再起への翼
少しだけシリアスになります。
空が目を覚ましたのは、その日の昼過ぎだった。看護婦の話では、ただのショックによる気絶だったらしい。病室に入れば、彼女はいつもと変わらない笑顔で泰吾たちを迎えてくれた。
「みなさん、ご心配をおかけしました! あ、これさっき頂いたリンゴなんですけど、みなさんで一緒に食べましょう?」
雅風が奪われた、そんな事実などないように、剥きかけのリンゴを見せる。
泰吾は少し気まずそうに、
「な、なあ……そ……睦城、お前、」
「ああ、ご心配なく。私、こう見えてもリンゴ剥くの、結構上手なんですよ。小さいころ、よくお母さんと一緒にやっていましたから。ほら、こんなに……痛っ!」
白いリンゴに、一点だけ皮の残りができた。それは、空の血によって、後天的に作られた赤。
「……うっ……」
それに続くように、他の白い部位に、灰色の点ができていく。リンゴに、涙という雨がどんどん強く降りつける。
「……うっ……うっ、」
肩が上下に震えだす。噛み殺してきた声が、少しずつ大きくなっていく。
「……うっ……うっ、」
「空ちゃん」
マイが、彼女を抑えるように抱くが、それでも止まらない。むしろ、慟哭は大きくなる。
「うわああああああああ! み、みやび……かぜ……! う、あああ!」
もう、だれも彼女を止めることはできない。病院であることも、大勢に聞かれるであろうことも、もう空の頭にはない。ただ、彼女は、悔しいから、悲しいから泣いていた。
「空……」
「そこまで泣くことかと思ってる?」
なんて声をかければいいか迷っていると、腕を組む明日香が問いかける。
泰吾が頷くと、
「雅風は、空の家に伝わる、いわば家宝よ。父の上の上よりも上から……先祖代々受け継がれてきたものよ。多くの先祖たちの魂が宿ってるといっても過言ではないでしょうね。それを奪われたというのは、いわば家の誇りそのものを奪われたと同義。この時点で、場合によっては家に帰れなくなるわ」
「そんな……」
「それ以上に、彼女個人も、思い入れも大きかったでしょうね。雅風を受け継ぐのは、彼女の家で、もっとも成長し、鍛えたものにのみ与えられる。そもそも、入部した時で、もう二年も一緒に戦ってきたらしいから」
「二年……」
マイにしがみついてる空の小さな背中には、どれだけの重圧があったのだろう。
空だけではない。マイも、飄々としている明日香も。それに、知らぬどこかにいる、無数のエンシェントも。
いつの間にかオーパーツが体内にあった泰吾は、あまりにも軽過ぎた。
「軽いから、戦わないで」
明日香の言葉が、自分に強く突き刺さる。
「貴方は後悔したくないのでしょう? 苦しむのは、死ぬのは、後悔することよりも辛いかしら?」
空の泣き声だけが、空の耳に残った。
「落ち着いた?」
「はい……」
真っ赤な目を拭う空。彼女はまだ雅風を諦めておらず、目の光は前より強く見える。
「私は、もう大丈夫です! それより、アキラスの情報が必要ですよね!」
「そうだけど、別に無理しなくてもいいのよ? ほら、空ちゃん、お昼奢るから、なにか食べよう?」
「でも!」
まだ病室を出る許可は得られず、病室で時間を持て余している空は、早く仕事をしたいそうだ。
「いつアキラスが来るかわかりませんよ! 対策を……」
「待って」
空を止めるのは、誰かと通話している明日香。いつの間にか部屋の外で連絡がかかってきたらしい。
「睦城さん、テレビ通話よ」
明日香が持ち込んだ薄型デバイスに表示されたのは、木製の壁。おそらくなんらかの道場だろう。そこの正面に正座している、険しい顔つきの男性。髭が顔をまるで獅子のようにつつんでおり、静かながらに気圧される。空が「お父さん……」と呟いたことから、彼女の父親なのだと悟る。紺色の道場着を着用している彼は、座禅の体制を一切崩さず、口を開いた。
『雅風を奪われたと、さきほどゾディアックから連絡があった』
前置きもなしに、空の父親は告げた。
『空よ。それが真か否か、お前の口から聞きたい。本当か?』
「……」
顔を曇らせながら、空は頷く。
二人の話に耳を傾けながら、泰吾はマイに肘うちする。
「エスカ、あの人は?」
「睦城荘さん、空ちゃんのお父さん。同時に、ゾディアックの日本支部の幹部、十二人の一人よ」
「ゾディアックの幹部か。空、随分とこの世界に染まっていたんだな」
「荘さんは、ただの幹部じゃないわ。ゾディアックに入ったのは五年前。それまで、ずっと雅風を守ってきて、何度もゾディアックの人が勧誘しても、木刀一本でエンシェントを追い払ったって話よ」
「木刀だけでエンシェントを?」
「ええ。私も少し信じられないけど。首を縦に振ったのは、今のゾディアックのトップがやっと本腰を入れたときらしいわ」
「それで、一気に幹部に登りつめたのか」
「二人とも、静かになさい」
明日香の声で、泰吾とマイはピシャリと口を閉じる。マイが「あんたのせいよ」と、軽く泰吾を叩いた。
荘は目を閉じ、少し考え、
『空よ。これはお前の未熟さが招いた結果。それは分かっているな?』
「はい」
『ならば、私が言いたいことも分かるな? 今すぐ、帰ってこい』
「……!」
傍観に徹していた泰吾は、思わず身を乗り出す。なんとかマイと明日香が止めに入り、泰吾は落ち着きを取り戻した。
『お前の口座にそれだけの費用は振り込んでおく。良いな?』
「はい……」
「ま、待ってください!」
泰吾は二人の静止も振り切り、空の隣に割って入る。目だけを動かした荘は、『君は?』と尋ねると、
「逸夏泰吾です。あの、」
『ふむ。ゾディアックの絵戸街のリストに、君の名前はなかったはずだが。どういうことかな、猿飛君』
「申し訳ありません。彼はまだ、正式のエンシェントではありませんので、報告を怠っておりました」
『ふむ。で、何用かな?』
「失礼を承知で申し上げます。空をもう少しいさせてください」
空が少し驚いた表情をするのを、泰吾は気付かなかった。
「あの、先輩……」
『空は、エンシェントとして東京へ行った。雅風がなければ、そちらへ留まる理由はない』
「……雅風が失われた理由は、ご存じですか?」
『いや。猿飛君?』
「申し訳ありません、私もまだ事実しか確認できておらず、経緯については……」
「彼女は、自分を庇いました。その結果、敵に雅風を強奪されたのです。ご配慮をお願いできませんか?」
『庇った?』
「はい。敵も、空の実力を認めていました。彼女は強いと。未熟なのは、自分のほうです。空を連れて行かないでください!」
袖を、空が引っ張る。あまりにもか弱い手で、泰吾はそれを無視することにした。
荘は、
『ふむ。確かに素晴らしい行動ではあるが、事実は事実。空はもうエンシェントではない。こちらから、新たな人生を探させるのが筋だ。エンシェントなど、最初から関わっていなかったように』
「そんな……」
『話は終わりだ。空、お前の次の学校は私が探しておく。そこから、また確固たる理由があるなら上京してよし、私のもとで修行するもよしとする。雅風のないお前を、エンシェントと同じ場所には置いておけん。足手まといになる』
「なら!」
「逸夏泰吾。ちょっといい加減にしなさいよ!」
マイに無理やり引きずりだされそうになるも、泰吾は最後に一声だけ届かせる。
「自分が、俺が! 雅風を取り戻します!」
通話を終えようとする明日香と荘の手が止まった。この場の誰もの目が、泰吾に当てられていた。
「雅風を奪われた責任は、俺にもあります。俺にも責を負わせるのが道理ではありませんか?」
『君は正式なエンシェントではないのであろう? オーパーツは?』
泰吾は、答える代わりに右手にイニシャルフィストを顕現してみせる。
「なるべくしてなったエンシェントではありません。いつのまにか体内にオーパーツがあって、それが起因でエンシェントになったものです。でも、このまま空がいなくなって、後悔なんてしたくない!」
『ほう……』
静かにイニシャルフィストを観察する荘は、
初めて口に笑みを浮かべ、こう告げた。
「そういえば、この前知り合いの店がピンチに陥ってな、空への送金がしばらくできそうにない。そうだな……一週間くらいかかりそうだ。その間にもし雅風が戻ってくれば、もう帰ってくる必要はないな」
泰吾の性格が崩壊した気がしなくもない




