第6話 夕陽彩る彼岸花 II
暑い夏の日の事、その時、研究所は、耐久工事をしていた。
「ご馳走様でした!」
寝坊したせいで、皆より遅く朝食を食べ終えた明は、素早く食器を当番をしている京に預けた。
「早く行かなくちゃ!」
今日は、所長さんによる勉強会があるのだ。当番以外で遅れたら、きっと宿題が増えるだろう。今朝起こしてくれなかった燐や、雪を恨めしく思いながら、会議室へと向かう。
「はい、ではここを杏さん、解いて下さい」
所長さんが、数少ない銀色の髪を弄りながら、数学の問題の回答を、杏に解くよう指名した。やはり、もう勉強会は始まってしまっているようだ。そろりそろりと、音を立てないように匍匐前進をして、自分の席に向かう。
ふと、隣の席の燐を見ると、ニヨニヨしながら此方を見ていた。明は咄嗟に、口に人差し指を立て、黙るように合図を送る。だが、そんなものが通用するような奴じゃない事ぐらい分かっていた。
「所長さーん、明が来ました〜」
この裏切り者ぉー!
明は心の中で猛烈に叫んだ。
「おはようございます、明さん。何か言う事は?」
所長さんのにこやかな笑顔に隠された静かな怒りに恐怖しながら、明は服についた埃を払い、謝った。
「あぅぅ、遅れてごめんなさい」
周りが笑いに包まれた。明は顔を羞恥に染め、そそくさと席に座る。
「くひひ、残念だったね」
相変わらずニヤニヤしながら、此方を見る燐に、怒りを覚え、一発殴ってやろうかと拳に力を込めた。
「そこ! お喋りしない!」
所長さんの叱責と共に、おでこにチョークが飛んできた。
酷い、まだ何もしてないのに。
恐らく、おでこについているだろう、白い粉を袖で拭い、ノートを開く。
「今やってるのは、百八十ページだよ」
燐が開いた教科書を見せながら教えてくれる。こういう所があるから、燐という少女は恨むに恨めないのだ。
「ん、ありがと」
「どういたしまして」
燐に教えて貰った通り、教科書を開く。どうやら、三角関数の応用をやっているようだ。ここは、昨日の内に予習をしておいたから、当てられても大丈夫だろう。
二十分、三十分と時間が過ぎて行く。周りの人達は、うつらうつらと船を漕いでいた。最早、真面目に授業を受けているのは自分と栞だけなようだ。これには所長さんも、呆れた顔をしている。
「全く、皆さん、夜更かしなんてしてないでしょうね。今夜見回りに行きますよ」
「所長さん。見回りなら、お兄ちゃんが良いです!」
何故か飛び起きた桃が、そんな事を言う。
「康太君ですか。そう言えば、今日帰って来る予定でしたね」
この研究所の職員であり、自分達と同じく、一つ前の所長さんの時の実験の為に作られ、唯一の生存者であるお兄ちゃんは、今北海道に出張中なのだ。確か、有名な教授に何かを教わりに行くんだとか。そのお兄ちゃんが、今日なんと帰って来るのだ。
「あの、何時頃帰って来るんですか?」
「確か昼過ぎだったかと。その時は皆で出迎えましょうね」
今から昼が楽しみだ。少しワクワクしながら、午前中の勉強会が終わり昼御飯の時間になった。
「今日のメニューは、冷やし中華に、ホタテ入り冷水スープだ。好みのゼリーも持ってってくれ」
昼御飯を配っているシェフ姿の克弘が言う。明は、涎を垂らしそうになっている雪の襟首を引っ掴み、雪の分と自分の分を貰って、自分達の班が座る席についた。
『いただきます!』
班が全員集まった事を確認すると、一斉に、食事の挨拶をする。
「克弘の作る御飯は何時も美味しいねぇ」
一口食べるごとに、口いっぱいに広がる美味しさに、思わず舌鼓をしてしまう。
「明の作る御飯も負けてないと思うけどなぁ」
燐が、スプーンでスープを掬いながら、呟いた。
「そうだな、明がこの研究所の中で一番料理が上手いと思う」
「あぁ、俺もそうだと思うぞ。あいつは、そんなお前に対抗意識を燃やしているようだがな」
「明には叶わないわよ。きっと」
順に優人、佳亮、栞が明をベタ褒めし、燐、雪はウンウンと頷いた。明は、急にそんな事を言われて、取り乱す。
「そ、そんな事、ないよ⁉︎」
慌てすぎて声が裏返ってしまった。赤くなった顔を隠すように俯くと、皆がクスクスと笑いだした。
「んもう! 皆してからかって、もう知らないんだから!」
嬉しさと、恥ずかしさでグチャグチャになった心では、正常な思考など出来る筈も無い。そんな捨て台詞を吐いて、最後まで完食せずに、その場を去った。
「あぁぁ、恥ずかしいぃ!」
二段ベットの下で、抱き枕を抱きしめて、ゴロゴロと転げ回る。
「お腹空いたし……もう、全部優人が悪いんだからぁ」
何故か優人に全て責任を押し付けて、恨み言を吐きまくる。
そう、全て優人が悪いのだ。グゥと鳴る腹を抑え、少しはマシになるように、黄金糖を咀嚼する。
と、その時、ドアをノックする音が部屋に響いた。
「明、優人だ。もうすぐ康太兄さんが帰って来るらしいぞ。一緒に行こうぜ」
ガバッと起き上がり、髪を梳いて、鏡を見て、何処も異常が無いか確認してからドアを開け、優人に飛び付き、先ほどの仕返しをしてやった。その間、約一分。我ながら良く出来たものだと思う。
「グフッ! いきなり突っ込んで来るなよ……少し痛かったぞ」
「へへん、ボクをからかった罰なんだから」
優人の腰に巻きつく明を、優人は優しく引き剥がした。
「ったく、そんな事根に持つなよ。ほら行くぞ」
「むぅぅ」
明をおいて先に行ってしまう優人を追いかける。今日こそは手を繋ごう、と手を伸ばすが、途中で恥ずかしくなり思い留まる。
この意気地無し! と心の中で自分を罵倒し、明日こそは必ず、と気合いを入れた。
研究所の玄関ホールで靴を履き、外に出ると、広場にはもう既にお兄ちゃんは着いてしまっていたようで、一台の車に、皆が集まっていた。
「あぁ、やっぱりもう来ちまってたか。お前があんな所でウジウジしてるせいだぞ」
「ユウ君達がボクをからかわなければ良かっただけの話じゃない?」
優人は、ため息をつくと、前に歩き出した。
何かがおかしい。何故皆こっちをそんな心配そうな目で見ているのだろう。
「いや、違う、上⁉︎」
皆の視線は自分達では無く、その上を見ていたのだ。
明は何も考えず走りだし、前を歩く優人を突き飛ばした。
途端に胸に奔る焼けるような痛みと、金属音。
「かふっ」
なんて事は無い。上から鉄筋が落ちて来たのだ。
ふと、朧げな目で、上を見ると、ニヤニヤと笑う作業服を着た男達が三人。
あぁ、そうか。あいつらがやったのか。明は血が溢れ出る口を歪め、その男達に向かって嗤ってやった。ざまぁみろ、と。お前らが始末出来た害虫は一匹だけだぞ、と。
声を出そうと試みるが、どうやら肺がやられてしまっているらしく、息を吸うたびに、空気が漏れるのが分かる。
「明ィィ!」
叫び声を上げながら、擦り傷だらけになった優人がこっちに向かってやって来る。
良かった。命よりも大事な人を守れて。
良かった。最後に最愛の人の姿を見れて。
明に突き刺さった鉄筋を引き抜き、どうにか助けられないかと、唇から血を流しながら懸命に考えている優人の手を撫で、首を横に振った。最早、どうやっても助からない事は、自分でも分かっていたからだ。
明は、思い通りに動かない唇を、出来るだけ、分かりやすいように動かし、伝えた。
“今までありがとう”
ちゃんと伝わったのだろう。涙を流し、血だらけの自分を抱きしめる優人の胸の中で、明の思考はブラックアウトしていった。
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