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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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呪縛

作者: FUJIHIROSHI
掲載日:2026/05/12

1

「あー美味しい。やっぱりこれだよね」


 私はオフィス街の喧騒(けんそう)を忘れさせる開放感のあるこの店『レモコン』で塩レモネードを飲み干した。

 額の汗を拭いながら、江角透子(えすみとうこ)と『レモコン』のテラスで昼休憩を楽しんでいる。

 彼女とは職場は別だけど、互いの会社からの中間地点であるこの店で毎日のように会っていた。


 その日の互いの様子を見て、食事や飲み物を選んで「どう?」と聞く。ちょうどそれが欲しかった。私たちは互いにうなづくだけ。

 まるで意識を共有しているよう。


 だけど、時々——あ、まただ。携帯の画面を見つめる目。最近はほとんど見なくなったけど、時折見せる焦点の合っていないような目。この時の透子は何を考えているか分からない。


 そんな彼女に、付き合って半年になる彼氏がいたらしい。まったく、いままで内緒にしてるなんて、むむむむ、だぞ。

 でも、とても嬉しい。


 一方私は、未だに男性は……無理だな。


「ねえ、みすず、見て」


 透子が携帯をくるりと向きを変えて見せてきた。画面の中の彼女の、これまで見たことのない真っ直ぐな笑顔が素敵。ふむ、その隣にいるのが彼氏だな——。


 え?


 それを見て、急激に鼓動が波打つ。血の気が引いていくのが分かる。


「え、どうしたの、みすず。ねえ、みすず大丈夫? ちょっとみすず? みすず」


 必死に透子が背中をさすってくれている。駄目だ。落ち着いて、落ち着け……。


「あ、あれかな、年かな? たまに動悸がしたりして」


「23で年ってことはないでしょう」


「ははっ、大丈夫。ごめん、もう行くね。あとで連絡する」

 


 別れる間際、携帯をちらりと見て「ねえ、みすず」透子は言った。


「あの約束忘れてないよね?」

 

 ドキリとした。


「も、もちろんだよ。どうしたの急に」


「なんでもない。ちょっと確認」




2

 流れるお湯が渦になって、お風呂場の排水溝に飲み込まれていく。

 私は冷たいタイルの壁にもたれ、頭からシャワーを浴びてそれを見ていた。


 透子と別れたあと、私はそのまま会社を早退した。

 体調が悪くなったのは、もちろん歳のせいではなかった。

 見せてくれた写メ、仲良さげに写っていた2人。

 でも、透子の彼、あの男は似ていた。

 

 私を襲ったあの男に。


 私の人生を狂わせた男。


 高校2年の夏だった。バイトを少し延長して遅くなった帰り道。犯人は捕まらなかった。あの熱帯夜の匂い、殴られた痛み、あの、いやらしい笑い声までがフラッシュバックする。


 ああ、うああ、呻き、汚れを洗い流すかのように体を摩る。

 気持ち悪い、気持ち悪いと嗚咽を繰り返した。



 これは透子との出会いのきっかけでもあった。


 深夜、絶望した私が命を絶とうと選んだ雑居ビルの屋上で、今、まさに飛び降りようとしていた同い年の少女。

 それが、実母からひどい虐待を受け続けて自死を選んだ透子だった。


「あなたも? なら、一緒に飛ぼうよ」


 彼女は言って手を差し出した。

 自殺をしようとしたら、同じように自殺をしようとしている子がいた。こんな偶然あるんだ、と驚き呆然と立つ私に、「違うの?」と彼女は差し出した手を戻した。

 はっ、として私はゆっくりと彼女の隣に立った。


 屋上の端、一歩踏み出せば終わり。苦しみの終わり。

 襲われてからこの5日間、何度も嘔吐した。


 なんで、バイトの延長をしちゃったんだろう、なんで近道なんてしちゃったんだろう、イヤホンなんてしてなければ……なんで、なんで、なんで、私なんだろう……。


 誰にも言えない。みんな心配してる。お母さんは特に、普通じゃないことに気づいてる。

 もう嫌だ、もういい、考えはループして、その度に嘔吐する。繰り返す苦しみから解放されたい。

 もう、どうでもいい。

 そうしてこの屋上に来た。

 それなのに……もう周りのことなんて何も気にならない、どうでもいいんだから。

 それなのに、一つ気になることが出来てしまった。


 隣に立つこの子は、どうして死にたいんだろう?




 3

 お風呂場を出て体を拭くのも適当に着替えて、そのまま私は押し入れの奥から箱を取り出し、まるで封印でもされていたかのように収められていた物を手に取った。重い——。


 当時と変わらぬ黒光りした、サバイバルナイフ。



 あの日、あの屋上で、どちらからともなく口を開いた。『この子はどうして死にたいんだろう?』と透子も同じことを考えていたみたい。

 なかなか屋上まで上がれるビルが見つからず、私は3つ目のビルだったけど、彼女は6つ目だった。それを皮切りに、互いの境遇を話し合った。


 透子の母親はとても厳しく、小学生の頃から家事や勉強で出来ないことがあると怒鳴られて、手を上げられることも当たり前で、父親が早くに亡くなってから、その激しさは増したという。

 『出来ない子は要らないの。出来る子しか、要らないの』と。命令や暴力は恒常的になり、吸い殻が山になった灰皿を片付けていなかった時は、裸にされて、代わりに肩や背中でタバコの火をもみ消されたこともあったし、トイレや押入れに何時間も押し込められ、食事もそこで取らされるようになっていった。

 高校生になってからすぐに、子連れの男と再婚して、リフォームで造られた一畳ないくらいの小さな倉庫が自分の部屋になってからは、暴力的な攻撃はほとんどなくなったものの、誰からも声をかけられなくなった。


 その部屋の扉にはネームプレートが掛けられており『出来ない子のへや』と書かれていたという。

 透子は口元に笑みを浮かべて「高校に受かれば変わるかもしれない、私は出来ない子なんかじゃない。出来ないことがあっても、出来ることをやればいいんだって頑張ったんだけど、甘かったよね。まるで、犬や猫と同じで、飼われていたみたい。餌を与えてくれていただけマシか」と言ったあと、「ああ、違うか、犬や猫の方がマシだ」と急いで訂正した。


「だって、犬や猫は家族の一員だもんね」


 笑いながら言っていた。でも、それは口元だけ。

 その目は……その視線はくりくりと、空中を彷徨っていた。


 怖かった。でもそれ以上に胸が痛んだ。

 涙が止まらなかった。




 4

 次の日、体調不良を理由に会社を欠勤した。

 気だるくて、何もしたくなかった。ベッドから起き上がれない。


 昨日の写メが頭をよぎる。

 男の笑顔が許せない。でも、その笑顔は透子に向けられたものだ。

 どうしたら……、待って、もしかしたら透子は騙されているのかもしれない。でも、そうじゃなかったら。いや、あんな男がまともなわけはない。でも、あれから何年も経っているし。

 透子が言っていた。

 彼はコミュニケーション能力が高くて、明るい。

 適度なサポート能力もあって、会社でも人気者で。

 人違いかもしれない。ただの空似だって可能性も。


 ああ、分からないよ。


 こんなことになるなんて。

 実際私自身も、透子のおかげで心を色濃く染めていた憎しみが薄まっていた。

 病気や妊娠することもなかったし、いつでも透子がそばにいてくれて、本当に、私を支えてくれていたから、今の私があるんだ。それなのに……。


 そうだ、携帯の、私たち2人だけのメッセージアプリを開く。今日は『レモコン』で会えないことを伝えなきゃ。


 透子からの返信は早かった。


 10:27[もしかして、あれからずっと具合が悪いの? ひどいの? 大丈夫? いまは、病院?]


 メッセージを見てるだけで、なぜか安心する。口元が緩む。クエスチョンが多いなぁ。私もすぐに、問題ないので明日は出勤すると返信した。

 すぐに通知音が鳴る。


 10:29[原因は何? 昨日、私が写メを見せてからおかしいよね。それが原因? ねえ、どうなの? そうなの?]


 あれ? もしかして……これは透子の精神が不安定な時によくやる質問攻めだ。


 透子、いまナーバスモードでしょ? 訊くと、どうやら私のことが気がかりで不安でしょうがないのだと。常用している薬も飲み忘れたと言った。

 私の異変に、なにか気づいているのかもしれない。


 そのあとの誤魔化すようなメッセージに、返信は来なかった。

 このままじゃ駄目だ。とにかく明日、直接会って話そう。重い身体を無理やりに起こした。

 透子——。


 透子の生い立ちを聞いて涙が止まらなかったあの夜、たまらず私は彼女の手を握って、もう、一緒に飛び降りようと言った。

 その途端、彷徨っていた視線がぎょろりと私を射抜き「ねえ、友達になってくれる?」と力強く手を握り返してきた。


 え?


 戸惑う私に続けて、


「2人でなら大丈夫。毒親たちを、あなたを襲った男も見つけて、2人で殺そう。きっと出来る。私は出来ない子じゃないもの」


 何を……言ってるの? 初めはそう思った。だけど、興奮気味に話す彼女の熱を浴びて感情が侵食されていくのは早かった。

 

 そうだよね。


 こうして、学校も住んでいるところも離れていた2人が、共に生きていこうと決めたんだ。


「私は真鏡(まかがみ)みすず」


「私は江角透子」


 最後に自己紹介とか、ウケる。と、私たちは向き合って悲しげに微笑んだ。



 ふと、目を覚ました。暗い。

 ぼーっとする頭に顔をしかめて、手探りで携帯を探した。今日一日何してたっけ? 結局だらだらと過ごして、昼過ぎにまた寝て……え? 時間はもう夜の10時を過ぎていた。

 9時間以上も寝て……何? これ……。

 

 メッセージアプリに透子からの通知が溜まっていた。

 16件?




 5

 メッセージを見て、急いで出かける準備を始めた。

 この時間ならタクシーで1時間もかからないはず。

 待ってよ、透子!


 13:56[病院は行った? 体調はどう? 今ね、早退して買い物中。すぐにみすずのとこに行きたかったんだけど今日ね、仕事終わりに彼と会う約束してて。ごめんね]


 15:31[寝てるのかな? ゆっくり休んでね]


 16:40[準備は出来た。そろそろ行かなきゃ。彼と会うの楽しみ]

 

 17:06[いけない、昨日から薬を飲んでなかった。でも大丈夫だよ。ねえ、みすずは本当に大丈夫?]


 17:06[ねえ。]


 17:07[ねえ]


 18:41[いま、トイレから。やっぱりね、彼と一緒だとちょー楽しい。ただね、ね、ね、過去の話とかふると、他愛もない話]


 20:06[きき既読にもならないね。寝てるんだよね? でも大丈夫。? 私に任せて。もううちに着くところ。これから家飲み。彼を初めてうちに誘ったの。ドキドキしたよ]


 20:47[抱きしめられた。これはいよいよキス? なんて思ったけど、彼、寝ちゃったよ。こんなとこで寝るかな。ま、しょうがないか、しょうがないよね、しょうがないんだよ。お酒に薬を入れたから]


 20:47[あ、薬って、私が飲んでる薬だよ。毒とかじゃないから。ちょっと多めに入れたけどね、えー、多めに入れたの? ウケる笑]


 21:21[やっと縛り終わった。椅子に座らせるのも大変だったよ。昼間に準備しておいてよかった]


 21:21[いろいろ買った。ロープにペンチ、なんか固定するやつ。ガムテープはうちにあったやつ]


 21:22[スパナってやつも]


 21:22[買った]


 21:22[千枚通しも]

 

 21:25[結構酔っ払ってたんだけど、決定打がなかった。「あっ」という顔をしてやめた話けど、よく聞き取れよね。でも、何か隠してる聞き出すだす]



 6

 家を出る直前、携帯の音にはっとする。通知音ではなく着信音だ。

 

 電話は透子からだった。


「みすず、すぐに私の家に来て! 約束、覚えているよね」


 透子の声は明らかに興奮していた。電話であれこれ言っても無駄だ。

 とにかく何もしないで待っていて、と告げて私は急ぎ、家を出た。

 約束の、ナイフを持って——。


 このサバイバルナイフは、2度目に会った時に透子が用意した物だ。2人で計画を練った。

 母親たち3人の生活パターンも把握した。

 だけど、この4日後に毒親たちは透子を残して逃げるように出ていってしまい、行方が分からなくなってしまった。

 透子は一時保護され、そのまま施設に入所することになった。そのタイミングはあまりに早く、もしかしたら、私たちの知らないところで何か問題が起きていたのかもしれない。

 なんにしろ、私を襲った男も見つけることができず、計画は頓挫し、凪のような時間が過ぎていった。


 透子には、幸せになって欲しい。施設に入所してからは、精神内科にも通っていた。突然夜中に目を覚まして暴れたり、眠れないこともあり、今でも薬を常用している。それでも、あんな笑顔が出来るようになったんだもの。


 こんなナイフ、一生使わずにいられれば、それはそれでいいとも思っていたのに。

 



 7

 リビングに通され、愕然とする。重たいショルダーバッグがズルリと肩を抜けてフローリングの床に落ちた。


「ああ、これよ、これ。このナイフ! みすずに預けていたのをさっき思い出したのよ」


 転がり出たナイフを手にして透子ははしゃいでいる。焦点の合わない目。

 すでに常軌を逸していた。


「ほら、見て。ようやく白状させたのよ」


 あの男が半裸で、床に固定された椅子に座った状態で縛られ、口枷をされて荒い息を吐いている。

 涙と鼻水とよだれで顔中がぐしゃぐしゃだ。アームレストに縛られた両手の指先は血まみれだった。

 足元に散らばっている小さな殻みたいなものは、きっと生爪だ。


「落ち着いて、もうこんな時間だよ、透子。ねえ透子……どうしてその男だって気づいたの?」


「この前のみすずの狼狽ぶりを見て、気付かないわけないでしょう」と、当たり前のように言って、続けた。


「ただ、この人、みすずのことを覚えていないって言うのよ。最初はね、何も覚えてなかったの。怒鳴り散らして、私を馬鹿にしたのよ。でもね」


 ペンチを拾い上げて、ゆらゆらと振りながら「爪を剥がしたら、2枚目で話してくれた。同じようなことをたくさんしてるみたい。女子高生もいたんだって。それなのに、あなたの写メを見せても分からないって言うのよ、ムカつくよねぇ。だから、爪は全部剥がしちゃったよ。みすずは覚えているよね。この人で間違いないよね?」


 鼓動が激しくて、胸が苦しい。はあっ、あ、胃が、捻れそう。


 脳裏に稲妻のようにフラッシュバックするあの時の光景。


 砕けそうになる体を、くの字にして耐える。


 透子、その女子高生が私だよ。



 8

 私はどうにかうなづくことが出来た。


「そっか」透子は嬉しそうに言った。


 間違いじゃなかった! 激しい怒りが湧いてくる。

 でも、顔を上げた時、その激情は急激に冷めていった。苦しさも。


 目の前の——小首を傾げ、右手にはナイフ、左手にはペンチを持っている異様さ、不気味な笑みを浮かべながらも、視線は焦点が合っていない異常さ。そんな透子を見て、まるで時間が止まったかのように、私は動けなくなった。

 どくんどくんと波打つ鼓動は、恐怖から?

 違う、何か、違う。


 そう、悲しいんだ……。


 こんなにも、透子は壊れてしまった。



 殺すなら私がやらなくちゃ駄目だ!


 それなのに、透子はナイフを渡してはくれなかった。首を大きく横に振って拒否する。


「私がやらないといけないの!」


 男に向き直った透子がナイフを高く掲げると、それに反応して男が唸り声をあげた。椅子は固定されている。暴れても倒れる気配がなかった。

 あの歪んだ笑みを浮かべていた顔は、恐怖に引きつっている。


「待って、私にやらせて!」


 今度は透子が動かなかった。掲げられた両手が震えている。


「彼……ね」微かに聞こえた。


「爪を全部剥がしたら、急に優しくなったの。いつもみたいに優しくなったの。だからね、喋れなくしたんだけど」


「そ、そうなんだね」


「だけど、約束だからね、私がやらなきゃ。なのに、ドキドキするの。ドキドキドキドキ」


「透子は、やらなくてもいいんだよ」


「出来るわよ。出来ない子じゃないんだから!」


 もしかして、殺すことが出来ない? 混乱している? そうか、ずっと、拷問している時も、いいえ、もっと前からだ。私の異変に気づいた時から、きっと、ずっと葛藤していたんだ。


 どうしていいのか分からずに、苦しんでいた。そうなんだ、だから、こんなにも壊れてしまったんだ。

 やっぱり透子は、あの男のことが好きなんだ。


 不意にインターホンが鳴る。

 男たちの声が何か言ってる。通報されたんだ、きっと警察だ!


 もう……いい。もういいよ。苦しむ必要なんてないんだから。

 私はもう、十分救われているんだから。


 連続で鳴らされるインターホンに、ようやく透子は気づいた。


「透子、きっと警察——」


「あああ! お母さんだ。お母さんが来ちゃった!」


 え? 透子はおろおろと、やらなくちゃ、早く、早くと連呼する。


「透子、ねぇ透子、もうやめよう。そんなこと、出来なくたっていいんだから」


 おそらく、これは言ってはいけなかった言葉。


 透子は激昂した。


「いい訳ないでしょう! みすずも私を馬鹿にするんだね、出来ない子だと思ってるんだね!」


 跳ね上がるほど驚いた。こんなに怒っている透子を見たことがなかった。


「ち、違うよ、そんなこと思ってない。馬鹿になんてするわけがない」


「出来ない子じゃないんだから! 出来る子なの、私は出来る子なんだから」


「わ、分かってる。分かってるよ。でも——」


「みすずも、裏切るんだね。ああ、そうだ! 思いついたよ私」


 ……何を? 「何を、思いついたの?」


「そうなのよ、こんなに頑張ったのにこの人を殺せない。でも、殺すことが出来ない子じゃ駄目なのよ。出来る子なら殺せるんだから、人間くらい殺せるんだからさ! だからね、思いついたの——」


 透子は、いかにもうっかりしていたんだよね、と言わんばかりに微笑みながら続けた。


「殺しやすい人間を殺せばいいんだ」



 9

 今、何て言ったの? あまりのことに、耳を疑った。言っている意味が分からない。


「それって……違うよね? どうしちゃったのよ、透子」


「何も違わないでしょ! 殺せればいいんでしょ!」


 再び彼女は激昂した。


「落ち着いて。落ち着いて透子。どうしてそうなっちゃうの? ただ人を殺せばいいんじゃなくて——」


「はあ? 忘れたのみすず! 2人で計画を立てたでしょう!」


「それはそうだけど、でも、それはお互いの——」


「だ、か、ら! それが出来ないんだから出来ることをやればいいのよ!」


 駄目だ、まともに話を聞こうとしていない。待って、待ってよ。

 不意に透子の手元が動いた。

 ナイフの刃先がこちらを向いている。


 もしかして、殺しやすい人間って……私?


 その視線に彼女も気づいた。


「お母さんが入ってくる前にやらなくちゃ」


 無力感に支配される——全身の力が抜けていく。

 なんで? 冗談だよね? 嘘だって言ってよ……ねえ、透子……透子は、私のことを殺せるの?

 訊きたかったけど、言葉にならなかった。

 迫ってくる。まるでスローモーションのように見えた。

 でも、体は少しも動かせなかった。


 熱っ!?

 勢いに押されて壁に背中を打ちつけた。

 そのままズリズリと背中を擦りながら腰を落とした。

 透子もしゃがみ込むように座り込んだ。

 激痛が走る、お腹を刺されているはずなのに背中まで痛い。頭が——、


「出来る子だから、出来る子だから、出来る子だから」


 その声に、遠のく意識が呼び戻された。

 私の鎖骨の辺りに、透子の荒い息がかかっているのが分かる。


「出来る子だから」と連呼している。そこで、私は思い至った。


 これは、呪縛だ。


 母親の心無い言葉が、透子の心を闇の中に縛りつけているんだ。


 透子——。

 

 私は、そのまま彼女を抱きしめた。


 大丈夫、私にあなたがいてくれたように、あなたには私がいるんだもの——。


 よ……、


「よく出来ました……」


 震えが止まらない手で優しく頭を撫でる。指の間をするりと通る柔らかい髪。


「いい子ね、透子……大好きだよ」



 はっ! と透子が顔を上げ、まっすぐに私を見つめる。

 その目は、あふれる涙できらきらと輝いていた。


「ああ、なんてことを。私、なんてことを。みすず、みすず——」


 かすかに、そんな声が——聞こえ——。



 10

 病院のベッドで目を覚ました。

 私は生きていた。

 意識を失っていたのはたったの1日。それでも、家族の心配の度合いは相当なものだったらしい。

 刺された辺りは少し痛むけど、病気というわけでもないから手術が成功した今は普通に元気だ。

 それでも、あと3日は入院していないといけないらしい。


 次の日、警察が事情聴取に来て、全てを知った。


 あの日のインターホンは、やはり警察だった。

 突入した時に私は意識不明で、どうしてそうなったか分からないけど、透子はあの男を滅多刺しにしているところだったらしい。


 正気に戻った透子が、私の仇を取ってくれたのかもしれない……。


 透子は、彼氏が浮気をしたので殺したと供述し、私とあの男の関係については何も言っていないようだ。

 私はただ、彼女が最近悩んでいて、彼を殺すと連絡があったので止めに行ったけど、間違えて刺されたと言っておいた。


 他にも、いろいろと聞かれた。メッセージアプリのやり取りはかなり追求されたけど、あのアプリは海外製のシークレットチャット機能を使っていて、メッセージは一定時間でサーバーからも消去される。

 復元をしようとしたみたいだけど、私が共犯である証拠は見つからなかったようだ。


 透子の母親のことも警察はあっさり見つけたようで、すでに離婚していて1人住まいだそう。

 ただ、事件のことを伝えても、そんな子供はいない、知らないと、まともに応じることがないんだと呆れていた。

 私も会いたいから、と連絡先を聞いたけど『個人情報はちょっとね』と教えてもらえなかった。



 11

 2ヶ月が過ぎた。

 私は、住宅街の一角にあるオシャレなカフェにて、塩レモネードで喉を潤している。

 透子はどうしているかな? 元気でいてくれればいいけど。


 透子の裁判は長引くようだった。


 殺害の原因が相手の浮気だとする供述をもとに捜査を行った際、あの男の携帯やパソコンから事件性のある写真や動画が多数見つかり、そちらの捜査が優先されているようだ、とワイドショーで言っていた。


 私の時はどうだったろう。覚えているのはあの男のおぞましい笑顔だけだ、けど……携帯やカメラを使っていた記憶はない。


 あの事件は毎日のようにテレビやネットで話題になっていた。

 報道当初こそ異常な猟奇殺人事件だとされ、透子は悪魔のような女だと言われていたけど、被害者の男の異常性が明るみになるにつれ、風向きが変わっていった。


 どうやって調べたのか、透子の幼少期の劣悪な家庭環境が報道されると、不憫に思う人や同情する人も増えていった。

 特にネットでは、個人情報もダダ漏れだ。


 あー、早く透子に会いたい。なんてことを考えながら塩レモネードを飲み干した。


 さて、そろそろ行こう。




 12(終)

 少し震える指先でインターホンを押した。


 住宅街の小さな公園の横にある、小さなアパートの106号室の前。

 しばらくして、気だるそうに女がドアを開けた。


「誰? なんか用?」


「こんにちは。真鏡と申します。来月、こちらのアパートに引っ越す予定でして、ご挨拶をしておこうと思いまして」


「あー、そう。なんかくれんの?」


「あ、当日、ご用意してこようかな、と考えています」


 あ、そ。と女はぶっきらぼうに言ってドアを閉めた。

 引っ越しなんて嘘だよ。


 目元が似ている。間違いなく、透子の母親だ。この家を特定してくれたネット民に感謝するよ。


 あの日、私は思い至った。

 優しい透子の心を闇に縛りつける原因。

 やっとだよ。


 やっと──、


「みぃつけた」



  おしまい

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