嵐の予感
他に戻るべき場所もないので私室へ向かう。
その途中、執務室から出てきたシルヴェールと会った。彼はこちらに気付くと廊下の端に寄った。
リーズは、ふと足を止めてシルヴェールを見た。
最初の印象と違わず、礼儀正しい彼を眺めて嘆息した。
「やっぱり、無理そうよね」
「……あの、姫? 私に何か?」
困惑した声が問うてくる。
確かに、足を止めて向き合っているのだから、何か用があってのことだと思うのは当然だ。
だが、寸前になって聞こうと思ったことに返ってくる返答に察しがついてしまったのだ。
この勤勉なオーレリアンの従者は、決して主の意向に沿わないことはしない。例えどれだけとげを混ぜまくった苦言を主にぽんぽんとぶつけていたとしても、言わないだろう。
だが、一応ということもある。
リーズはダメもとで尋ねてみることにした。
「聞いても無駄だと思うけど、やっぱり不安だから聞くわ。返事は期待していないから言えないならそう言ってね」
「はあ」
「先ほど、ダルモン侯爵令嬢がいらっしゃっていたの。彼女はオーレリアン様の悪いうわさについてわたしが悲しんでいないか心配してくれたの」
そう言うと、シルヴェールの顔色が一瞬で固いものへと変わった。どこか探るような視線をリーズに向けてくるが、何も言わないところを見ると、言葉のつづきを待っているようだ。
「でも、わたしは実際そんなことをしている姿を目にしたこともないし、マノンや護衛に来た騎士たちからもそんな話は聞かなかったから、信じられないのよ。でも、これだけ大勢がそう言うということは、きっとうわさのもとになるような事があったのよね?」
「……わたしの口からは、お教えいたしかねます」
予想通りの返答に、リーズは肩をすくめた。
最もオーレリアンに近く、最も事情を知るであろう彼に今まで何ひとつ聞かなかったのは、彼が何一つ漏らさないであろうことがわかっていたからだ。
「でしょうね、ごめんなさい。だけど、これは答えて……オーレリアン様は、わたしを裏切ったりしないわよね?」
「もちろんです。それはこの私がお約束いたします。
ただ、リアン様は今まで否定されつづけて来られましたから、いざとなると腰が御引けになるようでして……もう少し、お時間が必要になるかと存じます」
どこか悲しそうな目で、シルヴェールは言った。リーズは、遠い過去を思い出しているような表情に心が沈むのを覚えた。
「そうですか、ありがとう」
リーズは、それでもほんの少しだけ満足して立ち去りかけた。が、すぐにシルヴェールの声がかかり、足を止める。
「リーズ姫、殿下は長いこと貴女のような方に会えなかった。ですが、貴女を大切に思っていらっしゃることはこの私から見ても間違いありません。ですから、どうか……」
その先は言われなくてもわかった。
ここへ来てからというもの、国王陛下や、王太子、王太子妃にあれほど言われたのだ。忘れたくても忘れられない。
特に、逃がすまいと婚礼を急ぎまくった国王の執念とか、お茶会の度にちくちくと刺されたりとか。
「わかっています。もう皆さんに何度も言われましたから」
だから、リーズは微笑みをシルヴェールに返し、今度こそ私室へと戻った。
◇
夕刻近くなると、雨が激しさを増してきた。
雨は嫌いだ。
無力で、何もできなかった過去を思い出す。泥にまみれ、血にまみれ、手を汚すことでしか何ひとつ守れなかった。あの頃を……。
オーレリアンはひとつ嘆息して、雨が打ち付ける窓を眺めた。嫌な気分だった。こういうときに、間違いを犯すのだ。
「リーズ姫がいるんだ……」
ぽつり、と呟く。近頃ではその言葉がお守りのように作用して、忌まわしい行為からは離れていられた。けれど、いざ彼女と本当に夫婦になろうとすると、気が咎め、先へ進めない。彼女が、疑問に思っていることもわかっている。言い訳くらいするべきだということもわかっていて、それでも、言えなかった。
あの真っ直ぐな瞳に、差し伸べられた細い腕に、抵抗しなかった柔らかな体に、値するものを自分は本当に持っているのか?
何度問うても答えは返らない。
雨が激しさを増す。
空気に混じる重苦しさが、あの時を思い出させる。
「……っ」
オーレリアンは、耐えがたくなって部屋を出た。まだ夕刻だというのに、曇っているせいでどんよりと暗い。独特の暗さの中を歩いていると、リーズではない女性の姿が視界に入った。
どうやら、帰ろうとしたが雨の勢いに気圧されて戻れないでいるらしい。
一体、何の用でこの離宮を訪れたのだろうかと訝しむうちに、雷鳴が轟く。その音に、雨の飛沫にオーレリアンの中で過去と現在が曖昧になって入り混じった。
次の瞬間、オーレリアンは女性の元へ足を向けていた。
その口元に浮かんでいたのは、笑み。しかし、目は一切笑っていなかった。




