マノンの報告
それからもう一度、絵を見る。
絵画の中の王妃は幸せそうで、胸に幼子を抱いている。幼子は一番末の王子だろう。慈愛にあふれたその姿を後ろから守るように、国王が立っている。
この絵は、恐らくオーレリアンが一番幸せであった頃のものだ。
彼もまた、なにかしらの傷を抱えている。
「素敵な絵ですね」
リーズは静かに言った。
もっと色々なことを言おうと思えばできるけれど、何を言ってもむなしい気がしたのだ。失われたものはもう戻らないことなど、誰しも知っていることなのだから。
「ありがとうございます。きっと、そう言って下さると思っていました。さあ、他の絵も紹介します。
こうして絵で見た方が、アウロスの歴史について良くわかると思うんです。私がそうでしたから」
「それ、わかります」
リーズは肩をすくめた彼のしぐさに、くすっと笑い声をもらした。それは、ここへ来て初めての心からの笑みだった。
「良かった。じゃあまずは……」
オーレリアンは絵をぐるりと見回した。
「あれにしよう」
そう言うと、リーズの手を引いて歩き出す。次の絵はアウロス王国の初代が描かれたものだった。
そうしてあちこち絵を見て回り、時間はあっという間に過ぎた。
思いがけない時間だった。
リーズは、少し前に受けた衝撃が軽くなっているのに気づいたが、今度は別の何かが胸に去来してきたのを感じていた。
◆
やがて離宮に戻る時間になり、オーレリアンと共に歩いて戻ったリーズは、部屋に戻る前にマノンに捕まった。待ってましたと言わんばかりの彼女に気圧されながら、リーズは私室へと急ぐ。
マノンは扉をぶち破らんばかりに勢いよく開けると、リーズを談話室の椅子に掛けさせて、鼻息も荒く言った。
「お待ちしていましたよ、何もされませんでしたか? まあ、人目がありましたし、まだ結婚前ですし、リーズ様は王女殿下ですからね、あのケダモノでもそこまではしなでしょうけど」
「ちょ、ちょっと待って、なにそのケダモノって」
ほんの少し前までの淡い感情が一気に吹き飛び、リーズは困惑の声をあげた。絵を見ながら様々なことを穏やかに説明してくれていたオーレリアンは、どこまでも紳士だった。
リーズに対し、やや過剰ともとれるほどの気づかいをしてくれているのが特に強く伝わってきた程だ。
きっと、こういう優しさに惹かれてしまった女性が愛人になったのだろうと思っていたから、マノンの口から出てきた「ケダモノ」の単語と彼の印象が全くかみ合わない。
「ケダモノはケダモノですよ。私はちゃんと聞いてきたんです、実際に殿下に口説かれて愛まで誓ったのに、あのケダモノは翌日には綺麗さっぱり忘れてたんですって!
しかも、ひとりならまだしも十人以上いたんですよ!」
ふるふると拳を震わせてマノンは怒った。
リーズは、どう反応したらいいかわからなかった。かつてマラキアにいたとき、貴族の若者がそんな振る舞いをしたせいでやめていった女官がいたことを思い出す。
結局、彼もその貴族と同類なのだろう。
リーズは、胸が芽生えていた何かが凍りついたのを感じた。彼がリーズに見せる気づかいは本物だろう。
しかし、それはきっとリーズが王女だからだ。
そういう特別な立場にない女性は、彼にとってはその程度でしかないということなのだ。
「リーズ様! マティルダ様に文を書きましょう。こんな結婚、断固としてお断りすべきです。あのケダモノはリーズ様にふさわしくありませんっ!」
マノンは憤慨しながら言い放ち、書きもの机に歩み寄ると中から紙を一枚取り出して振って見せた。
それを眺めながら、リーズは肩をすくめた。
正直、マノンの言う通りだと思った。姉のマティルダに文を書けばいいと思った。なんとかしてくれると言っていたから、この結婚は破談になるだろう。
だが――。
「書かないわ。結婚をやめたら、今度こそアウロスとマラキアの関係にひびが入ってしまう。大丈夫、少なくとも殿下はお優しい方ですもの、酷いことはなさらないはずよ」
「そんな! リーズ様ぁぁ~、お願いですから書きましょうよ」
「だめよ、後わたしの筆跡を真似して姉に送るのもやめてね。もしそんなことをしたら侍女を替えるから」
わざときつく言うと、マノンは黙ってしまった。
しかし、目にみなぎる怒りが消えていないところを見ると、諦めていないようだ。何をするつもりか知らないが、リーズは聞く気はなかった。
けれど、マノンに感謝はしていた。
ここまで想ってくれる侍女なんてそうはいない。
「ありがとうマノン。あのね、わたしは貴女がいればそれでいいの、もう満足してるのよ」
「り、リーズ様……」
涙腺が耐えきれなくなったのか、マノンが涙ぐむ。それを見て、リーズはひとつため息をついた。




