エピローグ ⅰ
さざ波のような雲が、幾重に青空をたゆたっている。
昼下がりの空は、緩やかな風の流れの中にあった。まるで昨晩の喧騒など遥か過去の事のように、至高圏は、千年の日々と同じ日常を再開しようとしていた。
ざっ、ざっ、と土を動かす音が、第五聖地の庭に響いていた。
シオンは淡く目を細め、土に跪いた少女の背を眺めていた。繰り返し動く肩と腕。まるで決意の体現のように、一度も動きを止めること無く、土を穴へと埋め戻していた。
ふぅ、と少女が息をついた。前かがみだった姿勢を持ち上げ、軽く首を擡げた。
「本当に良かったの? ブローチまで埋めてしまって」
「いいのよ。兄貴が一番大事にしてた物なんだから、ちゃんと持たせてあげるべきだわ」
少女が振り向く。ふわりと揺れた淡色の髪は、彼女が埋めた遺物の主と同じ色だった。
「お墓ってそう言うモノだと思ってるけど、変?」
「いや……そこはアベルの思う通りで構わないよ」
シオンの返事を聞きながら、アベルは立ち上がった。
「ここにお墓は一つも無いのね。……あんな風に消えていなくなっちゃうんだから当然か」
ぽつりと呟き、少しだけ淋しげな瞳で芝生の庭を見渡した。
彼女の足元に立つ小さな木の板が、この聖地で初めての墓標だった。
「シオンは淋しくないの?」
あちらを向いたままアベルは問うた。涙さえ流さない少年を責める声ではなく、何気なく問うた、そんな感じだった。
シオンは本意を言いかけ、それがあまりに無神経だと気付いてためらった。
聖地そして預言者にとって、御芯体の死は繰り返される一コマに過ぎない。途方も無い数の歴史が泡のように生じては弾け、残り香は足早に空へと溶けていく。霞みがかった記憶の彼方には、この両目が涙を流していた場面が見つかるかもしれない。ただ、それも最早幻影と言ってよかった。
莫大な時の中で手放してしまった感情。それも、かの父の血に奪われたモノの一つなのかもしれなかった。
シオンは開きかけた唇を閉じた。
この、一人の兄と一人の妹の物語も、呼吸を幾億繰り返す頃には忘れてしまっているだろう。
兄と出会った記憶も、妹を追った記憶も、そして妹が兄を殺した記憶も、いずれ失う日がやって来る――この世界がこのまま空に浮かび続ける限り。
「私が生きてるうちは、忘れないでよね」
少女の言葉が耳を撫でた。
「……え?」
二歩、三歩、少女は空の下を歩み、そしてゆっくりと振り向いた。
「兄貴のこと。兄貴のお墓がここにあるのを忘れて、勝手に畑とか作ったりしないでよね?」
淡色の髪が撫でた頬は、胸が軋むほどに明るく笑っていた。
シオンは思わず握りかけた拳を解き、精一杯の笑顔を作って首肯した。
「当たり前だよ」
緑の芝生の迫間には、どこから種が飛んで来たのか、小さな紫色の花が揺れていた。
不意に芝生の上に影が浮かぶ。あ、と思った直後には、影はどんどん大きくなり、最後はストンと二本の足が芝生を踏んだ。見慣れて仕方が無い革の靴だった。
「今日もええ天気やなぁ。あ、もしかして邪魔やった?」
目を上げると、声の主は珍しく、きまりの悪そうな顔をしていた。そんなに暗い顔をしていたんだ、とシオンは痛感した。
小さく息をつくと、自らの惑いを払うように首を横に振った。
「リゼッタも来たんだ」
「ええ」
リゼッタはテッドの腕に抱かれたまま頷いた。
ドレスの裾をたなびかせながら現れる第一聖地のカップルは、いつ見ても見事に絵になっている。しかし姫だっこも、リゼッタにとってはただの交通手段だ。彼女はテッドへ「早く下ろしてちょうだい」と素っ気なく命令した。
「アベル、心配したのよ。怪我は無い?」
芝生へ降り立つなり、リゼッタはドレスの裾を抱えてアベルへと駆け寄った。
「うん。大丈夫……って、ダメ! そこ兄貴のお墓!」
「えっ!?」
リゼッタが急ブレーキを踏む。間一髪、彼女のパンプスは墓標の手前で止まった。
リゼッタはまじまじと木の板を見つめ、そこに書かれた〝アレックス〟の名を確かめた。
「ごっ、ごめんなさいアレックス! 踏んでしまう所だったわ」
「気をつけてよね。テッドさんも踏まないでね」
「了解や。せやけど嬢ちゃん、もっとええ墓標立てたらどうなん?」
「そう? 兄貴なんて木の切れっぱしで十分よ」
アベルは肩をすくめて言った。シオンも、もっと墓標らしい物を用意しようかと言ったが、「庶民はお墓に贅沢しないの」と断られていた。
テッドはアベルの顔を見て、安心したように目を細めた。
「昨日の今日やけど、一応区切りはついたようやな」
「当然よ。兄貴のことなんて、もう何年も前から見限ってるんだから」
「せやったな」
苦笑いするテッド。すると、今度は逆にアベルがテッドを窺った。
「それよりテッドさん。私、テッドさんの作戦に利用されてたって聞いたんだけど?」
え、とテッドは固まった。
「……シオン、お前、半端に教えたやろ」
「僕は知ってる事を教えただけだよ。僕だって裏で何があってたかは知らないんだから」
「ひそひそ言ってないで答えてよ。どうなの?」
テッドはアベルの責めるような視線を受けながら弁明した。
「り、利用言われるんは心外やなぁ。嬢ちゃんらの継代騒動にちょこっと便乗させてもろただけやねん」
そこへ、
「そうよ、アベル。この人が本当に道具に使ったのは私なのよ」
さらりと発したのは、リゼッタ。アベルは驚いた顔で彼女を見た。
「私がレスターから言い寄られている事、この人は初めから知っていたのよ」
「聖地を三つ動かして世界征服しよう、って言うあれ?」
「そう。第五聖地は手に入ったも同然。あとは第一聖地の私の同意を待つだけだ、なんて再三持ちかけられたわ。そんな馬鹿馬鹿しい事、断るに決まっているじゃない」
リゼッタは辟易したように嘆息した。
「使者が来る度に追い返していたら、最終的にアベルを口実に第二聖地に招いて来たわ。至高圏全体を巻き込んでまで誘ってくるなんて、何て傲慢なの。本人にお断りを告げるために出向く事にしたのだけれど――まさか、こんな結末に〝される〟なんて思いもしなかったわ」
ちらりと彼女の目がテッドを向く。針のような視線が彼に突き刺さった。
「全ては第二聖地の芯体を失脚させるため。そのためのコマとして利用されたのよ。私もアベルも、シオンも……むしろこの至高圏全体が」
「至高圏全部を?」
アベルが目を丸くした。
テッドが降伏するように息をついた。
「間違いやないけど、えらい大げさやなぁ。俺がホンマに力借りたんは五人だけや。後のメンツは事の流れに乗っただけやで」
五人? シオンは首を傾げた。
「共鳴のために協力してもらった御芯体は四人じゃなかったの?」
「確かに動いた聖地は四つや。お前は重要な一人を忘れとるで」
その時、シオンは磁場波紋を感じた。
それから遅れる事数秒、地面が鈍い震動を伝えた。振り返ると、一艘の小型ポッドが着陸した所だった。
「良いタイミングね」
リゼッタが静かに言う。彼女の声に導かれるように、ポッドのハッチが開いた。




