ある政治将校の憂鬱
ムッソリーニとヒトラーとスターリンが地獄に落ちた。
初めにムッソリーニが地獄の恐ろしさに音を上げて悔い改め、地獄から逃げ出した。
次に悪魔が地獄から逃げ出した。
次にヒトラーが逃げ出し、残ったスターリンは亡者を纏め上げて、地獄はソビエトになった。
薄暗い廊下を、規則正しく足音を刻みながら歩く。荒くれ揃いの赤軍兵士、その中でも色々な意味で一目置かれる機関猟兵の宿舎で、その痩せぎすの男に視線を送る者はいない。それどころかその丸眼鏡をかけた不健康そうな三白眼から逃げるように顔を伏せる。
だがそれを臆病と笑う者は徹底した総括と反省が必要だろう。この顔色の悪い小男、ドミトリー・ミハイロヴィチ・エリョーメンコは、ある意味でアララト小管区バロータフスキー基地最大の権力者なのだ。
糊のきいたカーキ色の制服に縁の黒い襟章、袖の五点星が真っ赤に映える。腰の拳銃が示す意味は、赤軍将兵にとって天使のラッパより恐ろしい。
政治委員ドミトリーに公然と逆らう者は、この基地に置いては1人しかいない。基地司令でさえ遠回しに反対意見を述べるだけなのだ。その1人の例外について考えると、只でさえ険しい相貌がよりいっそう険悪になる。ちょうど部屋から出てきた兵士が新品の靴で犬のクソを踏んだような表情をした。
「イワンはいるかね」
「は、はい!自分の部屋にいるかと思います、同志!」
自分より頭一つ高い大男が慌てて敬礼する様は些か滑稽で、僅かに溜飲を下げさせたが、直ぐに自らを戒める。権力者にとって何よりも恥ずべきことは、与えられた権力を濫用することだというのがドミトリーの持論である。
この狭い基地で恨みを買って得になる事象など何もないのだ。人知れず泥に埋もれても発見されるのは次の氷河期が終わった後だろう。
「そうか、感謝する」
ポケットに煙草の箱を突っ込んでやり、歩き慣れた経路を丁寧になぞる。威儀を正すのは大前提であるが、物で釣れるなら楽なものだ。これから対峙するロクデナシは、物だけ取って噛みついてくる狂犬なのだから。
「イワン、イワンはおるか」
部屋の前でノックをして呼びかける。答えはない。いっそドアを蹴破って一発ぶっ放してやろうかとも思うが、備品を壊して連行されるのは遠慮願いたい。寒いのは苦手なのだ。
深呼吸を一回、決然とドアを開けて腹から押し出すように怒鳴る。
「イワン!イワン・イワノーヴィチ・ガガーリン軍曹!」
「やかましい!うちのラジオみたくおんなじことばっか言ってんじゃねえぞこのタコ!」
政治委員にタメ口をきいた挙げ句に怒鳴り返す蛮行をなした青年。彼こそ機関猟兵のエースにしてアララト小管区最強の不良軍人、イワン・イワノーヴィチ・ガガーリンである。
触らぬ神になんとやらとばかりに、部屋にいた連中が逃げ出す。初めは政治将校が四苦八苦する様を面白がっていたが、今となってはむしろ同情の目で見てくる。それだけ不条理な男なのだ。
相変わらず見た目だけは機関誌に載せてもいいくらいには秀麗だと心の中でぼやく。190弱の高身長に色素の濃い茶色の髪を撫でつけ、逞しさと怜悧さが同居した気品のある顔立ち。適当に羽織っただけのコートの着こなしは規定通りの自分のものよりよほど華やかに見える。
女が放っておかないのも分からんでもない。女が悪くないなら悪いのは男。こいつが悪い。三段論法がそう言っている。
「何故、私が、ここに来たかは」
「知らんね」
「分かるな」
引いてはいけない。共産主義者は引いたら負けるのだ。
「装甲機関服の整備工場の女性工員を口説き落とした。これはいい。その工員には恋人がいた。これもいい。旧来の恋愛観なぞ革命的ではないからな。」
「つまり問題はないと」
「問題は!間男に殴りかかった恋人をぶちのめした上に急所を蹴って病院送りにしたことだ!」
「軟弱なタマの野郎だった。あれじゃモテんよ」
「そういうことを言っているのではない!何よりの問題は今年に入ってこれが4件目だということだ!」
声を涸らさんばかりに叫んで一息つく。こんなことで萎縮する奴で無いのは知っての通り。社交辞令のようなものだ。案の定小憎らしい面が片眉を上げることで更に鬱陶しいものになる。
ここまでやられて射殺されないのは異常である。上官、特に戦時中における政治将校の反抗への対処は、軍法会議も上へのお伺いも要らない。
政治将校最大の任務は、腰の拳銃が飾りでない事実を物分かりの良くない兵士に教育することなのだから。
「イワン、貴様の戦果は確かに驚くべきものだ。十回以上の出撃を経て目立った負傷もなしに生き残り、脱走も敵前逃亡もせずに勇敢に戦った事実は本来党中央に報告して表彰してもいいほどだ」
「余計なお世話だな」
「だが!貴様が頻繁に起こす下世話な騒動のせいで私はお前の存在を隠さねばならん。貴様も己の手柄を他人のものにするのは本意では」
「違うね」
「何?」
幾度となく食い気味に台詞を被せられ鼻白むが、急変した雰囲気に気圧されて間抜けにも聞き返す。
「あんたがそんな詰まらん理由で俺を隠すなんざそれこそ今更だ。長い付き合いだ。お前の面の皮がモスクワ~ウラジオストク間より厚いのは知ってる。第一俺が新聞も見ないように見えるのか?」
作っていた怒りを解くと、官僚らしい無関心かつ無機質な無表情が剥き出しになる。こういう男だ。本能が服を着て帽子をかぶったに過ぎない阿呆ではあるが、その嗅覚と機転は本物に違いない。
出撃した機関猟兵のほぼ全員が死傷したゴッドランド島上陸作戦で、退却が許されていないにも関わらず如何なる手品を使ったのか、別部隊に潜り込んで難を逃れたりしている。
実際の所工員などどうでもいい。この男に首輪を、そうでなくとも鈴の一つも付けねば安心出来ないのだ。辺境に飛ばされ頼るべきコネもろくにないが、今ではそれに感謝さえしている。こいつはその利点を台無しにしかねない。
兎に角今目立つのは危険過ぎる。そしてこの無法者にとっての危険はロシア人にとってのウオッカと同様。止めるべきだが止める気は一切ないものなのである。
「イワン、貴様の能力を私は評価している。だがそれは不確かな戦果に基づいた薄氷の上のものだ。忘れるなよ?幸運は気まぐれに去って行くが、私は何時でも貴様をシベリア送りに出来る」
並みの兵士なら地に頭をこすりつけて許しを請う脅し文句。しかし、やはりこいつは傲岸に笑う。
「だが俺の幸運に期待しているのは俺じゃない。あんただろう?」
その通りだ。
最早話す必要も無いと言わんばかりにベッドに寝ころぶ。コートを脱いで毛布ぐらい敷けと口に出しかけるが、無言で立ち上がって部屋から出て行った。
「それでは反省の色は露ほども無いと」
「そうなりますな」
困ったことだと髪の薄い頭頂を掻く。ドミトリーのそれより幾分勲章の多い制服。襟章は大佐の階級を表している。がっちりとした熊のような体躯に広い顎。丁寧に整えた口髭がピンと立つ。
バロータフスク基地司令、ボリス・アンドーレエヴィチ・チカロフ大佐はドミトリーとこの基地で最も付き合いの長い相手だ。
まだ政治将校にそれほど権限が与えられていなかった頃からの仲の為、よく言われる2元帥問題とは無縁の良好な関係を築けている。
それも本人に実力と威厳が備わっているからなのは間違い無い。少なくとも人前では若造相手にへりくだる度量が無ければ、こうも上手くいかなかっただろう。
「まあ、あやつのことだ、周りへの配慮はしておろう。生き意地の汚さにかけては折り紙付きだからな。そこだけは共産主義者らしい」
「あれは主義うんぬんでなく本人の資質であると思いますが」
「構わんさ。ちょっとした火遊びなら見逃してやれ、機関猟兵の数少ない特権だ。……それでは本題に入ろうか。」
軽く頷き纏めた資料を渡す。受け取る方も慣れたもので、重要な事項を流し読むと直ぐに顔を上げた。
「出撃154名の内未帰還50……。少ないな、30%を切っておる」
「浮動戦列車のお陰です。以前は後ろから撃たれることで慌てて姿勢を崩し転倒、そのまま溺死する者が多数にのぼると具申されていましたが、本作戦ではその前に装甲橇の大部分が破壊された為、新兵の帰還率が跳ね上がりました」
機関猟兵は人命を尊重するとは言い難い赤軍の全兵科の中でも一等嫌われる。その理由は敵弾で死ぬ確率が低いからだといえば、首を傾げる人もいるだろう。
そもそも霧の垂れ込める環境で、泥の上を滑る関係上重武装に出来ない装甲橇の攻撃は、近距離射撃であっても殆ど当たらない。
直接の死因では20~30%程度である。
では何故機関猟兵の死傷率はこうも高いのか。それは装甲機関服を装着して突撃する機関猟兵の本質的な欠陥によるものだ。
装甲機関服の重量は約85kg、最大時速約70キロ。普通は約40キロで走行する。ここで転倒した場合、85kgの荷物を持って時速40キロで泥沼に叩きつけられる訳だ。足掻いても深く沈むばかり、助けは来ない。そのまま溺死。つまり転べば死ぬのだ。
戦場で華々しく死にたいと願う奇特な者はいる。だが特に活躍もしないで泥に沈みたい奴などどこにいる。
結果士気の低下、慢性的な高い犯罪率が常態になる。はっきり言って爆弾に人間の知性を与えるために人間を爆弾にしたようなものなのである。荒れるのも当たり前だ。
政治将校としてそれらをどうにか宥めすかすドミトリーとしては、このまま楽な任務が続いてくれれば安泰だ。勿論そんなことは有り得ないが。
「結構なことだ。残念なのは結構な知らせがこれだけだということだな。で、中央はどうなっておる?」
「偉大なる同志書記長殿は、前線と後方の間に存在する死傷率の不平等を改善されることを決意し、断固たる意志をもって機関猟兵と高級将校の死亡率を同程度に調整する計画に邁進しておられます」
「もう少し手短に」
「高級将校はほぼ全滅です」
「全滅か」
「全滅です」
ボリス司令が節くれだった手で顔を覆い天を仰ぐ。
冗談ではない。むしろ冗談だと言って欲しい。大粛清の波が遂に赤軍にまで到達したのだ。ドミトリーとて他人ごとではない。政治将校だと偉ぶってみても所詮は下っ端、いつNKVDが自室のドアを叩いてもおかしくない。いや、今突然に拘束され〈自白>させられることもあり得る。あの連中神様だって自白されられるに違いない。
見逃されているのはバロータフスク基地がド田舎であるのと、機関猟兵を運用するためにひーこら駆けずり回っていて、反抗出来る余力が無さそうだからというだけだ。人生万事塞翁が馬と言おうか、最低な仕事でも良いことは有るものだ。
ショックから回復したボリス司令は視線を戻すと呟く。
「必要なのは最低限、そう最低限の成果だ。上げすぎるのも不味い。分かるな?」
「はっ、そのためには奴が最適だということも」
機関猟兵は魚雷のようなものだ。無線機は重量オーバーで持てない。声は機関の音にかき消される。出来ることは相互の距離を保って突き進むだけ。見当違いの方向に行くのもよくある話だ。
その中で常に一定以上の戦果を叩き出すエースは額面以上の価値を持つ。この時代、失敗を許される者など、ソビエト広しと言えども1人しかいない。
最低限の成果さえ出せば後は霧の中だ、どうとでも言える。
奴の推測は正しい。癪ではあるが便利なのだ。
「通商破壊作戦は上手くいっておる。これを許す英国海軍ではない、決戦は近いぞ。大抵のことは目をつむる。物資も可能な範囲で流そう。士気を上げて頂きたい」
よそよそしい言葉使いに変わったのは、話を切り上げる合図である。誰も聞いていないと確信出来る時以外は、一般軍人と政治委員が親しい所を見せるべきではない。
「ふむ、では整備課長のトムスキー大尉に工員の待遇を改善するように言っておきましょう。工員の健康は整備の精度に直結しますからな」
「ああ、君は出撃していて知らんのだったな。彼はつい先日資材の横流しを告発されて逮捕されたよ。来週には交代要員が来るはずだ」
「……それではペトロザボーツク基地のミハイル政治委員に頼んで女でも連れて来ましょう。うちはどうにも男が多すぎていかん」
「彼は一昨日反革命罪で逮捕されたよ。今丁度銃殺されている頃ではないかな」
「……とりあえずウオッカでも配ります」
「そうするといい」
司令室から退室して一つ溜め息をつく。
トムスキーは前から怪しいと踏んで報告していたのでどうでもいい。ミハイル、奴は惜しかった。女好きで変に人脈があり、筋力が要求されるため女性がいない機関猟兵にあてがう女を紹介してくれる貴重な伝手だったのだが。
戦死者の分のウオッカを配ればしばらく大人しくなるだろうが、そのうち民家に押し入りかねない。
新しい伝手を探すのも危険である以上、やはり女性工員を増やすべきだと意見具申せねば。
その前に医務室にいる工員が騒がないよう説得しよう。なに、時間はそうかからないはず。
腰の拳銃は飾りじゃないのだ。