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第一話

 生まれ変わろう。

 六畳一間しかない、安普請のアパートの一室。その部屋の中心で、僕は遂に決心したのだった。

 いつもなら、決心するだけで終わりだった。精神は動けども、肉体は動かず。上っ面の決意だけじゃ、身体を納得させることはできない。そんなこと、とうに知っているくせに、形だけの決意で満足していた。

 でも、それでいいじゃないか。ソクラテスは己の無知を自覚することによって、他より抜きん出た存在となれた。僕だって自分をダメ人間だと自覚している分、他のダメ人間よりかは幾分マシではないか。

 下を見ることによって得られるちゃちな満足感を、味のなくなったガムを噛み続けるように、無理に味わって生きていた。

 今までは、それで良かった。しかし、今回は違った。胸中で渦巻く黒い塊に心が耐え切れなくなった。強い負荷をかけたバネがその分だけ反発するように、僕の心も限界をむかえてしまった。

 もう嫌だ。こんな自己嫌悪に苛まれるだけの日々が続くのなら、いっそ死んでしまったほうがマシだ。でも、自殺するような大それた勇気は持ち合わせていない。死には必ず苦痛が伴う。苦しいのも、痛いのも、ゴメンだった。

 なら、重い腰を上げて動くしかないだろう。酔生夢死の徒からの脱却。厳しい任務だ。だけど、僕は今夜、生まれ変わってみせる。

 そうと決まれば即行動だ。決意の熱が冷めてしまわぬ内に、具体的な行動計画を立てよう。

 壁時計を見る。

 現在の時刻は午前一時半。通常の生活サイクルを送る者ならば、今頃はみんな床についている時間帯だ。つまり、僕にとっては絶好の外出時刻である。

 この街は、世間一般に言う郊外のベッドタウンだ。こんな夜更けに出歩いている人間といったら、せいぜい酔っ払いのサラリーマンぐらいが関の山。なんの心配もない。

 あっ、けど、もし道中でからまれたりしたらどうしよう。酔っ払いは何をしでかすかわからない分、素面のサラリーマンよりもよっぽど性質が悪い。妙な難癖をつけられて、殴られたりするかも。嫌だな。痛いのは嫌だ。そもそも酔っ払い以前に、パトロール中の警察官に出くわして、職務質問でもされたらどうしよう。まともに対応出来る自信なんて、からきし無い。逆に、不審者として連行されてしまうかも。そしたら、僕は留置所入りだ。二度と日の目を浴びることなく、暗くてジメジメした牢獄で一生を過ごす。

 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 外は危険だ。外になんか出たくない。少なくとも、今日は無理だ。うん。だって今日は平日だし、せめて休日にしよう。なんで休日の方がいいのかはわからないけれど、とにかく休日にしよう。よし。今日はもう止めにして、また明日から頑張ろう。そうしよう。

「いけない、いけない」

 ネガティブな思考を振り払うために、頭を左右に振った。

 油断したら、すぐこれだ。とにかく今は、何も考えずにただ動こう。益体のない思考は、行動の硬直化を招くだけだ。

 作戦決定。

 僕は今から深夜のコンビニへ赴き、店内に置いてある求人誌をゲットする。そのついでに、夜食のポテチとコーラを購入。そのまま寄り道せずに、真っすぐこのボロアパートへ帰宅する。

 大丈夫、簡単なことだ。この程度のおつかい、小学生どころか幼稚園児にだってこなせる。今年で二十七になる僕に出来ないはずがない。

 頬をピシャリと叩いて、自らを鼓舞する。

 万年床を畳み、毛玉だらけの着古したスウェットを脱ぎ捨てた。押し入れにある真新しいシャツとジーンズを着る。その上に厚手のコートを羽織って、黒のニット帽を被った。

 洗面所の鏡で確認。とりあえず、おかしな格好ではないと思う。

 あいうえおー、と念のために発声練習をした。ただレジを通すだけの簡素な買い物だ。おそらく声を出す機会はないだろうけれど、暇を持て余したコンビニ店員が世間話をふってくる可能性も捨てきれない。

 脱ぎ捨てたスウェットを洗濯機へ放り込み、玄関へ移動した。

 大学生の頃から履いている汚れの目立つスニーカーをつっかけて、目の前にそびえ立つドアと対峙する。

 ここから先は、もう未知の世界だ。この部屋と違って、僕以外の人間が平然と闊歩している。弱者に厳しく、強者にも厳しい。そんな、冷たくて無関心な世界が広がっている。

 気分はさながら、異世界転移だ。大袈裟だと思われるかもしれないが、ひきこもりの僕にとっては、文字通り命懸けのイベントだった。主人公補正なんて贅沢な機能は、もちろんついちゃいない。僕はノーチートで、異世界に立ち向かわなければならない。

 一度、大きく深呼吸。震える心を鎮ませる。

 冷たいドアノブを握り、ゆっくりと引いていく。冬の冷気が、ドアの隙間から漏れ出てくる。それだけで引き返したくなる。だけど、それじゃ駄目なのだ。僕は今夜、生まれ変わる。

 外に出た。

 久しぶりの外界は、ゾッとするほどしんと静まり返っていた。肌を刺すような冷気が、僕の体温を奪おうと躍起になる。思わず、両手で身体を擦る。

 とりあえず、視界に人影はなかった。

 錆びた階段を降りて、恐る恐る道路に出る。等間隔に並んだ街灯が、スポットライトのように地面を照らしている。遠くでバイクのエンジン音が聞こえる。

 寒さのためか、それとも恐怖のためなのか、歯の根が合わずカチカチと硬質な音を立てる。大丈夫、大丈夫と心の中で何度も反芻しながら、僕はコンビニに向かって歩き始めた。


 静寂の世界を、独りきりで歩く。

 しばらく歩いていると、額に汗がにじみ始めた。思えば、歩行という行為すら久しぶりなのだ。単純に身体が疲れてきたのだろう。でも、その疲れすらどこか心地よい。

 僕は、やり遂げたのだ。

 達成感が、じんわりと胸に染み渡っていく。

 人類が初めて月面に降り立った時も、こんな気持ちになったに違いない。偉大な行為を成し遂げたという、純粋な喜び。ああ、僕の心も月まで飛んでいきそうだ。

 わかっているさ、他の人から見れば鼻で笑われてしまうような、小さ過ぎる一歩だってことくらい。だけど、僕にとってはあまりに大きな一歩だった。ひきこもりが外に出るということは、それほどまでに困難なのだ。

 僕は、本当に変われるのかもしれない。ひきこもりニートを卒業して、定職について、経済的にも精神的にも自立できるかもしれない。もう怯えたり、コソコソしたりせずに、胸を張って生きられるのかもしれない。人並みの人生を、送れるようになるのかもしれない。

 溢れんばかりの希望で、胸が一杯になった。妄想は四方へと飛んでいく。数ある未来の中には、平凡な家庭を築くものさえあった。僕は幸福の絶頂にいた。

 その時、後ろから足音が聞こえてきた。

 脱兎のごとく駆け出し、近くの電柱に身を潜める。心臓が信じられない速さで脈を打っている。ぎゅっと目をつむり、足音が過ぎ去るのを待った。

 早く、早く、早く、早く、どこかに行ってくれ!

 足音が遠ざかる。

 危機が去ったことを理解した瞬間、虚脱感に襲われ、その場にへたりこんだ。

 足音ひとつで、この怯えっぷり。あまりの情けなさに涙が出そうだった。先程まで描いていた希望は全てかき消され、後に残ったのは親しみ慣れた絶望だった。

 自惚れるなよ、僕。人がそうそう変われるわけがないだろう。今までの人生を振り返れば、そんなことすぐにわかるじゃないか。

 僕の堕落人生は、ここ数年の話じゃない。それこそ、この世に生を受けた時から、すでに堕落していたのだから。


 僕はいわゆる、社会不適合者だった。

 人とコミュニケーションをとるのが苦手で、いつも独りでいた。当然、友達は一人もできない。そのため、コミュニティ至上主義の学校の中では常に針のむしろだった。小中高とひきこもらずにいられたのは、今から考えると奇跡に近い。おそらく、イジメなどの決定的な障害に出くわさずに済んだ幸運によるものだろう。

 孤独の痛みは確かに感じていたけど、それと同じくらい耐えることにも慣れていた。僕は鬱屈をため込みつつも、なんとか学生生活を送ることができていた。正直、このまま平穏無事に過ごせるだろうと楽観する気持ちがあったことを否定できない。人生ってのは――そう都合よくできちゃいないのに。

 転機は大学三年生の春に訪れた。

 二流大学の文学部哲学科を二浪して入学した僕は、相も変わらず孤独な日々を送っていた。大学は小中高に比べると孤独に優しい環境だったし(ただしグループワーク必須の授業を除く)、僕にとっては決して悪くない場所だった。それに、専攻していた哲学に没頭することで、一時的に孤独を忘れることができたのも大きい。

 今までの人生を省みれば、大学時代は最も充実していたと言っても過言ではない。あの頃は、全てが順調に進んでいたのだ。

 しかし、思い出すのも忌々しい『あの事件』によって、僕の日常は完全に崩れ去った。

 後は見ての通りだ。大学中退を余儀なくされ、ひきこもりニートまで一直線に転がり落ちてしまった。ギリギリまで踏みとどまっていた堕落への淵を、越えてしまったのだ。

 未練がなかったといえば嘘になる。憎しみだってもちろんある。でも、仮に大学を卒業できたところで、僕はおそらく同じような道を辿っていたのではないかと最近は考えている。相槌を打つ協調性すら皆無の僕が、就職活動なんてたいそれたものをこなせるはずがない。ひきこもりニートの未来は回避できたかもしれないが、無職の未来は回避できなかっただろう。

 大学を中退した後は、一人暮らしの気楽さに慣れてしまっていたせいか、なんとなく実家に帰る気になれず、下宿先のボロアパートに居残っていた。親父の仕送りでなんとか糊口はしのげていたし、貧乏な生活だったけれど不満はなかった。

 そんな日々が、しばらく続いていた。僕は決して幸福ではなかった。だが、不幸でもなかった。親父には悪いとは思っていたけれど、実際動くとなると話は別だった。『あの事件』以来、外の世界が怖くなっていたのだ。

 けれど、今から二年前、僕の生活基盤を揺るがす大事件が起きた。

 親父が交通事故で亡くなったのだ。

 電話で訃報を聞いた時の、足元が崩れ落ちていくような感覚は今でも覚えている。ダメ人間だった僕を否定せず、最後まで肯定してくれた優しい人だった。きっと、言いたいことは色々とあっただろう。恨みつらみをぶつけたくなったことだって、何度もあったはずだ。けれど、親父は最後の最後まで僕のことを信じてくれた。そして僕は、最後の最後までその期待を裏切り続けた。

 そして、扶養主を失ったひきこもりニートはどのような顛末をたどるのか。収入源がなくなれば、当然生活することはできない。そのまま餓死することを良しとしないのなら、ひきこもりニートをやめて働くしかない。けれど、僕が今こうやって決死の思いでコンビニに向かっていることからもわかるように、二年前の僕はひきこもりニートを卒業しなかった。

 なら、どうやって生活していたのか。答えは簡単だ。僕を支えてくれる人が、まだ他にもいたのだ。僕は父親は失ったけれど、家族までは失っていなかった。

 僕の家族構成は四人。早くに病で亡くなった母と、交通事故で亡くなった父。そして、ひきこもりニートの僕を加えて、後もう一人、二つ年下の妹がいた。

 そう、僕はあろうことか、当時社会人になったばかりの妹に全てを頼ったのだ。親父の葬儀も、相続に関する諸々の手続きも、そして――今後の僕の生活についても、全て妹に丸投げした。そして彼女が何も言わないのをいいことに、ダラダラとひきこもりニート生活を続けていたのだ。

 兄として、これほど情けないことはないと思う。畜生にも劣る存在だ。今回の一大決心は、何よりも妹の存在が大きかった。これまで散々親父に迷惑をかけてきて、さらに妹にまで迷惑をかけていいはずがない。

 とにかく、アルバイトでもなんでもいいから一刻も早く職を持って、妹の負担を減らさなければならなかった。

 そのためにも、僕は変わらなくてはならない。今夜は、そのための第一歩だった。


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