Ⅳ ⅹⅴ
瞬きの間だった。
ある種の響きが、風よりも早く至高圏を伝播した。
突然、アベルの足裏から床の感覚が失せた。
「……っ!?」
アベルの体は宙を舞っていた。
なに、これ。
まるで重力が転げたかのように、自分の周りの景色がぐるりと反転した。
視界には、同じく空へと飛び出したリゼッタとレスターの姿があった。二人共に、突然の事態に目を見開いていた。
そして、宙を漂っていたのもつかの間だった。
「ぃっ、ぃやあぁぁあああああっ!」
重力に呑まれた体が、成す術も無く下へと引き込まれていった。
それよりも少し前。
「はぁ……はぁっ、はぁっ」
シオンは肩で息をしながら、昏倒した男の後頭部を見つめていた。超硬質の金属に殴打された傷口から、じわじわと血液が滲み始めていた。
握りしめた懐中時計を伝う血液は、右腕の銃創から流れるシオン自身の血液だった。
シオンはベッドに眠る女性を見た。
彼女の頬には殴られた跡があった。
「ありがとう……エリーシャ。君が銃弾の方向を曲げてくれたおかげで助かったよ」
ベクトル操作だ。エリーシャは渾身の力を振り絞り、放たれた銃弾を逸らしてくれた。
激昂した医師は、怒りとプライドを傷つけられた羞恥のままエリーシャを虐げた。シオンはその隙をついて、背後から男の頭を殴りつけた。
体を縛るような感覚は薄れつつあるが、未だ鈍い違和感が残っていた。
シオンは窓を向いた。階下で鳴った数発の銃声を聞き逃してはいなかった。
別の場所でも、誰かが襲われているのかもしれない。
アベル。
――そうだ、アレックス!
シオンは慌てて懐中時計の蓋を開けた。
「!」
文字盤の上を巡る四本の針は、信じられない速度で回転を始めていた。
「なっ……っあ!?」
突然、地震のような揺れがシオンを襲った。
第二聖地が動いている。レスターが動かしたのか!?
はっ、と戦慄が走り抜けた。
「まさか、第五聖地!?」
急激な時計の回転は、アレックスの命がそれだけのスピードで削られている証だ。
侵入者が彼を手に掛けたのか。あるいは何らかの原因で昏睡が切れたのか。
第五聖地がついに落ち――……いや、違う!
シオンは顔を上げた。横揺れのこの振動は聖地の降下とは無関係だ。
「じゃあ……この運動は……?」
焦燥しながら、再び時計を窺った。四本の針は信じられないスピードでカウントダウンを続けていた。
日を示す太い針がついに一日を切る。
アレックスの所に戻らないと。
でも、アベルが!
その時、窓の外で悲鳴が響いた。
「アベル!?」
シオンは窓へと走り、一気に開け放った。
眼下には、宙を舞う三つの人影があった。
純白のドレスが羽のようにたなびいていた。
アベル。
瞬間、シオンは窓から身を放った。
「アベル――っっ!」
空気の流動定数を変え弾丸のような速度で突き進む。ギシリと響く血管の軋みに奥歯を食いしばった。
凄まじい勢いで空を切る。髪の束が針のように後ろに尖った。
少女は頭から落下していた。気絶しているのか、両目は瞼を閉ざしていた。
シオンは腕を伸ばした。なびく純白のドレスが指先を掠める。
「っ」
焦燥が冷や汗を滲ませる。
落ち着け。この腕は絶対にアベルに届く。自分自身でそう決めた。そう決めたんだから!
激痛が全身で炸裂した。
「……っ、それでも矛盾を埋めて見せる!」
無茶苦茶な方程式が一気に成立した。
重力定数減化。
質量喪失。
宙を支配する自由落下が塗り替わる。ふわりと少女の体が、シオンへと引き寄せられた。
がっ、と抱きしめる。途端にたまらない安堵が胸に広がった。
よかった……アベル!
安心したのもつかの間だった。
雲の向こうに現れた光景に、シオンは目を見開いた。




