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第二話

 異変が起きたのは、コンビニまで後五分というところだった。

 二つ先の街灯の下に、三人の人間が照らされていた。それを見て、反射的に近くの電柱に身を潜める。一難去ってまた一難。どうして神様は僕を無事にコンビニまで向かわせてくれないのだろうか。お前はひきこもりニートがお似合いだという思し召しなのだろうか。

 頼むから、さっさとどこかへ行ってくれ。必死に念を送りながら、こっそり前方を伺う。

「なあ、いいじゃんかよ」

 耳に届いたのは、甲高い男の声だった。閑静な住宅街だけあって、声は明瞭に聞こえてくる。

「勘違いしないで欲しいんだけどさ、俺らはあくまで善意で言ってるんだって。やましいことなんて、何も考えちゃいないからさ」

 前方にいる三人組は、男性二人に女性一人の構成だった。男性二人が女性と向き合うようにして立っている。

 男性の方は、背が高いのが一人に低いのが一人。両方とも髪を明るい色に染めていて、耳にはピアスがジャラジャラとついていた。穿った見方かもしれないが、軽佻浮薄の四文字が最も似合いそうな二人である。

 対する女性の方は、こちらに背を向けて立っているので、顔や表情まではわからなかった。長い髪をひとつに結んでいて、暗い色のスーツを着ている。何故かコートを羽織っていないので、見ているこっちが寒くなりそうな格好だった。

「やめてくだあさい」

 と、聞こえてきたのは女性の声だ。が、どうにも様子がおかしい。なんていうか、舌っ足らずというか呂律が回っていないというか、とにかく変だ。

 見れば、OLさんはフラフラと左右に揺れていて重心が定まっていない。もしかして、酔っているのか……?

「いいじゃん、いいじゃん。ちょっと俺の家で休むだけだって。ほら。ここら辺、最近物騒だって聞くし? そんな危ない中を、酔ってる女の子が一人で歩いてちゃさ、俺らも心配になるってわけ」

 お前らのほうがよっぽど危ないよ、と心の中でツッコみを入れる。というか、背の高い男の方が甲高い声の持ち主だったのか。

 だいたい状況が掴めてきたぞ。

 泥酔したOLさんが不用心に一人で歩いていたところを、二人組の男が目敏く発見。そして自分たちの部屋、もしくはホテルへ連れ込もうと目論んでいるらしい。

「それにしても寒いな。身体も冷えてきたし、さっさと行こうぜ」

 そう言いながら、背の低い男がOLさんの肩に手をかけた。しかし身長が足りていないので、見ようによっては子供が大人にぶら下がっているようにも見える。

 しかし男が手をかけた瞬間、OLさんがいきなりその手を振り払い、

「だーかーらー、やめてくらさいって、言ってるでしょうがっ!」

 相変わらず怪しい口調だったけれど、想像していたよりもずっと強い拒絶を示した。

 男たちは狼狽したらしく、女性から一定の距離を置く。ちなみに僕も狼狽していた。急に大声を出すのは心臓に悪いからやめてよ!

 チッ、と背の低い男が舌打ちする。

「うっせえなぁ、いいからさっさと来いって」

 あからさまな拒否反応に腹を立てたのか、男たちはさっきとは打って変わった乱暴な動作で、OLさんを連れて行こうとする。

 あ、ヤバイ。

 ここにきて、自身の身が危ないことに気付く。進路方向によっては、彼らと鉢合わせてしまう可能性があった。見た感じ男たちは苛立ってるし、僕が一部始終を見ていたとわかれば、口封じに暴行をはたらくかもしれない。

 早く、隠れなきゃ。

 だが周辺に視線を動かせども、人が隠れられそうな場所は見当たらない。路上駐車している車すらなかった。

 どうする?

 一か八か、走って逃げるか? でも、ちょっと歩いただけで疲れてしまうような人間が、男二人から逃げおおせられるのか? ダメだ。あっけなく捕まる結末しか見えない。そして、もし捕まったら僕は……。

 恐怖が精神を蝕み、僕はほとんど発狂しかけていた。緊張で喉元が締まり、酸素が欠乏する。そして結局、為すすべなくその場でじっと縮こまることしかできなかった。

 だが、幸運の女神が微笑む。

 ありがたいことに、男たちは僕の潜んでいる電柱とは逆方向に歩いて行った。鉢合わせの可能性はこれで消えた。全ての懸念は杞憂に終わり、ホッと胸をなで下ろす。

 しかし――それでも、喉に刺さった魚の小骨のように、僕の胸をチクチクと突く何かがあった。

「…………」

 そりゃあ、僕だって良心が痛まなかったと言えば嘘になる。

 でも、ひきこもりを卒業したばかりの人間に何ができる? ヒーローよろしく彼らの前に姿を現し、悪事を糾弾するのか? でも、そうすれば僕はどうなる。袋叩き決定だ。

 それに、OLさんに全く落ち度がないわけでもない。

 今回のことは、どう考えてもベロンベロンに酔っているOLさんの不注意によるものだ。厳しい言い方かもしれないが、自業自得である。

 僕に、他人の心配をする余裕はないのだ。何よりも可愛いのは自分である。卑怯者の誹りだって、甘んじて受け入れるさ。けど、僕だけじゃなくて、誰だってそうじゃないか。自分が可愛いんじゃないか。だからこそ僕はひきこもりニートに……。

「やめてっ」

 僕は何もしない。そう決めていた。しかし、今までで一番大きなOLさんの叫び声に、僕の死にかけていたはずの良心が甦った。

 即座に、周囲に視線を動かす。が、人っ子ひとりいない。通りすがりのヒーローが彼女を助けてくれる可能性はない。彼女を助けられるのは、正真正銘、自分一人しかいなかった。

 心臓が有り得ないぐらいの速さで脈を打っている。鼓動は、彼らとの距離が広がっていく度に、速さを増しているようだった。

 本当に、このまま何もせずに、彼らを見送ってしまってもいいのか。どう見ても、OLさんは嫌がっている。これはれっきとした犯罪行為だ。なら、僕には警察へ通報する義務が生じるのではないのか。けど、僕はあいにく携帯電話なんて持ち合わせていない。ひきこもりニートにそんなものは必要ないからだ。なら、交番に行くべきか。だけど、僕は交番の場所なんか知らない。今から探して間に合うだろうか。けど、仮に交番へ行けたところで、僕みたいなひきこもりニートがまともにこの状況を伝えることが出来るのか。いや。おそらく、失笑されて終わりだ。いい年した男が、変なことを口走っていると思われて。それで終わりだ。きっと、そうなる。だって僕、ひきこもりニートだもの。人間のクズだもの。絶対に、無理に決まってる。

「…………」

 結局、何も出来なかった。彼女が連れ去られるのを見届けるだけだった。

 仕方がないよ。

 僕はコミュニケーション不全のダメ人間だから。こうやって外に出歩けるようになったのも、ついさっきの出来事なんだし。いわば、僕は生まれたばかりの小鹿に等しい。悪漢に連れ去られそうな女性を助けるなんて、どだい無理な話だ。レベル一のまま、ひのきのぼうと布の服で魔王に挑むようなものである。

 だから、仕方がないよ。

 それに、最低だと自分を卑下する必要もないんじゃないかな。こうやってOLさんを助けなくてはならないという正義感に駆られてるだけ、僕はまだマシじゃないか。そこらのひきこもりニートが、悪漢相手に正義感を発揮できるだろうか。否。ひきこもりニートというのは、本質的に利己的な存在なのだ。他人の心配なんかするわけないし、利己的でなかったらそもそもひきこもりニートになんかになっていない。僕は他のダメ人間よりも、格段に勝っている。

 そうだよ。逃げ出さないで、辛い現実から目を逸らさないでいるだけ、僕はまだカッコイイじゃないか。普通のニートにこんなことできるか? できやしないよ。僕は少なくとも、ただのニートではない。スーパーニートだ。

 だから、いいんだ。別に、立ち向かわなくたっていいんだよ。

 こぼれでる、自嘲の笑み。

 僕がそのまま、マイナスの感情に身を委ねてしまおうと思った時だった。

 声が聞こえた。

「誰か、助けて」

 それは、決して大きい声ではなかった。だが、その小さな声が僕の鼓膜を震わせ、脳を揺さぶった。

 フラッシュバックするセピア色の光景。

 夕日に照らされている、一人の女子。普段は凛と見開かれている瞳が、涙で頼りなく光っている。そして、今にも泣きだしてしまいそうな顔で、見えない何かに耐えるように拳を強く握りしめながら、彼女は誰にでもなく呟くのだ。

 ――誰か、助けて。

「ああああ、あっの、少し、よろしいでしょうか?」

 突然だった。

 噛みまくりの情けない声が、急に聞こえだした。

 誰だ? こんな聞くに耐えないような不快な声を出すのは。

「誰だよ、お前」

 いつの間にか、僕の目の前に背の高い男の顔があった。

 あれ? どうして、こんな近くに男の顔があるのだろう? さっきまでは、あんなに遠くにあったのに。

 僕はそこで、自分の息が途切れ途切れで苦しいことに気づいた。そうか。僕はいつの間にか、男たちのすぐ近くまで駆け出していたのか。

「だから、何のようなんだって聞いてんだろ」

 背の低い方が、肩を軽く小突いてきた。

「ひっ」

 たったそれだけのことで、僕は情けない声を出して、その場にペタンと尻餅をついた。男たちはキョトンとした顔でそれを見た後、ゲラゲラと下品に笑った。

「おいおい、なんだよ。ちょいと触っただけじゃねぇか。何をそんなにビビってんだよ」

 頭の整理が追いつかない。羞恥心と恐怖心で顔が赤くなる。

 くそっ、何をやっているんだ僕は。傍観するって決めたじゃないか。なのに、なんでノコノコとコイツらの前に駆けつけているんだ。正義の味方にでもなったつもりなのかよ。

 立ち上がって、汚れたズボンをはたく。

 ええい、ままよ。

「いいい、いや、嫌がっつるじゃあないですか、その人」

 半ばやけくそになり、男たちに向かって非難の声を上げる。僕が何のために現れたのかを知り、彼らの顔色が変わった。

「テメェには関係ねぇだろ」

「けけけっ、ど、それってはは犯罪になりますよね。女の人、いややがってるし」

「だからなんだってんだよ」

「たとえ、たとえですよ。仮にぼぼ僕が、なにもしなくたって、その女の人が、後ほど、けけ警察に通報したりするんじゃああありませんか?」

 自ら矛を収めてもらえるなら、それが一番だ。穏便に事を済ませようと、まずは説得を始める。

 だが、

「ああ、それについては問題ねえよ」

 下卑た笑みを浮かべて、背の高い男はあっけらかんと言った。

「ハメ撮り写真でも撮って、ばら撒くぞって脅せば、女なんて何も言わないからさ、実際。心底わかってんだよ。警察に行って一生の恥かくよりも、たった一夜の過ちを悔やんだほうが割に合うってな」

 目眩がした。視界が回って、足元もふらついた。

 ダメだ。コイツら、下手したら僕以上のクズだ。このような悪事を働くのが初めてではないことが、今の物言いで判明した。

「でででで、でもですねえ」

 正義のヒーローなら、ここで迷わず鉄拳制裁なのだろうけど、非力な僕にはただ説得を続けることしかできない。

「ああ、もうウッゼェ。さっきからネチネチとうるせぇんだよ」

 いつまでも突っかかってくる僕に痺れを切らしたのか、背の低い方が顔を殴ってきた。

「ぶっ」

 殴られた勢いで、地面に倒れこむ。アスファルトの道路にモロに顔をぶつけ、頬が擦り切れる。遅れてやってくる痛み。

 痛い。恐い。痛い。恐い。

 ダンゴムシのように丸まって、ガタガタと震えた。口内で血の味が広がっていく。

「んー?」

 そんな僕の情けない所作に疑問を感じたのか、背の低い方がボソリと呟く。

「お前って、もしかしてひきこもりか何か?」

 ビクリと大きく身体を震せる。ひきこもりという単語への脊髄反射だ。顔を上げると、頭上では我が意を得たりと背の低い男がニヤリと笑っている。

「おいおい、マジでヒッキーなのかよ、コイツ。えっ? なんですか? 今までずっと、社会の底辺が俺らに口を出していたってわけですか?」

 なんで、なんで、なんで、なんで。

 なんで僕がひきこもりニートだってことがバレたんだ。顔か、体格か、それとも雰囲気か。

 この瞬間、あやふやになっていた優劣関係が硬固たるものへと変化した。

「ふーん、ひきこもりねぇ」

 背の高い男も、これまで以上にバカにするような目で、僕のことを見下ろす。

「ひきこもりとか、社会のゴミじゃねぇか。ゴミがなに偉そうに人様に説教してんだよっ」

 そのまま、僕の腹を蹴る。内側からの圧迫感により吐き気が込み上げてくる。慌てて口を塞ぎ胃液を飲みこむ。

「その通りだな。ヒッキーはヒッキーらしく、じめじめと岩の下で暮らしてりゃあいいんだよっ」

 背の低い男は、顔を蹴った。唾液と血が混じったものが、口から流れ出て道路を汚した。

「ていうか、いっそ死んじまえよ」

「そうだそうだ。さっさと死ね。社会のクズが」

 容赦なく降り注ぐ、存在を否定する声。あくまで自虐として、自身の存在を否定することは日常茶飯事だ。だが、他人から否定されるの久しぶりのことだった。

「死んじまえ」

「死んじまえ」

 サラウンドに聞こえてくる、死を求める声。

 不思議な気持ちだった。普段、自分で自己の存在を否定していると、坂を転がり落ちるように気分も落ちていくものだ。

 けれど、他人に自分の存在を否定されていると――

 僕はゆらりと幽鬼のように立ち上がって、目の前の男たちを見据えた。

 僕の視界は真っ赤に染まっていた。この感情は、久しぶりだ。久しぶり過ぎて、忘れていた。そう、これは怒り。僕は今、猛烈に怒っている。

「僕はひきこもりじゃないっ」

 風船が破裂するように、僕も破裂した。

「ぼぼぼ僕のどこが、ひきこもりだって、言うんですかっ? ほら、見てくださいよ。僕はこうして今現在進行中で外を、ででで出歩いているじゃああありま、せぬか? なら、ひきこもりじゃあないでしょう。ええ、そうですよ。僕はたしかにひきこもりでしたよ。けど、それは過去のことです。過去形です。ワズです。だあかあらあ、いいいまは違うでしょうっ。ひきこもりじゃないでしょう? ニートですけど、ひきこもりではないでしょうがっ。て訂正してくださささいよおっ、今言ったひきこもりって言葉。訂正してくださいよおおお。どうせならニートって呼べよ。つーか、そう呼べええっ。さあさあさあささあさあっ」

 深夜の寒空の下、唾と血を飛ばしながら騒いでいるニートが、ここに一人。ええ、そうです。それは、僕です。

「…………」

 突如、態度が百八十度変化した僕に対し、男たちはドン引きしていた。口をポカンと開けて凝視する。

「お、おい。コイツ、ちょっとヤベェんじゃねぇの?」

 背の低い方が高い方を肘でつつく。

「あ、ああ。そうだな。確かにコイツ、かなりヤベェよ。見ろよ、あの目。完全にイッちまってる。あれはキ○ガイの目だ」

「ああ、間違いねぇ。ほんまもんのキ○ガイだ」

「ああああ! んだ、お前ら。だだだだ、誰がひきこもりだって!?」

「キ○ガイだっつってんだろ!」

 興奮によって、流れ出る鼻血。それを拭いとる余裕もなく、男たちに向かって歩いていく。

「なっ、ななななにをさっきからあ、ごごゴチャゴチャ言っ、てるんですかかかねえっ」

 ぼたぼたと鼻血を垂らしながら、距離を詰める。

「てて、て訂正しててくださいよおお。ぼ僕のことをひひ、ヒッキーって言ったことお、訂正してくださいよっ。しし、失言を正し、ってくださいよ」

 僕が一歩進むと、男たが一歩下がる。僕が二歩進むと、男たちも二歩下がる。それを何度か繰り返した後、背の高い男が遂に諦めの表情を浮かべた。

「今日は、もういい。さっさと行こうぜ。コイツ、マジでなにをしでかすかわからねぇぞ」

「ああ、同感だ」

 狂人を相手にするリスクの方が、一夜の快楽を手にする期待よりも上回ったのだろう。男たちはぐちぐちと悪態をつきながら、僕の前から逃げるように去って行った。

「…………」

 勝った。勝ってしまった。

 なにはともあれ、僕は二人の悪漢に打ち勝った。

 なのに、どうしてこんなに虚しいのだろう。滂沱の涙を禁じえないのだろう。

 コートの袖で、涙を拭う。

 僕は一体、何をやっているのだ。ただいたずらに自分の矮小さをさらけ出して、自分を傷付けただけじゃないか。僕がやっているのは、ただの自傷行為。リストカットをして、相手を引かせただけ。カッコイイことなんて、何一つない。ていうか、カッコワルイ。

 熱くなっていた頭とは対照的に、指先はとうに冷え切っていて、既に感覚が無かった。そうか、外はこんなにも寒かったのか。

「帰ろう」

 今更、コンビニへ行く気にもなれなかった。早く家に帰って、万年床の中でぬくぬく温まりたかった。しばらくの間は、外に出たくない。ってか、ひきこもりたい。

 僕は踵を返して、ボロアパートを目指した。

「ちょーと、待って……」

 しかしそれを妨げたのは、すっかり蚊帳の外であったOLさんだった。彼女は僕の肩を掴み、進行を妨げた。対する僕は、そういえば女の人に触られるのは久しぶりだなぁ、なんてことをぼんやり考えていた。

「とりあえーず、礼を言っておきましょう」

 助けられた側なのに、なぜだか尊大な口調でOLさんは礼を言った。甘ったるい酒の匂いが、こちらまで漂ってくる。

「いいですよ、別に」

 僕は素っ気なく言い放った。テンションが最低辺にまで落ち込んだ影響か、吃りまで消えている。誰かとまともに会話するなんて、随分と久しぶりだった。

 へっくちょい、とOLさんがくしゃみをする。僕は着ていたコートを彼女の肩にかけると、再度トボトボと歩き始める。

 再び掴まれる肩。

「いや、そういう訳にもいきまひぇんよ」

 OLさんはしつこく食い下がってくる。

「私、借りを預けっぱなしっていうのはあ、どうにも性分に合わないんれす。きちーんと返してもらいまふ。今はこんなんですから無理ですけど、後ほど改まって礼をさせてくらだい」

「いや、本当にそういうのいらないんで」

「わったしがよくないんですよぉ」

「いや、だから」

「ほら、さっさと連絡先をー、教えんしゃい」

「その」

「ほらぁ、早く早く早くぅー。私だってぇ、ヒマじゃないんですよ、ヒマじゃ」

 ブチッ、と何かが切れる音がした。

「あああ、もうウルサいっ。僕のことなんかほっといてくださいよっ」

 先程の興奮が尾を引いていたせいか、耐え切れなくなり激昂した。肩に置かれた彼女の手を乱暴に振り払う。

「あらら」

 しまった。

 身体の支えを失ったOLさんは足を滑らせ、そのまま後ろへ倒れていく。危ない倒れ方だった。このままでは、彼女は後頭部を打ってしまうだろう。

「危ないっ」

 OLさんに反射的に手を伸ばして、彼女の身体を抱き寄せた。普段の僕では考えられない、紳士的な行動だった。

 OLさんと目が合う。今になって気付いたが、彼女は驚くぐらい整った容姿をしていた。

 酔いのせいか頬は赤く染まり、目はとろんと半分垂れ下がってだらしの無い表情をしているが、それを差し引いたとしても、彼女は美しかった。

 女性と見つめ合うなんて、普段の僕なら到底できないだろう。が、この時ばかりは違った。僕は彼女の瞳にスッカリと魅入られてしまい、視線を外せずにいた。

 しばらく二人で見つめ合った後、OLさんが口を開く。

「……武井、くん?」

「え」

 いきなり呼ばれた、僕の苗字。

「今、なんて……」

「だから……あなた、武井くんれしょ?」

 OLさんは僕の名前を知っていた。

 フルまで踏んでいたアクセルが、更に振り切れる。色んな感情が織り交ざって、何も考えられなくなる。

 ひきこもりニートにとっての最大のタブー。それは、己の過去を知る人物に出くわすこと。そして今、目の前にいるOLさんは僕の名を、つまり過去を知っていた。

「……違います」

 僕は呟く。

「えっ?」

「違いまあああああすっ!」

 キャパシティを超えた。

 僕は叫び声を上げて、OLさんを押しのける。

「ちっ、違いますから」

 わなわなと震えて抗議する。

「僕は、僕は、決して、武井ヒロシなんかじゃあ、ありませんからああああああああ!」

 出した結論は、逃避。

 全力疾走した。少しでも彼女から遠ざかろうと、ただひたすらに走った。

 明日はきっと筋肉痛だろう。疼痛で一日中苦しむだろう。だけど、今はそんなことを考慮する暇もなかった。僕は走る。目的地は考えていない。ただ走るのだ。親友のもとへ向かう、メロスのように。

 こうして、僕が一大決心のもとに挑んだ一夜の冒険は、目的地に辿り着くことすらできず敢え無く失敗し、僕は悲痛の涙を流しながら、夜の街を一人遁走したのだった。

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