アララト海南西部 0920
今日のソビエト
「いいかね同志、この農場には千羽の鶏がいる。こいつら全てに卵を産ませればノルマは簡単に達成出来るのだ」
「それは無理です同志。半分は雄鶏ですので」
霧の沼に獣が吠える。
ボォォォォォ。ボォォォォォ。
姿は見えない。
神の恩寵たる日の光さえ透さない濃霧が、世界を覆っていた。
「嫌な音だ」
隣の男が言った。
「胃袋が痛くなる」
イワンはこの男の名前を思い出そうとして、良く考えると名前を知らないことを思い出した。
さらによく考えると、この男と自分が両方生き残る確率より、片方あるいは両方が死ぬ確率の方が明らかに高く、よって名を知る必要もないため聞かなかったのだと気がつく。
「そうでもないさ」
名も知らぬ男にイワンは答えた。
「遠くで聞く分には害はない。害がないならどうでもいいじゃないか」
「そういうもんか?」
「そういうもんさ」
吠える声はもう聞こえない。沈黙が続く。
ここで冗談を挟んでくれるような頼れる古参兵はいない。大抵3カ月程度の訓練を積んだ即席の兵隊だ。数少ない例外は自身の身繕いに忙しい。
防霧マスクに曇り止めを塗る。長時間激しい運動をすると、肺に水が溜まる可能性があるアララト海において必須の道具だ。整備をして困ることはない。
背中合わせに座っていた男が迷惑そうに咳払いしたが、気にせず今度は蒸気サーベルをとめる革紐を調整する。
突撃砲の手入れは流石に無理だが、外観の確認はしておいた。
「いつになったら着くんだ?もうずいぶんたってるだろ」
背中側の誰かが問うたが、懐中時計といった高級品を持っている者は当然いない。
緊張感に苛立ちが混じり、空気を剣呑なものに変える。これから突っ込む地獄を思えば無理もない。
その時、操縦室と兵員室を区切るドアが開いた。
「もうすぐ戦場だ。出撃用意!」
あっさりと地獄行きの切符が切られる。
慌てて防霧マスクを装着し、釜から伸びるチューブを蒸気サーベルの柄尻にねじ込み、発動索を思い切り引いて釜を点火。狭い車内が泥油の燃焼音と排気の音で一杯になる。
「いいか、前へいけ!前へ!右でも左でもましてや後ろでもない!生き残るには前に行くしかないんだ!」
車長が負けじと声を張り上げる。真っ先に吹き飛ばされるかもしれないのに、元気なことだとイワンは感心した。
遠く蒸気の咆哮が泥の海に轟く。低くくぐもっていたそれは、今や双方が近づいているのが分かるほど高く、大きくなっている。
座席から立ち上がり、背骨と水平に立っている突撃砲を機関装甲服のレールに沿って右腰骨あたりまで回すと、自然に90度回転して前を向く。腰を落とし、つま先に重心をかけて前屈みになる。見た目はちょうどスキーで滑降する姿勢に似ていた。
やることもそう変わりない。違うのは死亡率が少しばかり(平均死亡率40%程)多いのと、自分の意志とは無関係に(共産主義的には喜んで)滑らなければならないことだけである。
心臓に悪い時の間、イワンは党への罵詈雑言を心の中に一通り並べ終えた。定形化された行動が末端まで行き渡るのは、偉大なる党の指導と努力の賜物に違いない。
「バルブ開け!」
「バルブ開け!」
車長の号令に復唱が木霊し、どこからか霧が湧く。
視界50m未満の濃密な水の帳が垂れ込める。胸の主バルブと腰の脚部バルブを開くと、熱された釜に多量の湿気が侵入し、即座に体積を数千倍に膨れさせた。
排気口が煙を噴き、弁を閉じることで1000度を超える熱気の流出を抑える。増大した圧力は逃げ場を求めてバルブを通り、配管を駆ける。
足元と肩の噴出口からは霧を掻き消す高温の蒸気が排気と共に吐き出され、また霧に帰ってゆく。
全身を覆う装甲は、敵弾だけでなく排出される蒸気から肉体を守るためのものだ。兵士達を留めるものは足下の金具だけになった。
泥の上を滑る車体の側面が倒れ、水面すれすれまで展開、曲線を描く溝が発射台となる。車長がレバーを引き倒せば金具が外れ、燃料切れまで止まることはできない。
「出撃だ!神に祈れ!」
「ypaaaa!」
この霧にまみれた戦場の常套句に送られて、縛めを解かれた兵士たちは、噴流を残して撃ち出された。
神の目届かぬ泥の海で
罪を重ねに