Ⅱ ⅱ
少女は裸足の足を歩ませた。足音を潜ませ、一歩ずつ。ガラス戸のレールをまたぎ、ひやりとした石の床に降りた。
青年は気づいた風も無く、手すりに座って向こう側を眺めていた。淡い風が彼の白髪を撫で、一呼吸遅れて少女の長い髪を躍らせる。石壁を伝う芝生のさざめきに、ドレスの衣擦れの音は覆い隠されていた。
どくん、どくんと自らの心臓が跳ねるのを少女は感じた。奥歯を噛みしめ、唇をぎゅっと結ぶ。見据える先の背中は今も、腹立たしいほど平和なたたずまいでそこに在った。
少女は胸の前に両手を擡げた。
そして手の平を、彼の背に向かって突き出そうとした。
はっ、と少女は固まった。
息を呑んで凝視した先。青年の着崩したスーツの肩口には、真新しい血液の飛沫があった。
緋色の点描画を、少女は憑かれたように見つめた。
擡げた両手が微かに震えた。
瞬間、ぐっと手首が掴まれた。
「!」
がくんとバランスを崩す。視界からスーツの背が消え、階下の芝生の景色が開けた。
落ちる! そう認識した瞬間、体がぐるりと反転した。
「きゃっ!」
背に鈍い衝撃が走る。細長い感触はバルコニーの手すりだった。
少女の体の上に影が落ちる。
「やっぱり俺のお姫さんは侮れんなぁ」
「はっ、放しなさい!」
微笑む青年へと、少女は叫んだ。両腕を掴まれ、手すりに押さえつけられた格好だった。
彼は気にした風も無く笑うと、彼女に更に深く覆いかぶさった。
「どないしたら……俺も気に入られるんやろ」
「っ……テッド!」
「何でもやってええねんで? 俺はリゼッタのモンや。この第一聖地の御芯体たるお前が〝今は〟世界の何よりも大切なんや。せやから心の底から思ってんねん。お前にちょっとでも気に入られたい言うこと。本気やで」
細められた青年の目。瞳の奥の深い色を、少女はうろたえた顔のまま見つめた。
「……やめて」
「何もしてへんで。ただ俺の心の内を話しとるだけや」
少女の髪が風に巻き上げられる。頬を撫でたやわらかな毛先を愛でるように、青年は艶色の毛束に触れた。
「そないに、俺と一緒に自分を受け入れてしまう事が怖いん?」
瞬間、少女の顔が強張った。
パン! と破裂音が響き、青年の顔が真横を向いた。
「……」
「勝手な事を言わないで!」
少女が怒鳴った。
青年はゆっくりと彼女を向いた。美しい顔は激しい怒りに染まっていた。
「私がここを継いだのはあなたのせいじゃない! あんな事をさせたのも、こんな生を送る羽目になったのも、全部あなたのせいよ、テッド!」
青年は微笑んだ顔のままだった。
「あなたを許すつもりは無いわ。いくら時が経とうと、あなたが聞こえのいい言葉で唆そうと、私は絶対にあなたを許さない!」
少女の強い視線が青年を貫く。それに押し除けられるように、彼は身を引いた。
ばっとドレスが翻る。彼女は即座に彼の下から逃れ出ると、無言で彼の横をすり抜けた。
怒りを纏ったドレスの背を、青年は相も変わらず穏やかな顔で見ていた。
「許されよう、なんて思わへんで」
ピタリと少女の足が止まった。
裸足の足を一瞥し、青年は言った。
「己の行動に己が許しを乞うてどうすんねん。それが罪や自覚しとっても、正しい思うからやったんやろ? せやのに後になって『許して下さい』言うんは卑怯と違う? そないな半端な覚悟しかあらへんのなら、被ったモンも報われんわ」
風がドレスの裾を大きく揺らす。しかし少女の肩はピクリとも動かなかった。
「俺の罪は、世界が終わる時まで罪のままや。端から洗われようなんて思ってへん。許されんままでええねん。俺がその時正しい事や思ってやった事なんやから、後悔も懺悔もするつもりは無いんや」
「……」
ぺたり、と裸足の足が石の床を歩んだ。
少女は何も言わないまま、緩い歩みでガラス戸へと進み始めた。淡々とした足取りだった。
ふと青年は思った。
「最高に恨まれとる奴から殺される言うんは、そんな罪人にとってはええ最期かもしれへんな」
少女はガラス戸をくぐりかけた所だった。
「……どういう意味?」
「結局生きとる間は、誰もそいつの罪を許さんかった言う証なんやから」
青年はそう言うと、澄んだ青色の空を眺めた。
少女は振り返った。聞こえた音は、青年が手摺の上に両足を置いた音だった。
「そしたらシオン急かしてくるわ。そろそろ忠告したらなヤバい事になるわ」
青年はスーツのポケットに両手を突っ込むと、散歩にでも行くような足取りで宙へと歩み出した。
「優しい兄ちゃんやろ?」
肩越しに投げられた笑みを、少女は無表情に受けた。
スーツの背が雲の向こうに消える。彼の姿が完全に見えなくなった後、少女は大きく息をついた。
「あなたみたいな兄、私はお断りだわ」
シオンも災難ね。そうつなげると、くるりとドレスの裾を翻した。




