。
「しかーし、老婆心ながらアドバイスさせてもらうと、ヒロシはちょっと急ぎすぎかな。今までずっとひきこもってきたんだから、もっとじっくりコトコトいかなきゃだよ。あたしのお爺ちゃんもよく言ってたよ『人生に、抜け道あれども近道なし』ってね。あたしたちみたいな凡人に抜け道なんて見つけられるはずないんだからさ、地道にゆくしかないのですよ。だからさ」
大家さんはいきなり立ち上がったかと思うと、
「まずは、お姉ちゃんと仲良くなることから始めようぜ」
可愛らしくウインクした。
「…………」
しばしの無言の後、僕はがっくりとうなだれた。
これまで長ったらしく垂れてきた講釈の意味が、今わかった。要は、これが言いたかっただけなのだ、大家さんは。
冷静になって振り返ってみると、大家さんの言っていることは勝手なこじつけばかりで遺漏も多い。論理的に破綻しているところも少なくない。いわば、勢いに任せた演説なのだ。
あーあー。つくづくちゃらんぽらん言いやがって。アホらしいったらありゃしない。
「あのですね」
調子に乗ってる彼女に釘を刺すために、反論しようと口を開きかける。
が、大家さんの太陽よりも明るい、天衣無縫な笑みを見ていると、なんだかそんなの全部どうでもよくなってきて、なんとなく可笑しくなってしまって、
「……く、くくくっ」
そして、僕は、本当に、本当に久しぶりに、ほんのちょびっとだったけど、
「はっ、ははははっ」
心の底から、笑ったのだった。
明日も仕事があるから、そう言い残して、大家さんは自分の部屋へ帰って行った。
彼女は僕と違って、舞台側の人間だった。無味乾燥とした戦場で、どのような時を過ごしているのかはよく知らない。だが、きっとそれは、死にたくなるほど辛いものなのだろう。尊敬に値する。
同時に、僕も再びあの舞台へのぼれるのだろうか、という漠然とした不安が胸を曇らせた。
でも、今になって憂いても仕方がない。大家さんの言葉を額面通りに受けとるのなら、僕はもう進んでしまっているのだ。後戻りは出来ない。
――しかし、アレはなんだったのだろう。
大家さんとの、最後のやりとりを思い出す。
「ところで、ヒロシ。アンタをボコボコにした二人組の男って、どんなヤツらだった?」
玄関で突っ掛けを引っかけながら、大家さんが何気ない口調で訊ねてきた。
「ど、どんなヤツらって……それを聞いてどうするんですか?」
「別に、ただの興味本位」
別に、話しても問題ないことではあった。多少、嫌な気持ちにはなるものの、それを一種の成長痛と捉えることもできる。
――だけど。
僕は結局、話さなかった。理由は自分でもよくわからない
ただ――いつもは少女のようにあどけない表情をしている大家さんが、ひどく冷たい表情をしていたせいかもしれない。いつもはストレート過ぎるほど自身の感情を露わにするのに、その時ばかりは、分厚い仮面で顔を覆っていたため、彼女の真意が読み取れなかったのだ。
「わかった」
と言いつつも、大家さんはやや不満そうだった。煮え切らない様子で部屋へ戻って行く姿を見て、選択肢を間違えたのではないかと不安になった。
じんわりと、殴られた頬の痛みを感じた。
さて、と。
自分の心に区切りをつけるように、ドアの鍵を閉めた。
コタツへ戻り、寝っ転がって、しばらく電灯の光を眺めた。
急に、部屋が静かになった。祭りの後のような、ノスタルジックな郷愁に襲われる。
しかし、僕にはこういう空気のほうが合っていた。昔から、独りを好む男だったのだ。この孤独を愛する気性だけは、未来永劫変わることはないのかもしれない。大家さんといるのは(彼女には悪いが)やっぱり疲れる。
時計を見る。現在の時刻は午前二時。僕の一日は、まだ始まったばかりだ。
エロゲでもするかな。そう思って、スリープ状態で待機していたノートパソコンを開く。
不意打ちをくらった。
僕は、反射的に目を閉じる。幾分か良い方向に向かっていた気分が、一気に吹き飛ぶ。
忘れていた。たとえるなら、夏休み最終日にやり残していた宿題を見つけてしまったような気持ち。面倒事を後回しにしてきたツケを払う際の、過去の自分への恨みに歯を食いしばる。
見なかったことにしたい。このままパソコンをシャットダウンしたい。けど、そんなことしたって意味がないのはわかっている。
なら、向き合おう。
おそるおそる目を開ける。ディスプレイにうつる文字を確認。新着メールが一件。ノートパソコンは無機質に、メールの受信を知らせている。
僕は震える指でカーソルを動かし、メールの本文を開いた。
『明後日、午前一時に伺います』
メールの内容は普段の彼女らしく、簡素で洗練された文体だった。
差出人には、武井涼子の四文字。
届いたメールは、僕の妹からだった。