よくある事故
人って、その時のテンションによって、物事をいつも以上に進めたりしますよね。今の自分もそんな感じです
逸夏泰吾は、困惑した。この方向性は、過去に経験し得たことはない。
「えっと……」
「……」
まさか、
着替え中の女子と遭遇なんてものが現実にあるとは思いもよらなかった。
思わず見とれてしまう白い肌は雪のようで、それでいて健康な血流が温もりを浮かび上がらせている。赤いツーサイドアップは、少し薄暗い教室であっても、その場のみに光があるような錯覚を覚えてしまう。泰吾と同じ年頃だろうに少し子供っぽさが残るそのピンク色の花柄下着は、巨大な膨らみを誇る上半身と華奢な下半身を隠しているが、なまじ隠れている面積が少ない分、余計に泰吾の神経を刺激する。
やがて、徐々に赤くなっていく彼女の顔を見て、泰吾は先手を取る。
「待て。言いたいことはわかるが、少し待て」
その制止が利いたのか、少女は一瞬振り上げた拳を止める。泰吾は必死に続けた。
「そもそも、ここはどこだ? 不特定多数の生徒が集まる教室だ。そして、今はどういうときだ? 誰かが来るかもしれない、放課後だ。しかも、まだ残っている鞄は少しある。これは、この場所に戻ってくる生徒が少なからずいるということではないのか?」
調子付いてきた泰吾は、ひしりと拳を固める。
「なるほど、確かに誰もがうらやむ素晴らしき素体だ。しかし、済まないな。俺の好みは年上なんだ。同年代には興味ない。……おっと、問題の話だったな。言い直すところ、これはあくまで事故であり、俺の責任はお前の責任と同程度だということだ! 俺を罰したいなら、お前も同じ罰を受けるべきだ!」
「言いたいことはそれでおしまいかしら?」
なんということでしょう。下着姿の痴女……失礼、女子生徒の全身から、赤いオーラがみなぎっているのは、泰吾の錯覚だろうか。
「悪いけど、あたしはそんなに公平に見定められないから……」
その華奢な下着姿が泰吾の前に晒される。
「覚悟しなさい! この変態痴漢変質不審者! 地獄の業火に焼かれなさい!」
一瞬目を奪われてしまったが、その幻想は脳天に入る蹴りで吹き飛んでしまった。
「さて、ストレス発散も終わったことだし言い訳を聞こうかしら」
「理不尽を感じないでもないんだが……」
そうして机の上で足を組みながら座る覗き被害者(かなり殴った)。
彼女に向かって平身低頭している逸夏泰吾(ぼこぼこに殴られた)
「さあ、このマイ・エスカを納得できるだけの理由を聞こうじゃない」
「ぐっ……マイ・エスカ……?」
その名前は、泰吾には聞き覚えがあった。
(思い出せないな……)
記憶に埋もれた名前を切り捨て、改めてこの状況を睨む。さっきは事故だと主張したが、実際には残っている生徒の確認を怠ったこちらのミスだ。この学校の清掃員になったとき、生徒とのトラブルに関してはすべて本人の責任に帰属すると記されていたのを思い出す。
「いや、その……」
「言っとくけど」
マイは、はっきりとした口調で、泰吾にとっては死刑宣告ともとれる事実を述べた。
「あたしは、この学校の理事長直々の推薦と名指しでここに留学に来た皇族なの。たかが清掃員一人、あたしの一言でどうなるのか興味があるわね」
「失礼しました俺が悪かったですなんでもしますからお許しください」
額を床にこすりつけながら、泰吾は土下座した。
ここで、泰吾の脳裏に彼女の情報がフラッシュバックする。
どこかで見覚えがあるのは当然だ。
レクリアト王国の姫君。それが、彼女の正体だ。
レクリアト王国。泰吾のようなテレビももたないものには、その場所すら知る由がないが、最近情報革新のために勢力を伸ばしてきたと新聞で書いてあった。
炎のように赤く、光を放つ髪と、見るものの意識を奪う美しさ。ニュースで国王が、彼女を国宝だと言及したことが脳内にフラッシュバックする。
彼女のご機嫌を取るためなら、この学校は迷いなく一用務員の自分の首を切り落とすだろう。そのせいで海岸のみすぼらしいジャンク屋の経営が苦しくなろうが、学校も王国も関心をもつまい。
だが、それを実現させるわけにはいかない。
一年前、通っていた高校を退学した泰吾にとって、この仕事は数少ない稼ぎ口だ。実家を正社員の姉一人に任せるのは不安が大きすぎる。
「ふ~ん、何でも……ねえ」
悪魔のような笑い顔で、泰吾の背筋が凍る。にっこりとほほ笑むマイは、
「あんた。今日のお仕事はいつまでかしら?」
「あ、あと一時間です……」
「ふうん。今、あんたは『なんでも』って言ったわよね?」
「え?」
泰吾の脳内では、彼女は悪魔ではなく、死神の姿だった。
「『なんでも』って、言ったわよね?」
「はい……」
泰吾は力なく項垂れる。それを見たマイはにっこりと、
「待ってあげるわ。正門でね」
と告げた。
「さあってと、いいもの連れてきたわあ」
マイは殴りたくなるような笑顔で言った。
「さあ? 明日はお休みなのよね?」
「調べられてる……」
泰吾は、マイのいつの間にかの行動力に戦慄を覚える。
「あたしの特権って色々あってね。先生たちには知られていないけど、平の先生以上の特権を持っているのよ。用務員のシフトの一つや二つ、簡単に手に入れられるわ」
「その行動力と合わさるともう最悪だな」
「おおっと、なんだか急に一一0を押したくなったわ」
「なにも口にしておりませんご安心ください」
彼女は学生カバンしかない。それなのに、背後から刺されそうな危険信号が、泰吾の脳裏に響く。
「念のために確認したい……しておきたいのですが、」
「何かしら?」
「こちらは一体……?」
泰吾はおそるおそる目の前の建物に手を向ける。マイは当然のごとく、こう答えた。
「あたしの家だけど?」
「……このマンションの何階?」
羨望も混ざった声しか出せなくなっていた。泰吾を見下ろしているのは、夜の中でもひと際の輝きを放つビル。門から正面入り口までおよそ百メートルもあり、その間には広大な花畑と、中心に走る車道。中央には噴水が設置されており、その維持費を考えただけでも頭が回る。
そして、やはり帰ってきた答えも、また泰吾を混乱させた。
「全部よ。このマンションの」
「全部……」
この、疑いようもなく集合住宅だと考えるこの場所を、あっさりと自宅だと宣言する彼女に、もう泰吾には驚くことすらできない。ただ、ため息をつくだけだ。
「さて、あたしの体を汚してくれた落とし前をつけさせてもらおうかしら」
表情を改めたマイは、こっちの心情を知ってか知らずか、鬼のようなことを告げた。
「掃除よ。あたしとお兄様の家を、埃一つ残さずに綺麗にしてもらいましょうか。清掃員さん。まあ、全部とは言わないわ。明日一日、タダ働きしてもらおうかしら。いやとは言わないわよね? あたしの裸をみたんだから」
裸ではない。下着姿だ。
と、反論したから、泰吾は猛烈な蹴りの餌食になったのだろう。
「ねえ」
と、マイが声をかけてきたのは、泰吾が掃除を始めて二時間たったころだ。
「なんだ……いかがなさいましたか? お嬢様」
どっちにしろ、この日は一日中ここで使われることになっている。だが、ポリシーのためにできるだけ広範囲に手を付けたい泰吾は、怪訝な顔を隠せない。
マイはというと、さっき泰吾が丁寧に掃除したソファに座りながら、長い廊下を隅から隅まで綺麗にしているこちらを見下ろしている。
「いや、普通でいいわよ。あんた、あたしと年変わらなさそうだけど、いくつ?」
泰吾はモップに雑巾を架け、壁に置いた。
「……俺のシフト知っているのなら、年齢も知っているだろう?」
「本当に十七?」
「そうだ」
「まだ学生じゃない? この国では、学生を学問に集中させずに働かせるのかしら?」
「そういう国はたくさんあるだろう?」
「少なくとも日本はそうではないと思っていたわ。 How come you have to work so hard?」(どうしてそんなに働かなくてはならなくなったのかしら?)
「Is it so important to stop my work?」(それは俺の仕事を中断してでも聞かなければならないのか?)
レクトリア王国の言語は英語だ。彼女がそう聞くのならば、そう返すのが自然だろう。マイは肩をすぼめながら、
「Yes. I order you to answer this question. Is it so difficult?」(ええ。答えなさい。そんなに難しいこと聞いていないでしょ?)
だが、泰吾は首を振った。マイは「ふうん」と頷くと、
「この国では、英語をできる人は相当少数と聞いたけど」
「……だったらなんだ?」
「学校には通っていない学生年齢、しかしそれ相応に学習した様子あり。経済理由の中退かしら?」
「……ああ。中退だ。一年前に」
「ふうん……」
マイはしばらく考えて、
「学費。何とかしてあげようか?」
「……え?」
泰吾は、一瞬耳を疑った。
「そうね……あたしが、あんたを雇うわ」
再び、自分の耳が信用できなくなる。
「月に……いいえ、週に一回。一日まるまる使うことになるかもしれないけど。この建物を掃除すること。それが条件よ。どうかしら?」
「それだけか?」
「ん?」
「他に条件を付けないか?」
「ええ。特にないわ。そうね……少し、あたしの話し相手になる、も追加ね。どう? 中々いい条件でしょ?」
一瞬。一瞬だけ、悪魔が天使に見えた。
マイというヒロインの登場回でした。皆様のなかではどのような姿になっているのでしょうか。
ルビの振り方がいつできていつできないのかがわからない……




