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はじめは、無人島に行くなど嫌だとつっぱねたものだった。あれはまだあたしが十歳になるより前の事だ。父が突然無人島に住もうと言いだした。一度も耳にした事のないロセッティ島という地名。住み慣れた街を離れ、知人の一人も居ない新天地に行くなど、それこそ当時のあたしには大事件だった。ましてその先が大都市や田舎町ではなく、小さな孤島だとは。ターザンのように暮らせて毎日楽しそうだなんて、都会の便利さを既に知っていたあたしは思わなかった。
母は、わたしだけが島で暮らせばいいからルーシーは来なくてもいいのよ、そう言ったがあたしはそれも嫌だった。母が大好きだったからでもあるが、幼いながらにあたしはもう母の寿命が長くないのを感じとっていたのかもしれない。母と出来るだけ長く生活を共にしたいと、そうすべきだと知っていたのだろう。
結局あたしは島を拒み続ける理由を思いつかずに、両親とロセッティ島に住む事になる。島での環境は思っていたより大変で、思っていたよりは楽しかった。
あたしはきっと、根っからの都会っ子じゃなかった。ちょっとの不便にもすぐに順応出来たし、孤島で暮らす事の楽しさを見つけていった。自然の中で生きる事は次第にあたしの中の一部になっていった。季節の変化の少ない島は、母の体にも障りないようだった。もちろんそれは、母が老いて天寿をまっとうするには至らなかったけれど。
帰って来るのがごく少ない父親、それでもあたしは母が死んでからも島に住み続けた。兄弟はいないから一人になるというのに、あたしはもう島の外の生活をする気持ちにはなれなかった。何故かは分からない。普通の親なら、子供を一人で家に残すのだって心配だろうに父は許してくれた。長い間あたしを放置するつもりはなかったのかもしれないが、とにかくあたしはしばらくはロセッティ島での一人暮らしを続けた。
ゆるやかに流れる時間。失った母を偲ぶ日々。そんな風だったからきっと長くは感じなかった。それが、今度こそ父親の死で奪われてしまった。
それは土地であり、あたしがそこに住む権利のようなものだった。
だけど今、島の思い出も、もっと大切なものが奪われようとしている。
ほとんど軍事基地のようにも見える。父の所属していた軍の服ではないが、戦闘に適した服装の男たち。プレハブの一時的な建物。
ロセッティ島の存在を知るものは本当にごく少ないはずだ。地図にも載らないくらい小さい島で、父もほとんど偶然見つけたようなものだと言っていた。父が死んだ今、あたしと叔母、フォード大佐くらいの人間しかロセッティ島の存在を知らないはずだ。その正確な位置まで知るのはほんの一握り。
どこで島の事がもれたのだろう。何に利用されようとしているんだろう。軍事目的なのは彼らを見ればよく分かる。あたしはどうなるんだろう。あたし自身がしたい事はよく分かっている。こんな施設、ぶち壊してやる。
体の真ん中に、復讐心のようなものが燃え盛る。こんなものは認めない。全部めちゃくちゃにしてやる。
しかし方法が全く思いつかない。平和な時代に穏やかな島で育った、習い事もしていないあたしが武器の扱い方や無手の体術を知るはずがない。その上、脅されても縛られても銃口を向けられてもいないが、ほとんど捕虜に近い状態にあたしはいる。目の前の男は、あたしを決して逃さない猛禽のような目で見ている。
一つの建物の中に案内され、あたしは簡素なソファに座らされた。ウォルターは机をはさんだ向こう側のソファに腰掛ける。一度海にもぐったあたしは全身がびしょぬれで、先ほど渡された大判のタオルで髪の毛先をぬぐう。肌の水滴をぬぐったというのに、体に静かな冷えがともった。
「この島の話でもしてもらえないかな」
あたしの利用価値など微々たるものより少ないだろう。それなのに何故、こうも勿体つけてあたしをもてなしてくれるのか。
「いやだと言ったら?」
「…別に強制はしないけどね。ただ、興味あるなあ。前はどんな風に使われていたのかね」
今は何に使っているのだ。あたしの鼻のしわが寄った事で、ウォルターは言外の台詞を読み取ったようだ。
「今はね、うちの組織の拠点の一つにさせてもらっている」
その組織が、父を殺したのか。この男が、もしかしたら手を下したのかもしれない。こみあげる感情を、抑えるので精一杯だった。そのためか顔が歪んでいるのが自分でも分かる。不思議なことに、あたしは今口角を上げている。
「詳しくは企業秘密。だけど――ああ、そうだ。少しは感謝してもいいんだよ」
あたしは体中で暴れる感情が破裂して吹き出したりしないように、口をつぐんだまま目で問いかけた。
「見つかった時点で殺してあのまま中佐を海に流してもよかった。そうしないで死体を君のところまで届けたのは僕だ」
ウォルターが初めて人間らしい表情をした。と思ったのもつかの間で、またあの優男然とした笑みになる。どういうつもりだろう。まるで自分が犯した罪は死体を持ってきた事で許されたとでも思っているかのような口ぶりだ。それに、あたしは自分のところに父が、父の体が帰ってきた気がしない。まともに見られなかった遺体は、軍人たちに取り囲まれていて他人のようだった。
「本当に、アルバート中佐にはお世話になったから……。遺体をちゃんと帰せてよかった」
その言の葉は優しげでも、表情には罪悪感のようなものは見つけられない。微笑んでいるのに表情の変わらぬ仮面をかぶっているのと変わらない。そういえば、この男はなにくわぬ顔して葬式に出ていたのではないか。周りを見ていなかったので定かではないが。
「そういう話はもういいよ」
あたしは立ち上がった。
もう、いい。
こんなところに一秒だって長くはいられない。
「何をする気…?」
壊してやる。
すべて。
走り出す。
それからはもう、ビデオのダイジェスト版みたいに早送りに世界が回った。
扉を蹴る。廊下に駆け出したあたしをウォルターは余裕な素振りで追いかける。足があたしのものじゃないみたいに前へ前へと繰り出してゆく。狭い建物をどこへ向かっているのか分からない。そのまま足にまかせてたどり着いたのは行き止まり。踵を返して一番近くにあった扉に手をかける。
「動くな」
見知らぬ男の構える銃口がこちらを向いている。よっぽど大事な部屋らしい。相手を挑発するつもりはないが、睨み付けるだけで満足するつもりはない。
「あなたたちは、何がしたいの?」
ウォルターが顔を見せ、銃を構えた男を視線で製していた。あたしの問いかけには聞く耳を持たないようだ。
「やめといて。さすがにルーシー、君まで死体にしたくはない」
「これが前の島の持ち主か」
「何もしないで。僕が身柄をあずかる」
咎めるような眼差しを男に向け、そのまま近づいてくるウォルター。両手がのばされ、あたしは従うふりをしてしばらく立ち止まっている。すぐそこまでウォルターが来た時、身をかがめて飛び出した。
「止まれ」
ウォルターはかいくぐれたが、僅かな間あたしを放っておいてくれた男は、照準を定めた。いきなり、あたしの右の二の腕に焼きごてを押し付けられたような熱が走る。
「やめろ」
ウォルターの声が聞こえたが気にならない。
建物を出て、島の中を駆ける。見慣れた植物たちが生い茂る、ロセッティ島。浜辺を目指したら船がなくなっていた。錨をおろした記憶はあるのに、おかしい。もしかしたら島を乗っ取ったあの組織の者が侵入者に気がついて逃亡を防ぐため隠したのかもしれない。
これでは本土に戻れない。違う、何逃げようとしてるんだ。島を取り戻すんじゃなかったのか。葛藤に自問を重ねていたら、突如爆発音が上がった。反対側の浜からくらいの音だ。何があったんだろう。島が侵蝕されてゆく。それ以上見ていたくなくて、あたしは砂浜に足を出した。水際の一歩手前、疲れたような声がかかった。
「動くな」
またも見知らぬ男だ。やはり照準をあたしに合わせて銃口をこちらに見せている。
「なんだってんだ、ったく…こんな緊急時になるなんて」
彼にも予期せぬ出来事が起こっているらしい。そのままじゃりじゃりと砂を踏みながらあたしの方へと向かってくる。背後は海。逃げ場はない。
「大人しくしていたら何もしない」
銃口はしっかりあたしに向けたまま、その太い腕があたしの肩に触れようとした。
「その娘から離れろ」
低い声が鋭く飛ぶ。聞き覚えのあるものだ。
「大佐…」
どうしてここに。
銃口を男に向けているフォード・オーウェル大佐。彼は非常に機密性の高い任務を遂行中の軍人みたいな顔をしていた。眉間のしわは根深く、表情はひどく硬い。鋭利な刃物を思わせる眼差しで拳銃を真っ直ぐに構えている。しかし目の前の男はフォード大佐の言葉には従わなかった。
「そちらこそ、銃を置いてもらおうか」
男があたしの首を捕まえる方が早かった。大佐はしわをより深く刻み、無言で銃口を下ろす。それだけでは足りないというように、背後の男が銃でもって大佐に銃を手から離すように指示する。従う大佐は、丸腰に見える。まだ武器を隠し持っている可能性を疑って、男は警戒しながらあたしの首を抱え直す。
一方的に銃口を向けられ不利な状況の大佐にわずか申し訳なく思って、あたしは伺うように彼を見た。視線を受けて、彼はより一層険しい表情になる。
何故彼がここに居るのかは分からないが、あたしを追ってきたのだとしたら悪い事をした。そして今、あたしのために危機にも近い状況に陥っている。
「…軍にかぎつけられるとはな」
「私はその娘を探していただけだ」
男は疑わしげに身動ぎした。後ろを見なくても男がうさんくさそうにしているのは予想出来た。冷徹な顔のフォード大佐。あたしは謝罪するつもりで口を開いたがすぐにそれを飲み込む事になる。
弾丸のように飛んできたのはナイフだ。男の銃を持っていた手の甲に当たった。
「くそっ!」
一層の力をこめてあたしの首がしまる。彼が銃を構え直してフォード大佐に向けようとしたところ、大佐は目の前でのんびりしてなどいなかった。
大佐を目で探す男に隙が生まれていた。あたしは迷わず男の腕に噛みついた。ほんの少しゆるんだ腕を両手で押しのける。
「伏せろ」
どこからか低い声がした。倒れこむようにあたしは砂浜の中に伏せた。銃声が頭上で鳴る。
知らずに閉じていた瞼を上げると、男が肩をおさえていた。そのまま倒れこむかと思いきや、まだ絶命していないと主張するようにこちらを睨んだ。手を伸ばしてくるのであたしは後ずさる。強い力に引っ張られ、あたしはよろけながらも何かに押し付けられた。戸惑いながらも顔を上げるとフォード大佐の顔。顔を押さえ込まれて目をふさがれる形になる。
もう一つ銃声がすると、どしゃりと砂に何かが倒れた音もした。
煙くさいかおりが鼻に届く。顔を上げると視界の端に煙が上がっているのが分かる。燃えていた。島が。先ほどの爆発音が関係しているのだと思われた。炎が徐々に姿を見せ始める。
「ルーシー。大丈夫か」
大佐の声にも答えられない。にわかに島の風景は変わっていった。いつの間にか海岸には船がつけてきた。軍人が幾人もなだれこんでくる。
「大佐、西側は制圧しました」
「火の広がりが早い。武器の押収は全てでなくていい。捕虜を先に運べ」
「はっ」
煙が目にしみる。どうやら炎は島の広い部分を侵食するつもりのようだ。燃える、あたしの島が。あたしたち家族の島が。もう誰も住む人なんてあたし以外に居ないのに。あたしに残されたのは島しかなかったのに。上手く、息が出来ない。まるで遠くの炎が辺り一帯の酸素を奪ってしまったみたいに。
こちらまで火の手は迫っていなかったが、島の半分は飲み込みそうな火力の勢い。ここが、母と、父と過ごしたあたしの家だったなんてとても信じられない。煙は黒く、炎は赤い。目が煙で痛い。それをうるおすように何かが流れる。
「う…」
きっかけは煙だった。せき止められた何ものかが外へ出ようと暴れていて、もはやあたしにそれを押し留める力はなかった。もうだめだ。あたしには何にもない。
二本の足で立っている自覚がずっとなかったのに、足元の地面がなくなったような感覚。もはや、自分がどこに居るのか分からない。自分の輪郭さえ見失う。あたしが、バラバラだった。声を上げていた。耳障りな自分の声を聞きたくないから頭をかかえるようにした。自分を抱きしめるように縮こまる。肩にあたたかいものが触れた。
あたしは、きっと声を上げて泣いていた。一人になってしまったと気づいたあたしを、何かが包むのだけは感じていた。母は、父はもう居ないのに。誰かがずっとそこにいた。あたしのすぐ近くに。それはずっと昔からそこにあったような、懐かしいようなものだった。
怖くて、不安で、何にもなくて、あたしは本当にどうしたらいいのか分からなかった。
分からなくなったから、掴むものがそこにはあったから、手を伸ばした。過去のよすがが消えていくのを、逃さないように。
ずっと、認める事が出来なかった。
そうではないと思いこむのに成功していた。
それでも、消えていったものがあると同時に、あたしには……
父が死んだ。
あたしは、泣いていいんだ。




