暗雲、そして婚儀
声を掛けることすらはばかられて、リーズは口をつぐんだままじっと耳を傾ける。
「それでも、最後の機会だと思い、ゆっくりと私という人間を知ってもらって、せめて友人のようになれたらと願っていました。それでも嫌がられたら仕方がない、と」
声に、微かな震えが混じる。
リーズは反らしていた目をふたたび彼に戻した。優しげで整った容貌に浮かぶ、乞い、願うような色に息を飲む。
「リーズ姫、貴女は優しいから、きっと私が何をしてもここにいつづけてくれるでしょう。けれど、私は知らず知らずのうちに貴女を傷つけ、苦しめるかもしれない。
それでも、貴女は私と結婚して下さいますか?」
重い質問だった。
簡単に、はい、もいいえ、も返せない。
リーズは、彼にはこの蝶たち以外にも何か秘密があるのだとさとった。それが、結果としてリーズを苦しめるかもしれないという。
場に、沈黙が流れる。
元々、政略結婚でここに来た。どちらが断っても、国の関係は寒いものとなるだろう。だから、模範解答としては「はい」が正解なのだ。だというのに、今まで四人もの女性が彼のもとから去っている。みな、リーズと同じように、覚悟をしてきたはずだ。
だというのに、逃げた。
それが何を意味するのか、今のところはわからない。
だが、それがなんだというのか。
完全な人間などいない。いたら、それこそが神だ。リーズとて、言いたくないことを抱えている。知られたくないことがある。
互いが望んでいるのに、なんの壁があるだろう。
「もちろんです。オーレリアン様……私は貴方の妻になるためにここへ来たのですから」
「姫……」
「ですが、ひとつ訂正させてください。私は、貴方が思うような人間ではありません。優しくもないし、素晴らしくもない、ただ王女に生まれたというだけの普通の愚かな人間です。ですから、そんなに気負わないで下さい」
あまりにもオーレリアンが美辞麗句を並べるので、リーズは釘を刺すつもりでそう言った。だが、彼の方は首を横に振った。
「そんなことはありませんよ、貴女は私なんかにはもったいないくらいの方だ」
ほとんど意固地に、オーレリアンは言い返した。リーズはこれ以上は何を言っても無駄だろうと思い、聞かなかったことにした。
「……戻りましょうか、オーレリアン様。今夜は素晴らしいものをお見せいただき、ありがとうございます」
突然話題を変えられたオーレリアンは、一瞬不満そうにしたものの、ひとつ息をついて話を合わせてくれた。
「いえ、私の方こそ失礼がなければよかったのですが。では、休みましょう」
「はい」
リーズは微笑んで、腕を差し出してくれたオーレリアンに歩み寄った。その腕に触れ、内心では私のほうこそ貴方にはもったいないくらい、と思った。けれど、この腕を離すつもりはなかった。
この人の役に立とう。
本当は、自分にはもったいないくらいの役目だ。けれど、必要とされるのなら、ここにいよう。
結婚することが彼のためになるのだ。
自分の心に言い聞かせるように、リーズは心の中でそう繰り返していた。
◇
やがて、結婚式の日がやってきた。
本格的に夏になる前には、と言っていた通り、暖かいが爽やかな空気の時期だ。当日は良く晴れた日で、天も祝福してくれているようだと国王はご満悦だった。
やがて、各国の賓客がアウロス王宮の敷地内に建つ礼拝堂に集まると、この日のために仕立てられた格別に美しい花嫁衣裳に身を包んだリーズは、ゆっくりと祭壇へ向かう。
オーレリアンは緊張した面持ちで、それでも嬉しそうに待っていた。やがて、大司教が誓いの言葉を問いかける。
ふたりは誓いの言葉を述べ、正式に夫婦となった。
それから、花で飾り立てられた馬車に乗り込み、王都の大通りを民衆に祝福されながら一周して離宮へと戻る。
集められた賓客たちへの対応は国王や王太子夫婦が受け持つ。
ここからは、ふたりきりだ。
一応、初夜について教えられてはいる。怖くない、と言えばうそになるが、そもそもどういうものか想像できないので、漠然としたものでしかなかった。
まだ微妙に納得していない様子のマノンに身支度を手伝ってもらったあと、リーズは寝室へ向かう。扉を開けた先にあったのは、それまで使っていたものより大きく、優美な寝台だ。
これからは、ここで休むことになるのだ。
リーズはとりあえず寝台へ向かい、腰をおろし、オーレリアンを待つことにした。
◇
自室で、オーレリアンは椅子から動けないでいた。
「殿下……とっとと行って下さいよ。ちなみに、部屋までの付き添いは辞退させていただきます」
椅子の上で彫像と化していたオーレリアンは、従者の容赦ないセリフにのろのろと顔を上げた。目を見開き、せっかくの端正な顔立ちが台無しになるような表情で、シルヴェールを見る。
「何です?」
「信じられない!」
オーレリアンは突然叫んだ。びっくりしたシルヴェールはぎょっとして眉をひそめ、一歩ほど後ずさった。しかし、そんな風に変な目で見られていることなどおかまいなしに、オーレリアンは話し続ける。
「確かにちゃんと誓い合った、教会も認めたし、記録にも残ったし、間違いなく、彼女が妻になった。でも、本当にいいんだろうか、許されるんだろうか、シル……私はこのまま寝室に行ってもいいんだろうかっ!」
わめくオーレリアンに、シルヴェールは心底面倒そうにため息をついた。その様子に、やっぱり良くないのだろうかと不安なる。だが、返ってきた答えは真逆だった。




