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ある日の夕暮れ、あたしは居残りをさせられて学校から帰るのが遅くなっていた。家の扉を開けるより早く複数の人の気配に気づく。何やら二人の人間の会話のようだった。耳慣れた叔母の声。そうか、叔母が来ていて、大佐が対応しているのか。会話が聞こえて、あたしはなんの気はなしに壁に寄って耳をそばだてた。
「あの子の……についてだけど」
「…出来れば、彼女の望み通りにしてやりたいと思っています」
叔母イヴリンと後見人フォード・オーウェル。彼ら二人の共通点はあたしの知る限り、あたしと父だ。父はいないからあたしの事を話しているのだろうという推測は簡単だった。
「…は、そうだけど、あたしは少し……方がいいんじゃないかと思うの……」
「それは……いう意味でおっしゃってるのですか…」
窓ごしに見る彼らは知らない人間に見えた。フォード大佐はともかく、叔母はよく知ったはずの人なのに。あの二人が共に居る様をかつて見た事がなかった。あたしと三人で居合わせた事もない。そのせいだろうか、珍しい二人が顔を合わせているのが不思議と奇妙な光景に思える。
そして自分のいないところで自分の話をされているのを聞くというのは、悪口ではなくとも妙な感覚を覚えるものだ。ほとんど暗がりの中、家の前で所在なくたたずんでいる自分に気がつく。何故だかあたしの胸部には何かがぎっしりと詰まっているような、風通しがよくなったような、相反する落ち着かない気持ちでいっぱいになった。
なんだか、このまま大佐の家に入ってはいけないような気がする。立ち聞きなんてもっての他。早くどこかへ行かなくては。
足音をしのばせ、あたしは家を後にした。
夜道に昼間のような賑やかさはない。それがかえって今はありがたかった。夏の暑さも今はなりをひそめ、しっとりと冷えた空気を提供している。日の暮れた空はすっかり藍色になっていたが、見上げる気分にはならない。
あたしに行くあてなんかなかった。それでも、どこかへ行かなくちゃ。どこか遠くへ。あたしの気分を落ち着けさせてくれる穏やかな場所へ。
「あ」
口をついて出たのも知らず、あたしははっきりと輪郭を伴って現れた目的地目指してただひたすらに歩き続けた。今ではもう全身で求めていた。あの風を、あの波音を。長くはなかったかもしれないが、母と、父と暮らした確かな日々。あれは変わらない。不変な存在。
海辺を乞い、足は勝手に知らぬ道を進んだ。それでも波音が耳に飛び込んできた時には正しい道を歩いていたのだと知る。
液体の確かな感触があたしのふくらはぎを撫でる頃に、あたしはやっと冷静になった。開けた浜にたどり着けても、このまま泳いで島になど行けるはずがない。船だ、船が必要なのだ。島に居る時には、家族全員である三人がギリギリ乗れる程度のモーター付きの船を持っていた。あれは一体、今どこにあるのだろう。コンクリートの港が見えた。あそこなら船がいくらでもあるはずだ。濡れた足元を引き上げ道に出る。
真夜中ってほどじゃない海辺の街には、人影がないわけではなかった。一人徘徊するあたしの姿を見とがめる者はいたが誰も声をかけない。その時のあたしには、彼らは視界に入っていなかったから声をかけられても無視をしていただろうけど。
手軽な小型の船を見つけあたしは駆け寄った。気のせいでなく人の視線を感じたのであたしはやっと盗みをしようとしている罪悪感に気がついた。罪の気持ちは脳裏をかすめた程度で、すぐに焦燥に変わる。早く、誰かに見とがめられる前に船を沖に出さなくちゃ。
海に出なくちゃいけない。それだけにかられて、あたしは船を出した。
思えばきっと無我夢中だったと思う。
あたしの島の影が見えた途端、ものすごい量の安堵感が押し寄せた。本土から島に帰る時。または島から本土へと向かう時、見えるロセッティ島のシルエット。変わらぬ姿。
あたしの半生がそこにあった。
浮き立つ気持ちは船を乗り捨てて泳いで行きたいほどで、その衝動を抑えるので手一杯だった。不思議な高揚感と一抹の不安。久しぶりに訪れた人間らしい感情に気がつく頃には島の入り江に近づいていた。
「何……?」
かいだ事のないにおいがした。覚える違和感。異質な空気が島を覆っているのが分かった。おかしいと気づいたのは、明かりを見つけてからだ。あたしが以前ロセッティ島に暮らしていた頃は夜には明かりをほとんどつけず、早々と眠りについていた。あんな量の明かりを島で見た事がない。暗いままの島を想像していただけあってギャップがあった。
誰かいる。何者かが島に蠢いている。他人に自室に入られ、荒らされたような錯覚を覚える。気配もなく忍び寄られた誰かに背を撫でられるような悪寒。ロセッティ島は買い取られたと聞く。その買い取った者が島で自生しているだけかもしれないが、不安は募る。
この島で、かつてあたしの家そのものだった場所で、何かが起ころうとしている。そうとしか思えない。あたしには我が家を荒らされたゆえの悲劇的な何かを感じる。
入り江に着くより早く、あたしは船のエンジンを切った。足が着くかも確認せずに、船の錨を下ろすと飛び出した。ロセッティ島の海ならよく知っている。深さは分かっていたから、そのまま泳いで行くと足が着くところまで来る。
大丈夫、島の事はよく分かってる。我が家のようなものだから。光の方へと、人気のあるところへ行くにつれて岸に向かう斜面があたしの足を押し上げるが、なるべく水面より上に体を上げないようにした。
人の声がする。一人や二人なんてものじゃない。何人もの………大人の声だ。男ばかりのようで、まるで軍隊の夜間訓練のように勇ましい声が上がる。あたしは、浜に上がると同時に駆け出して、水の音をたてるのも構わずにしげみへ隠れた。
「………!」
「……、……?」
にわかに慌ただしい声がする。あたしが居るところからはよく聞こえないが、先ほどまでの雰囲気とは異なる空気が流れているのだけはよく分かる。
あたしに計画なんてなかった。無鉄砲、いや無謀といってもいい。でも、我が家を空き巣に荒らされて憤りを感じないものがいるだろうか。とにかく、家のあったところまでしげみをくぐって駆けて行こう。一応足音を忍ばせて、あたしは顔を上げた。
「驚いた。まさか君が来るとはね、ルーシー」
目の前に居たのは、よく知った人物じゃなくとも見た事のある相手。目を見開いた彼は、本当に驚いているようだ。しかしそれもすぐに余裕を持った大人の表情になる。にっこりと笑って、仕方がないというように手を腰にあてた。かつての島と比べれば、眩いほどの光を背にして手を伸ばしてくる。
「まあ、元は君の家だったから無理もないか」
その笑顔は、あたしに後見人になると言った時と、お茶をしながら談笑した時と、変わる事のないものだった。
差し出された手を、あたしは見なかった。
「手荒な真似はしないから、おいで」
「ここで何してるの」
あたしの問いに、ウォルター中尉は答えない。
「本当に、手荒な事はしたくないんだ」
念をおすように、優男は言った。まるで、あたしが素直に従わなかったら“手荒な真似”とやらをしてしまう、とでも言うように。
「強情だね。父親そっくりだ」
思わず、あたしは体を動かしていた。立ち上がったあたしに満足そうにうなずくと、ウォルター中尉は手をひっこめてからついて来るよう言った。睨みつけて警戒を全身で表現するあたしにも構わず、彼は歩き出した。
行ってはいけない。
あたしの中の誰かが止める。でもそこにはもう一人、あたしはいた。
真実を知りたくない?
あの優男風の男が何かを企んでいるのはもはや瞭然だ。よい事にしろ悪い事にしろ、彼についていけば巻き込まれるのは間違いない。相手はもしかしたらウォルター中尉一人ではなく軍部全体に関わるかもしれない。何人もの人間の声を聞いた今、組織的な動きがある事は明白だ。あたしの島で何をしているのかは知らないが、真っ当な事ならばこんな風にウォルターが警戒する必要があるのか。そう、あの中尉は警戒している。あたしの突然の登場に確かに警戒していた。顔には笑みが、しかし隙のない動きには相手が何かをしたらいつでも飛びかかるくらいの勢いを潜ませている。
それでもあたしは、父と同じようにあたしの島が今でも自分の日常で、あたしの手の届くところにあるものだと信じている。それが今、もしかしたら脅かされようとしている。もうためらう理由はない。
「父にそっくりってどういう意味ですか」
彼は父の部下だったそうだから、そのままの意味だろう。それでもどこか揶揄するような響きが先ほどの言葉にはあった。歩き出したあたしを横目にして、ウォルター中尉は少し歩幅をゆるめる。
「……聞いてしまうんだ?」
やはりからかいの笑みが広がる。暗黙の了解をどうしてだと聞いた子供を見るような目で。困った子だ、とばかりに。
「何か問題でも?」
「いやね、世の中には聞かない方がいい話もあるって事。それが今かもしれないよ」
何が言いたいのだろう、彼は。あたしが父に似ているからどうだというのだ。自覚はないし、むしろ父とどこに親子のつながりを感じればいいのかと感じていた。だから知りたい、というのではない。裏がありそうなこの男の物言いが気にいらない。
「聞かないで後悔するより、聞いて後悔する方がマシよ」
確かにそう思っていた。父親が死んだ時に、あたしはすぐにそれを知る事が出来なかった。知らないままでいるくらいなら、早く知っていたい。
あたしだけ知らないのは、もううんざり。
足を止めたウォルターにあたしはなんとなく視線を周りにやる。
「ああ、気にしなくていいよ。続けて」
あたしにもう続ける言葉はない。それより、彼らが何をしているかの方が教えてほしかった。広がる光景の方を。今までは植物たちでシルエットしか見えなかったそれらが、一気に顔を見せていた。プレハブ作りの簡略な建物がいくつも建てられている。あたしの家のあったところはどこか分からないほどに、ロセッティ島の景色が変わってしまっている。
「何を……しているの…」
脳に視界のすべてが行き渡るまで時間がかかった。愕然とした。
「これを知ったあの人は止めようとしたよ」
くっとウォルター中尉はこらえきれないように笑った。今まで見た中で一番の最悪な笑み。あたしはもしかしたら、嫌いな野菜を前にした子供みたいな顔をしたかもしれない。それすら構わず、彼は続けた。
「頑固で、計画の事も組織の事も認めようとしなかった」
父親の事を言われているのだとやっと分かると、信じられない事実に行きつく。
「まさか……」
「軍上層部に報告をするといって聞かないので、組織としては困った事になった訳だ」
たとえそれが誰であれ、彼の続けるだろう言葉は想像出来る。にたり、今度こそ紳士らしさや優しい男のような笑みではなかった。
「だから口を閉じてもらったんだ―――永遠に」
突然頭を殴られたような感覚だった。
「父を殺したの……? 任務中の事故死じゃなくて?」
紛争地域に向かった矢先の事だ。危険な爆発物を運ぶ任務において誤爆が起きた。その爆発に巻き込まれて父は――。
「仕組んだのね?!」
信じられなかった。本当に。父の死そのものも未だに信じられずにいるのに。
「仕方がない事だったんだよ。僕らはまだまだ、成長中の組織でね。邪魔される訳にはいかなかったんだ」
もはや、目の前の男が優しくあたしの後見人になると言った事すら幻だったように思える。別人だった方がまだマシだ。
あたしは頭に血がのぼっていた。何か、何かをしなくては。明瞭ではない衝動にかられた。
素早く目を辺りに走らせると、木の棒を見つけた。父親の敵とばかりに手に取ったそれをウォルターに振り上げた。難なくそれを受け取る手。特殊な訓練を受けているわけでも運動が得意ですらないあたしの腕はか細かった。
「手が早いねえ」
もはや気持ち悪い笑顔のまま、ウォルターは棒を投げ捨てた。




