手折れた翼
毎回毎回空の精神が折られてる気がするけど、きっと気のせいです!
古風な建物に、弓道場と刻まれたプレートがかけられている。ここが目的の場所だというのは明白だ。
「失礼します」
泰吾が引き戸を開くと、そこには静かな緊張の空間だった。
「うわぁ……」
その神聖化された空間に、マイも舌を巻いている。数人の生徒たちが一心不乱に自らの的に向かって矢を放つ姿は、一種の芸術品にも見えた。できることなら、この光景を絵画にしてしまいたいくらいっだ。
「えっと、空はっと……」
「おや? お客さん?」
見覚えのある小柄な空を探そうとすると、二人に声がかけられた。
声をかけたのは、少し長身の女子だった。肩までの黒髪と、凛々しい肉体。
「っと思ったら、なんだ、逸夏にエスカさんか」
こちらの顔を確認すると、その人物は期待外れとでもいうように肩をすぼめた。彼女がクラスメイトだということを泰吾とマイも理解し、
「あまりの言われようだな。そうか、お前弓道部だったのか」
それほど会話したことがあるわけではない。が、クラスメイトとして、彼女の名前が阿波楓だということはすぐに思い出せる。
「どうしたの? 入部希望なら受け付けるよ」
「いや、後輩の様子を見に来た」
「後輩?」
「睦城空。知ってるだろ?」
「ああ、睦城さんね……」
楓はなぜか難しい表情を浮かべた。
「たぶん、今のあの子、ここではあんたたちに会いたくないと思うよ」
「どうして?」
「そりゃあ……ご自分の目でご確認を」
楓は投げやり気味に、弓道場の一点を指差した。
そこには、弓道着に身を包んだ少女が、矢を構える姿があった。
弓を弾き、矢を放つ。
たったこれだけの動作の中、空はいつも全神経を目標の小さな円へ集中していた。ゆがけから離れた矢は、まっすぐに目標に、あるいはその周囲へ吸い込まれるように突き刺さる。容易なことではないが、それが空の常だった。
だが、今はどうだ。
「……っ!」
彼女の矢は、的とは大きく離れた的場に刺さっている。
「どうして……」
空はすぐに次の矢を装填、しかしそれも的のとなりの岩肌の肥やしになる。
「どうして……!」
次の矢は、狙いが逸れて矢道のど真ん中。
「なんでっ!」
次の矢を摘まもうとするも、もう背中には矢が残っていなかった。
「……なんで……」
がっくりと膝を追った空はうなだれた。
やってもやっても矢がうまく決まらなかったのは初めてではない。初めてのころも、今でもときどき、こういう時期はある。
だが、それらの時とは、明らかに何かが違うと空は感じていた。
今回の矢の命中率の悪さは、ただの不調ではない。
「……」
矢を全て回収したあと、空はもう一度矢を構えるが、
また外した。
「なんでっ! なんでっ‼」
「空、ちょっと落ち着いて」
優しく背中に当てられる誰かの手。わざわざ顔を上げずとも、それが親友の吉田唯なのは間違いない。
「たまにはそういう日もあるよ。ね、元気出して」
「違う!」
しかし、空はその手を振り払う。
「唯ちゃんには分からないよ! なんでこうなったかなんて! 私は、もう……弓道だってもうできないの!」
「空……?」
「雅風のために先輩たちを巻き込んで、ようやく再起できたのに、もう立てないの! 飛べないの!」
「ちょっと空、どうしたの? なんか変だよ……?」
「手が震えるの‼ 矢を構えるたびに、あの人の姿が蘇って、もう止まらないの‼」
空はまるで泣きじゃくる子供のように、何度も何度も何度も何度も叫ぶ。怒鳴る。もう周りで弓道の演習を続けている生徒はいない。全員が自分と空のやりとりを注目している。
「空、とりあえず立とう? ほら、元気だして……」
「もう放っておいて!」
しかし空は、その手すら振り払う。
もう何もしたくない。何も望みたくない。
いつ、あの蛇が来るのか、そう考えただけで。
「もう私には、なにも……」
「空!」
再び口を開いた唯よりも先に、別の方角から男性の声が空の耳に届いた。見れば、入り口の方から先輩の楓と、
「泰吾……先輩……」
世界平和部の二人の先輩たちが歩み寄っていた。
楓は唯をなだめ、少しこの場より引き離させる。少し戸惑い気味の唯に心の中で謝罪しつつ、空は二人と対面した。
「……どこから見ていましたか?」
ぐしゃぐしゃになった顔を拭いながら、空は言葉を発する。
なるべく低く、ドスのきいた声のつもりだった。以前不良たちを追い払う威力を発揮したこともあるものだが、泰吾もマイも全く動じなかった。
「最初からだ」
頬をかきながら泰吾は答えた。さすがの彼も、少し気まずいらしい。
「空ちゃん、もしかして……」
マイがなにやら心当たりがありそうな顔をしている。
腹が立つ。あの時同じ状況にいたのに、自分だけが他のみんなと苦労が違うことに。
こんな心境、いつ以来だろうか。
空は強く床を叩く。頑丈な木製の床に振動は瞬く間に吸収された。
「……阿波先輩、今日私はもう失礼します」
まだ弓道部の活動内容は残っている。
だが、楓も唯も止めるに止められず、弓道場を後にしようとする空へ呼びかけることはできなかった。代わりに、彼女の腕をつかむものがいたが。
「待てよ、空」
「……放してください」
泰吾が、両肩を掴んで無理やり彼の方に向かせた。空は彼に顔を合わせることなく、呟いた。
「どいてください」
「無理だな」
「……どいてください」
少し強めた。が、泰吾は一向に怯まない。
「お前らしくない。何かあったのか?」
「どいてください」
「説明するまでその気はない」
「……説明って、なんですか?」
考えるよりも先に手が出た。空の手が、学ランの襟首をぎりぎりと握っていた。
「先輩に、私のなにが分かるんですか? いきなりここまでやってきて、なにを偉そうに言っているんですか?」
「空……?」
「私のこと、何が分かるっていうんですか⁉ まだ赤の他人でしかないあなたに、一体何が⁉ 私に、深くかかわらないでください!」
睨みだけでは効かずとも、今度は効果があったようだ。
泰吾は、蛇に睨まれた蛙のように、完全に硬直していた。
一方空も、自分の発言にショックを受けたように数歩下がる。言い過ぎた、と顔が語っていたが、もう彼女も後には引けない。
空は乱暴に学ランを放し、弓も床に放置したまま走り去っていった。
出会ってまだ一年足らずのくせに、自分のことを分かったように言う先輩たちを残して。
「……阿波さん。止めなくていいの?」
マイが唯を支える楓に尋ねると、彼女は頷いた。
「私たちには、睦城さんが何を悩んでいるのか分からない。それに、いつも誰かが手を差し伸べることが正しいとは限らないよ」
「そう……ここ最近空ちゃんの様子がおかしいとは薄々思っていたけど……こうなったのはいつから?」
「そんなに直近じゃないね。こうなってからは一週間は確実に経ってる」
「……もしかして、二週間くらいとか?」
「そんなところだね。ま、今はスランプみたいだし、少し頭を冷やせばまた戻ってくるでしょう」
「そうなのかしら……」
しかし、それを否定したマイ。
「たぶん、今の空ちゃんの問題は、時間が解決してくれるものでもない気がするのよ」
「どういう意味? エスカさん、貴女何か知っているの?」
しかしマイは彼女に答えなかった。泰吾を無理やり立たせ、
「邪魔してごめん。もう行くわ。ほら、泰吾も」
「あ、ああ」
泰吾はまだ納得していないようだが、現時点で自分たちにできることは何もない。それは彼も理解していた。
「雨か……」
弓道場の門で、泰吾は呟いた。
念のために傘は持ってきたとはいえ、いざ本当に雨が降ると、空との一件もあって、憂鬱にならざるを得ない。
首を左右に振り、ビニール傘を開いた。マイもそれに続いて炎のように真っ赤な傘を示す。その色合いは、彼女の生まれつきの髪色と合わさって、曇天の中でも輝いている。
「あたし濡れるの嫌いなのよね……なんか、心まで湿っちゃいそうで」
「俺はもう湿っているがな」
「あんたいっそのこと傘なしで歩きなさいよ。日本だと濡れる男を『水も滴るなんとか』っていうんでしょ?」
「それは当人のスペック次第だ。俺には無理だ」
バッサリ否定する泰吾。むしろここで雨に濡れるなど、風邪をひくこと間違いなしだ。
まあ、エンシェントだから問題ないだろうが。
「雨の日になると校庭が広く感じるな」
「ほんとね。晴れより雨が好きって人よくいるけど、あたしには理解できないわ。外にも出られない日の何がいいのかしら?」
「まあ、人それぞれだろう。雨の中のドライブもなかなか悪くないがな」
「へえ」
「それより、お前どうして空がああなったのか、心当たりがあるのか?」
泰吾の質問に、マイは表情を曇らせた。
「……この前の羽月ちゃん誘拐事件の時、空ちゃんあたしたちより先に偵察に行ったじゃない?」
「ああ。そう言えば、空があそこでどうしていたのかはまだ聞いていなかったな」
「異界になる前から、独皮極哉との戦闘があったそうよ」
「っ!」
マイが口にした名前に、泰吾は唇をキュッと結んだ。
独皮極哉。
何年もの間警察の手から逃れ続けてきた凶悪犯罪者だ。この地域周辺であれば、どこでも要注意人物と顔と名前を徹底的に覚えさせられる。
しかも彼は、あの事件の少し前からエンシェントになっていた。毒の牙を用いた、防御を顧みない戦法で、泰吾も三人がかりでもかなり苦戦を強いられた。
そんな敵と、一対一で事を構えていた。
「あたしが駆けつけたときには、もう独皮の姿はなかったわ。惨状から、空ちゃんがやっつけたというのは分かったわ。でも、そのときもう空ちゃんもボロボロで、泣いてたのよ」
「そうだったのか……」
「ええ。そりゃもう大泣きで。顔を覚えられたらしいわよ」
「ああ、あんな奴に因縁付けられたら誰でも泣くだろうさ」
泰吾も二度目の対面時、彼に以前と同一人物だと認識された。確かに、彼なら学校の中庭からいきなり襲いかかってきたとしてもなんら不思議はない。
「そういえば、奴はまだ生きているのか?」
「ええ、生きているわよ。残念ながら」
彼女の話では、異界が治まった後、ゾディアックの研究員に伝えて丸二日かけて現場を調査しつくしたそうだ。それにより異界化についての多少なりとの研究は進んだらしいが、独皮極哉はどこにも見つからなかったそうだ。
「ということは、これから先関わり合いになるか?」
「なるわよ。きっとね……」
「正直ナラクの相手をする方がよっぽど楽だな。精神的に」
「戦力としてはナラクの方が大きいけど、そうよね。あの精神性は相対したくないわね」
マイも頷いた。多くのゴーレムを屠ってきた彼女でも、あの精神は厄介極まりないのか。
「……ん?」
あと少しで校門、というところで、マイは顔をしかめた。泰吾がその視線の先を追うと、
「うわ、なんだあれ……」
泰吾の一生では決して関わることがないと思われていた、黒い光沢のボディがあった。
雨粒を受けても決して汚れを知らないそれは、校門そのものよりも長く、数少ない出ていく生徒や通行人は怪しむ目をそれに向けていた。
初めて、
リムジンというものを生で見た。
「なんだこれ……?」
泰吾の疑問に答えるように、リムジンの扉が開く。
そして、
「我が愛おしの妹よ!」
変な金髪男が出てきた。
そして、マイが頭痛に苛まれていた。




