Ⅱ ⅸ
地表から投げ出されるように、二人の体が再び高く跳躍した。アベルが驚いたように息を呑む。
重力操作の無い跳躍はわずかな時間しか保たない。
シオンは自由な右手を持ち上げると、親指と中指をきつく擦り合わせた。パチンと音がして、指先の皮膚と血管が弾けた。
傷口から滲み、垂れ落ちる血液。視界に散った色彩にアベルが目を見開く。
「額を……貸してっ」
「えっ、おでこっ?」
アベルが顔を上げる。シオンは風に揺れる前髪の向こうへ指を向けた。
指を離れた血液の滴は、風に巻かれてあらぬ方向へと散っていった。
「くっ」
ダメだ。血が額に付かないと意味がない。
シオンは奥歯を噛んだ。アベルの体を持ち上げようにも、誘導浮力の補助が無い今は抱えるだけで精いっぱいだ。
再度指を弾く。指同士が発した衝撃が傷口を作り、血液がこぼれる。
「し、シオン……っ」
アベルが不安げに呟く。
跳躍が放物線の頂点に達し、重力に呑まれ始める。徐々に下がり始める高度にシオンは焦燥した。それをあざ笑うように、指から散る血液は見当違いの場所へと消えていった。
もう少しなのに!
上へとたなびくアベルの前髪を、シオンは顔をしかめて睨んだ。
その時だった。
「あーあー、見てられんわ」
意識に殴られたような衝撃が走った。
次の瞬間、右胸に激痛が弾けた。
「ぐっ!?」
シオンの胸から吹き出した血液を、アベルは唖然と凝視した。
「う……っ……」
ずるり、と腕からアベルの体がずり落ちる。
まずいと思ったその時、耳元に声が掛った。
「こういうんは思い切りや。覚悟決めてスパッとやらなあかんで」
落雷のような衝撃が体を走り抜けた。
「ぅっ、あああっ!」
ギリギリと、誰かの手が傷口を握りしめる。まるで傷口から血液を絞り出そうとするように。
激痛に霞む視界に白い影が躍った。
「……っ、テッド!」
「覚えとき、シオン」
にやりと笑んだ青年を、シオンは虚ろな目で睨みつけた。
地面が迫る。青年の手が胸を離れた瞬間、シオンの体はがくりと崩れた。そして着地の体制もとれないまま地面に叩きつけられた。
無残に墜落したシオンを、アベルは一言も発せないまま眺めていた。
「こっち向いてや、嬢ちゃん」
はっ、と息を呑んだ。彼女を抱える腕は別の人物に変わっていた。
「だっ、誰」
振り向いた瞬間、額にぴちゃりと液体が落ちた。
「その額に貴き父の血を受けた者――――」
見知らぬ青年が、不思議なアクセントで詠唱を唱えた。
彼の指から滴る血液は、アベルの額に落ち、彼女の顔を縦断した。唇の横を通り、顎の先から空へと垂れ落ちた。
「これで仮契約は完了やで。アンタは今から第五聖地のお姫さんや」
優しげな笑みで青年は言った。
「せやから守ったるって願ってくれへん? 聖地と自分と、アンタの下僕、預言者シオンをや」
「げ、下僕?」
「せやで。聖地の主は御芯体。あいつはもう、嬢ちゃんの下僕や」
戸惑うアベルへ、青年はからかい交じりに言った。
緩い風に白髪がさらさらと揺れていた。
「さあ、祈るんや」
血液の飛沫が散った。
「至高たる科学領域に願いを込めるんや!」
少女は夢中で彼の指先を仰いだ。
澄んだ夜空。流れる空気。その果てより遥か先に、聖なる陸地の影が浮かび上がった。
空間を越えた映像が少女の瞳に飛び込んだ。
瞬間、至高圏に広がる何かが塗り替わった。




