Ⅱ ⅳ
昼間の作業着姿が嘘のように思えた。ざっくりした編みのセーターに、シンプルなプリーツのスカート。決して高価そうなものではなかったが、彼女は見事に着こなしていた。
呆けたように仰いでいるシオンを、アベルは不可解そうな顔で見下ろした。濡れた髪を拭うタオルを下ろすと、ウェーブの緩んだ髪がぱらりと肩に広がった。
「どうかしたの? って言うか、何であんたも濡れてるの。まだ寒いんだから風邪ひくわよ」
ぽいとタオルを投げてよこす。半乾きのタオルを、シオンは呆気にとられた顔のまま受け取った。ほのかなシトラスの香りが鼻をくすぐった。
「あ……ありがとう」
水滴など、昇華の意識を放てば一瞬で乾いてしまう。しかし彼女の好意は純粋に嬉しかった。タオルを頭にかぶせながら、何故だか頬が熱くなるのを感じた。
そんなシオンなど構わず、アベルはガラクタまみれの船内を進むと、がちゃりと小さな箱を開けた。どうやら冷蔵庫のようだ。
「あーあ。牛乳全滅。腐っちゃいないけど悲しいくらい室温だわ。どうせならホットミルクになればいいのに」
小瓶を取り出して文句を呟く。今朝までポッドの自家発電は生きていたらしいから、冷蔵庫も無事に役割を果たしていたのだろう。小箱の中には街で買い込んで来たらしい食品がちょこちょこと入れられていた。
「ねぇ、電気も起こせるんでしょ?」
ごそごそと冷蔵庫を探りながら問う。シオンは一応頷いた。
「それは簡単だけど……でも、今電気を回復させた所で、何も解決しないと思うよ」
少女の動きがピタリと止まる。
「アベル。シャワーが終わったのなら、ちゃんと僕の話を聞いて。君に次の御芯体として至高圏に来てもらわないと、近いうちに第五聖地は落ちてしまう。そうなったら地界の陸地も全部、重力崩壊を起こして砕けてしまうよ」
シオンは立ち上がった。
「このままだと、本当に文字通りの終末が来る。洪水以降のこの世界は、全てが聖地の安寧に依存しているんだ。だから今の御芯体、アレックスの命が潰える前に絶対に」
歩み寄りかけた足を止めた。
「――――兄貴は何で、私を呼んだんだろ」
薄闇の中、少女の肩は酷く淋しげに見えた。
僅かに頭を擡げて、アベルは呟いた。
「今、空の上で死にかけてるのよね、兄貴。それに終末昏睡ってのが解けたらすぐに死んじゃうんでしょ?」
「……うん」
「最後に私に会って、どうするつもりなんだろ。罵られて蔑まれて、思い出も全部否定される事くらい分かってるはずなのに。兄貴も馬鹿じゃないからさ」
くるりと少女はこちらを向いた。淡い笑いがそこにあった。
「私たちね、小さい頃に両親を亡くして、金持ちの家で働いてたんだ。酷かったのよ? 子供だとか全く考えてくれない奴らでさ、朝から晩まで雑用雑用。掃除に洗濯、靴磨きまでやらされたわ。そしてちょっとでもヘマするとぶたれてやり直し。食事も朝と夕方にちっちゃなパンとぬるいスープだけ。ホーント、金持ちって底意地悪いわよね」
すらすらと身の上を語る。笑みに差した悲しげな影は、薄闇の中でも明らかだった。
「おまけに私も兄貴も科学技師の才能なくてさ、馬鹿にされるのよ。一発があれば子供でも稼げるのになぁ、とか、能無しは一生下働きのまんまだ、とかね。私だって思ってたわよ。才能さえあればこんな屋敷なんて抜け出すのに、って」
才能が無かった?
シオンは彼女の言葉に耳を疑った。
アレックスはかなり優れた腕を持つ科学技師だ。初めて出会った時もブローチ型の変換機を持っていた。返せば、それだけ小さな変換機でも科学現象を誘起できると言う事だ。
しかしアベルの話は違う。
アレックスは妹に自分の才能を隠していた? なぜ、そんな事を?
唐突に出てきた不可解にシオンが戸惑う中、アベルは話を続けた。
「実は兄貴と別れた日……あんたが兄貴を連れて行った日ね、喧嘩してたんだ。私と兄貴」
シオンの反応を待つようにアベルが口をつぐむ。シオンは慌てて顔を上げた。
「け……喧嘩?」
「そう。兄貴のやつ、仕事が終わった後に時々屋敷を抜け出す事があってね、その日もそうだったの。私は小さかったから、こっそり部屋を出て行く兄貴を半分眠りながら見てたわ。どこに行ってるのか、とかは全然知らなかったし、とにかく毎日疲れてたから疑問にも思わなかった。でも……その日はちょっと違って」
アベルの視線が下を向く。
「兄貴が出て言った後に叩き起こされたの。明日早くに来客があるから、今から玄関を綺麗に掃除しとけって。十一歳の女の子に普通そういうこと言う? でも従うしかないから、半分泣きながら掃除を始めたわ」
小さくため息をつく。
「待っても待っても兄貴は全然帰って来ないの。今まで一人で仕事するなんて初めてだったから余計に不安だったわ。ボロボロ泣きながら掃除して、やっと終わるって頃になってようやく兄貴が顔を出したの」
少女は腕を組む。
「そして、何て言ったと思う? 『アベル! お待たせ!』よ。それ聞いた瞬間に私、兄貴に怒鳴りかかってたわ」
お兄ちゃんなんて大嫌い!
その言葉に殴られた彼は硬直し、妹の顔に浮かぶ涙と憎悪に息を呑んだ。
そして自分を突き飛ばして走り去った小さな背中を、呆然と立ち尽くしたまま見送った。
その時彼の手からこぼれ落ちた小さなキャンディは、夜が明けた後に大人によって見つけられ、キッチンから盗んで来たのだと妹が冤罪を被ることになった。
そう――――その時彼はもう、屋敷から姿を消していた。
もとい、地界の土の上から。
「……」
シオンは淡く納得した。
つまり僕が出会ったのは、アベルの痛烈な一言を受けて屋敷を出たアレックスだったのか。どうりであんなに思いつめた顔をしていたんだ。
「私を含む全てを放り出して逃げたのよ、兄貴は。金持ちの屋敷での労働も、大人たちの勝手な蔑みも、終わらない毎日も、妹への言い訳も……全部放り捨てて……空の上に逃げたのよ」
くっと両目をしかめる。
「それから私は一人になった。今まで辛い労働を耐えてこられたのも、みんな兄貴が一緒にいたからなのに……。隣で笑ってくれるたった一人の肉親がいきなりいなくなって、耐えられるなんて思えなかった。でも耐えなきゃ生きていけなかった。兄貴の分で倍になった仕事に潰されかけながら、同じ毎日を繰り返したわ」
シオンは無言のまま聞いていた。
「そんな風に下界に残された妹が、二つ返事で会いに来るなんて考える方が信じられないわ。兄貴が何を言うつもりか分からないけど、どんな言い訳があったとしても私の口から出るのは否定と罵倒だけよ。たとえそれが最後の再会だって知ってても――――ね」
軽く視線を流し、アベルは唇を閉じた。




