呪縛
1
「あー美味しい。やっぱりこれだよね」
私はオフィス街の喧騒を忘れさせる開放感のあるこの店『レモコン』で塩レモネードを飲み干した。
強い日差しで滲む額の汗を拭いながら、私は江角透子と、『レモコン』のテラスで昼休憩を楽しんでいた。
彼女とは職場は別だけど、お互いの会社からの中間地点であるこの店で毎日のように会っていた。
私の一番大切な親友。
あ、まただ。携帯の画面を見つめる眼。最近はほとんど見なくなったけど、時折り見せる焦点の合っていないような眼。この時の透子は何を考えているか分からない。
過去に受けた心的外傷。その心の病みは、そのまま心の闇となっていた。
そんな彼女に、付き合って半年になる彼氏がいたらしい。まったく、いままで内緒にしてるなんて、むむむむ、だぞ。
でも、とても嬉しい。
一方、私は——、未だに男性は……無理だな。
「ねえ、みすず、見て」
透子が携帯をくるりと向きを変えて私に見せてきた。画面の中の彼女の、これまで見たことのない真っ直ぐな笑顔が素敵。ふむ、その隣にいるのが彼氏だな——。
え?
それを見て、急激に鼓動が波打つ。血の気が引いていくのが分かる。
心配そうに透子が何かを言っているけど、聞き取れない。駄目だ。落ち着いて、落ち着け……。
2
流れるお湯が渦になって、お風呂場の排水溝に飲み込まれていく。
私は冷たいタイルの壁にもたれ、穢れを洗い流すかのように体を擦り、頭からシャワーを浴びてそれを見ていた。
楽しそうにポーズをとる2人の画像を見た、あの後『歳かな? たまに動悸がしたりして』そう誤魔化して透子と別れ、そのまま会社を早退した。『二十歳過ぎで歳ってことはないでしょう』と透子が訝っていた。
もちろん歳のせいではなかった。
透子の彼、あの男——間違いなく私を襲ったあの男だ。
私を性欲のはけ口にした男。
高校2年の夏だった。バイトを少し延長して遅くなった帰り道。犯人は捕まらなかった。でも、私を殴りながら、いやらしい笑みを浮かべていたあの顔は忘れない。
これは透子との出会いのきっかけでもあった。
深夜、絶望した私が命を絶とうと選んだ雑居ビルの屋上で、今、まさに飛び降りようとしていた同い年の少女。
それが、実母からひどい虐待を受け続けて自死を選んだ透子だった。
3
「あなたも? なら、一緒に飛ぼうよ」
彼女は言って手を差し出した。
自殺をしようとしたら、同じように自殺をしようとしている子がいた。こんな偶然あるんだ、と驚き呆然と立つ私に、「違うの?」と彼女は差し出した手を戻した。
はっ、として私はゆっくりと彼女の隣に立った。
屋上の端、一歩踏み出せば終わり。苦しみの終わり。
襲われてからこの5日間、何度も嘔吐した。
なんで、バイトの延長をしちゃったんだろう、なんで近道なんてしちゃったんだろう、イヤホンなんてしてなければ……なんで、なんで、なんで、私なんだろう……。
誰にも言えない。みんな心配してる。お母さんは特に、普通じゃないことに気づいてる。
もう嫌だ、もういい、考えはループして、その度に嘔吐する。繰り返す苦しみから解放されたい。
もう、どうでもいい。
そうしてこの屋上にきた。
それなのに……もう周りのことなんて何も気にならない、どうでもいいんだから。
それなのに、一つ気になることができてしまった。
隣に立つこの子は、どうして死にたいんだろう?
4
お風呂場を出て体を拭くのも適当に、そのまま私は押し入れの奥から箱を取り出し、まるで封印でもされていたかのように収めらていた物を手に取った。重い──。
当時と変わらぬ黒光りした、サバイバルナイフ。
あの日、あの屋上で、透子も同じことを考えていたみたいで、どちらからともなく口を開いた。
なかなか屋上まで上がれるビルが見つからず、私は3つ目のビルだったけど、透子は6つ目だった。それをかわきりに、お互いの境遇を話し合った。
透子のそれは、壮絶だった。
母親がとても厳しく、小学生の頃から家事や勉強で出来ないことがあると怒鳴られて、手を挙げられることも当たり前で、父親が早くに亡くなってから、その激しさは増したという。
『出来ない子は要らないの。出来る子しか、要らないの』と。命令や暴力は恒常的になり、吸い殻が山になった灰皿を片付けていなかった時は、裸にされて、代わりに肩や背中でタバコの火を消されたこともあったし、トイレや押入れに何時間も押し込められ、食事もそこで取らされるようになっていった。
高校生になってからすぐに、子連れの男と再婚して、リフォームで造られた一畳ないくらいの小さな倉庫が自分の部屋になってからは、暴力的な攻撃はほとんどなくなったものの、誰からも声をかけられなくなった。
その部屋の扉にはネームプレートが掛けられており『出来ない子のへや』と書かれていたという。
5
透子は口元に笑みを浮かべて「高校に受かれば変わるかもしれない、私は出来ない子なんかじゃない。なんて頑張ったんだけど、甘かったよね。まるで、犬や猫と同じで飼われていたみたい。餌を与えてくれていただけましか」と言ったあと、「ああ、違うか、犬や猫の方がマシだ」と急いで訂正した。
「だって、犬や猫は家族の一員だもんね」
笑いながら言っていた。でも、それは口元だけ。
その眼は……その視線はくりくりと、空中を彷徨っていた。
怖かった。でもそれ以上に胸が痛んだ。
涙が止まらなかった。
たまらず、私は透子の手を握って、もう、一緒に飛び降りようと言った。
その途端、彷徨っていた視線がぎょろりと私を射抜き『ねえ、私の友達になってくれる?』と力強く手を握り返してきた。
え?
戸惑う私に続けて、
「そしたらさ、私はあなたの支えになるよ。2人でなら大丈夫。毒親たちを、あなたを襲った男を見つけて、2人で殺そう。きっと出来る。私は出来ない子じゃないもの」
何を……言ってるの? 初めはそう思った。だけど、興奮気味に話す透子の熱を浴びて私の感情が侵食されていくのは早かった。
そうだよね。
こうして、学校も住んでいるところも離れていた2人が、共に生きていこうと決めたんだ。
「私は真鏡みすず」
「私は江角透子」
最後に自己紹介とか、ウケる。と、2人は向き合って悲しげに微笑んだ。
このサバイバルナイフは、2度目に会った時に透子が用意した物だ。2人で計画を練った。
母親たち3人の生活パターンも把握した。
だけど、この4日後に毒親たちは透子を残して逃げるように出ていってしまい、行方が分からなくなってしまった。
透子は一時保護され、そのまま施設に入所することになった。そのタイミングはあまりに早く、もしかしたら、私たちの知らないところで何か問題が起きていたのかもしれない。
なんにしろ、私を襲った男も見つけることができず、計画は頓挫し、凪のような時間が過ぎていった。
6
透子には、幸せになって欲しい。施設に入所してからは、精神内科にも通っていた。突然夜中に目を覚ましたり、眠れないこともあり、今でも薬を常用している。それでも、あんな笑顔が出来るようになったんだもの。
それなのに、まさかあの男が、今になって、よりにもよって透子の彼氏だなんて……。
実際私自身も、透子のおかげで、心を色濃く染めていた憎しみが薄まっていた。
病気や妊娠することもなかった。いつでも透子がそばにいてくれた。本当に、私を支えてくれていたから、今の私があるんだ。
こんなナイフ、一生使わずにいられれば、それはそれで良いとも思っていたのに……それなのに、見つけてしまった。写メの男の笑顔が許せない。でも、その笑顔は透子に向けられたものだ——。
どうしたら……、待って、もしかしたら透子は騙されているのかもしれない。でも、そうじゃなかったら……。いや、あんな男がまともなわけはない。でも、あれから何年も経っている…………。
着信を知らせる携帯の音が遠くで聞こえる。ボリュームを上げるように音が大きくなっていき、目を覚ました。
どうやら、逡巡しているうちに眠ってしまったみたい。
電話は透子からだった。
「みすず、すぐに私の家に来て! あのナイフを持って」
夢うつつだった私は一気に現実に引き戻された。時間は、もうすぐ日付が変わろうとしていた。こんな時間に? どうして?
私は急ぎ、家を出た。とても嫌な予感がする。
7
予感は的中した。リビングに通され、愕然とする。重たいショルダーバッグがズルリと肩を抜けてフローリングの床に落ちた。
「ああ、これよ、これ。このナイフ! みすずに預けていたのをさっき思い出したのよ」
転がり出たナイフを手にして透子ははしゃいでいる。焦点の合わない眼。
すでに常軌を逸している。
「ほら、見て。問い詰めてね、ようやく白状させたのよ」
あの男が半裸で椅子に座った状態で縛られ、口枷をされて荒い息を吐いている。
涙と鼻水とよだれで顔中がぐしゃぐしゃだ。アームレストに縛られた両手の指先は血まみれだった。
足元に散らばっている小さな殻みたいなものは、きっと生爪だ。
「ねえ透子、どうしてその男だって気づいたの?」
透子は「昼間のみすずの狼狽ぶりを見て、気付かないわけないでしょう」と、当たり前のように言って、続けた。
「ただ、この人、みすずのことを覚えていないのよ。写メを見せても、何人もやったうちの1人だから覚えてないんだって。ムカつくよねぇ。みすずは覚えているよね。この人で間違いないよね?」
覚えていない? カッと怒りが湧いてくる。でも、それ以上に透子の異常さが気がかりで、怒りに歯止めがかかってしまう。でも、殺すなら私がやらなくちゃダメだ。透子にやらせるわけにはいかない。
でも、ナイフを渡してと言うと、透子は首を大きく横に振って拒否した。
「駄目、渡さない。だって、殺しちゃうでしょ」
8
え?
「この人ね、私にはとても優しいの」
何を言いたいのか分からず、言葉が出てこない。
「みすずだったら、簡単に殺せちゃうでしょ。だからね──」
だからね、みすずには内緒でやろうと思ったの。私がやらないといけないの。と透子はますます訳の分からないことを口にした。
矢継ぎ早に、服用していた自分の薬を飲ませて、男を眠らせて、拷問までして罪を告白させたんだ、と。
そして、ここまでやったのに、ここまで出来たのに……。
「殺すことが出来なかった」と。
混乱している? そうか、葛藤しているんだ。
どうしていいのか分からずに、苦しんでいる。
やっぱり透子は、あの男のことが好きなんだ……。
もう……いい。もういいよ。苦しむ必要なんてないんだから。
私はもう、十分救われているだから。
「透子、ねぇ透子、もうやめよう。そんなこと、出来なくたっていいんだから」
おそらく、これは言ってはいけなかった言葉。
透子は激昂した。
「いい訳ないでしょう! みすずも私を馬鹿にするんだね、出来ない子だと思ってるんだね!」
跳ね上がるほど驚いた。こんなに怒っている透子を見たことがなかった。
「ち、違うよ、そんなこと思ってない。馬鹿になんてするわけがない」
「出来ない子じゃないんだから! 出来る子なの、私は出来る子なんだから」
「わ、分かってる。分かってるよ。でも──」
「ああ、そうだった。もういい、もういいんだった。思いついたのよ私」
……何を? 「何を、思いついたの?」
「考えてみたのよ。こんなに頑張ったのにこの人を殺せない。でも、殺すことも出来ない子じゃ駄目なのよ。出来る子なら殺せるんだから、人間くらい殺せるんだからさ! だからね、考えて、考えて、思いついたの──」
透子は、いかにもうっかりしていたんだよね、と言わんばかりに微笑みながら続けた。
「殺しやすい人間を殺せばいいんだ! って」
9
今、何て言ったの? あまりのことに、耳を疑った。
「それって……違うよね? どうしちゃったのよ、透子」
「何も違わないでしょ! 殺せればいいんでしょ!」
再び透子は激昂した。
「落ち着いて。落ち着いて透子。どうしてそうなっちゃうの? ただ人を殺せばいいんじゃなくて──」
「はあ? 忘れたのみすず! 2人で計画を立てたでしょう!」
「それはそうだけど、でも、それはお互いの──」
「だ、か、ら! それが出来ないんだから出来ることをやればいいのよ!」
駄目だ、まともに話を聞こうとしていない。待って、待ってよ透子。
不意に透子の手元が動いた。
ナイフの刃先がこちらを向いている。
もしかして、殺しやすい人間って……私?
その視線に透子も気づいた。
「みすずにしようって決めた時にね、ナイフを預けていたことも思い出したのよ。相手も、道具も揃うって、一石二鳥だよね」
無力感に支配される──全身の力が抜けていく。
なんで? 冗談だよね? 嘘だって言ってよ……ねえ、透子……透子は、私のことを殺せるの?
聞きたかったけど、言葉にならなかった。
迫ってくる透子がスローモーションのように見えた。
でも、体は少しも動かせなかった。
熱っ!?
勢いに押されて壁に背中を打ちつけた。
そのままズリズリと背中を擦りながら腰を落とした。
透子もしゃがみ込むように座り込んだ。
私の鎖骨の辺りに、透子の荒い息がかかっているのが分かる。
「出来る子だから、出来る子だから、出来る子だから」
透子が連呼している。そこで、私は思い至った。
これは、呪縛だ。
母親の心無い言葉が、透子の心を闇の中に縛りつけているんだ、と。
それなら、そこから透子を解放するとしたら、私に出来ることはひとつだ──。
でも、もう、出来ないだろう……。
私は、そのまま透子を抱きしめた。それから、優しく頭を撫でて、言う。
「よく、出来ました。いい子ね、透子。大好きだよ」
はっ! と透子が顔を上げた。まっすぐに私を見つめるその眼は、明らかに正気を取り戻していた──。
「ああ、なんてことを。私、なんてことを。みすず、みすず──」
かすかに、そんな声が──聞こえ──。
10
病院のベッドで目を覚ました。
私は生きていた。
意識を失っていたのはたったの1日。それでも、家族の心配の度合いは相当なものだったらしい。
刺された辺りは少し痛むけど、病気というわけでもないから手術が成功した今は普通に元気だ。
それでも、あと3日は入院していないといけないらしい。
次の日、警察が事情聴取に来て、全てを知った。
あの日、私が意識を失ってすぐに警察が突入してきたそうだ。とっくに通報されていて、何度かインターホンも鳴らしていたみたい。まったく気がつかなかったけど、真夜中にあれだけ騒いでいれば当然か。
透子は、現行犯で逮捕された。
どうしてそうなったかは分からないけど、警察が突入した時に、透子はあの男をめった刺しにしているところだったらしい。
次は、私の番だ。
おしまい




