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 歩くだけで汗をかくほど暑い日の午後、あたしは気分が思わしくなくて学校を後にした。夏はもうすぐそこまで迫っている。今日は夏日かもしれない。

 逃げてゆく水辺の陽炎を遠くにしてあたしは学校からの坂を下った。気だるく、脳みそが正常に働かない。このくらいの気温の変化にやられる程人間は柔じゃない、まして島育ちのあたしが暑さにへばる事はあまりないが、今は関係ない事だ。

 あたしは、気分がのらないのだ。暑くて。頭がぼうっとする。

 だからだろうか。本来ならば見られるはずのない人の影が、大佐の家の中にあるのは。立ち止まると、確かに家の中に誰かが居るのが確認出来た。あの家に住むのはあたしとフォード大佐の二人だけだ。両者共に友人が訪れるような事は未だになかった。

 あたしは一瞬警戒した。空き巣か何か、泥棒に入ったのかもしれないと。もしくは、あの大佐が死んだから誰か訃報を届けに―――――

 あたしは、止めていた足を一気に動かした。

 飛び込むように家に入ると、わずかに驚いたような表情のフォード大佐。

 平日の、ましてこんな午後の昼下がりに居るはずのない大佐が家にいる。あたしは彼の生存が分かってからは、何かが軍部で起きたのかと思った。緊急任務で他国へ飛ぶとか、長期的に戻らないとかで、家族に(いとま)を告げる時間だけは与えられた、など。

「帰ってたのか。今日は…半ドンなのか?」

 あたしはいつもの硬い表情に戻った大佐の声に我に返る。それから、顔は見ずに大佐を横目で見上げる。いつもと、変わらぬ様子だ。

「半、ドン…?」

 聞かない言葉だ。

「ああ、なんだ……午前で授業は終わったのかい」

「……いつの間に、学校行ってる事知って…」

 口にしてからすぐに気づいた。大佐が学校に電話をすれば一発だ。彼には、また学校に通うようになった事は一度も口にしてない。それなのに何故、とは思ったがすぐに疑問は消えた。

 初めて学校に戻った日、次の日は彼が帰ってこられる週末だった。だが彼には用事があったのか、仕事が忙しいのか、必要ないと考えたのか、家に訪れなかった。だから、今日会うまでに一度も顔を合わせていないし手紙も電話も互いにしていない。しかし彼が知る術は、学校を通してではあるが、確かに存在する。

「別に、どうでもいいですけど」

 大佐が言葉を選んでいるうちにあたしは話を切り上げた。家の奥に入って行き、しばしの間自分の部屋にこもろうか迷う。

 あたしの気分を損ねたのかどうか、心配しているかのように小さく眉を寄せた大佐を、あたしは振り返った。

「今日は、どうしたんですか。週末でもないのに」

 視線を合わせる事はないけど、あたしが問えば彼は応える。

「週末以外にも休みはある。ただ、仕事が残っていればそちらに費やすだけで、今日は上手い具合に仕事が片付いた」

 フォード大佐は、少しだけ足を開いて休めの体勢を作る。もしかして、あたしの返事を待っているのだろうか。何を待っているのかは分からないが、相づちでもほしいのかもしれない。あたしが適当に頷こうとすると、大佐は一度唇をぬらすようにしてこう言った。

「ビーチに行かないか?」




 今の時間、この方角では水面は光を効果的に反射させるだけ。眩しい白が、太陽光を打ち返す。あたしは目を細めるどころかしかめて、サングラスを持ってこなかった事を後悔した。

 暑いから、気分が悪いと、断る事も出来た。あたしに、拒否権はあった。

 ビーチへの誘い。泳ごうというのでもなく、ただビーチで椅子に寝そべって過ごすだけだなんて思ってなかった。

 あと二人か三人くらいは間に入れるくらいの距離を作って、大佐はあたしと同じく椅子に寝そべる。波が陸に上がり引き上げていくのを繰り返す、ただその音を聴きに来ただけのように、会話はない。あたしの頭上にはビーチパラソル。上空からの光は防げても、海からの光は防げない。

 後方で人の声。まだ夏本番とはいかないが、ビーチは人がまばらに点在する。

 ロセッティ島の砂浜とは、違う。改めてそう思う。

「……学校は、どう…なんだい」

 気さくに話しかける事に不慣れな口調で、あたしの左手側にいる男は問うてくる。

 遠くで子供のはしゃぐ声。家族と来ているのか、母親を呼ぶのが聞こえる。閉じた瞼の下まで、点滅するように反射された太陽光は入りこんでくる。

 そしてまた、島とは違う波の声。

 大佐が(いら)えを諦めた頃、あたしは口を開いていた。

「……島の波音は本土とは違う」

 左側の椅子がきしむ音がかすかに耳に届く。あたしは続ける。

「父はよくそう言ってました」

 父の事を語るのに、不思議と違和感はない。彼は今他の人間に娘を任せて、任務のため長期間他国に居るのだ。そう思えるほど。

「父は少しだけ、あなたに似ているところがある気がします。年頃の娘との距離を図りかねてる、そういった様子がありました」

 アルバート・ウォーターハウス。黒い髪は短く刈っていた。日焼けした褐色の肌、フォード大佐と同じくらいに筋肉のある男。愛する女性の身体がとてもか弱いものだと知っても結婚をやめなかった男。生涯の伴侶のために島まで買った。娘が生まれた時には泣いたと聞く。

 そして妻が死んだ時にも、泣いたと。

「それでも、父なりに何かにつけて話しかけてくるような人で、それがサバイバル知識とかいう……あたしにはあまり興味のないものばかり……」

 確かにロセッティ島においては全てが快適に過ごせる道具も機械も少ない。しかし飲み水はある、食用の果実もあるために飢えはしないし電話もあった。必要最低限の、ちょっとしたサバイバル知識が必要だっただけだ。だが彼が教えようとしたのはそれ以上の、あの島より過酷な場所に行った時のための知識だった。

 必要ないと話半分に聞き流し、でもあたしは同世代の学校の子たちのように親を厭わしく思う事はあまりなかったから、たまには実践例にもつき合ってあげた。

 波の音が違うからここはロセッティ島ではないと分かる。それなのに話しているうちに、目を開いたらあの場所に居るような気になってくる。

「……島には蛇がいたから…マムシ酒を作るとマムシを探しに行って…」

 結局マムシまでは見つからなかった。

「一度電話がつながらなくて、いざという時のために狼煙を覚えようなんて言い出して…」

 電話線が不調だっただけで業者に頼めばすぐに回線はオールグリーン。それでも何かあったらどうするんだと。

「結局、諦めたけど………」

 いつの間にか父子家庭。父親は軍人、滅多に帰れぬ唯一の肉親。それでもあたしが島に居続けたのは、あの場所には母が眠っているから。あたしは墓守りか何かのつもりだった。

 大切ななにかを、守れもしないで。

 きゃあ冷たい、海に入った若い女性の悲鳴が聞こえる。

 ああ、やっぱりここはロセッティ島じゃない。

 瞼の表では光がゆるやかに和らいでいった。目を開けるのが怖くなる。原因は不明。目覚めて真っ暗闇だったらどうしようと心配する子供みたいに。反射光は、確かにあたしの瞼をつつくのに、どうしてだろう。

「島の波音は本土とは違う」

 一瞬、知らずのうちにあたしの心の内が口に出ていたのかと思った。声は低い男性のものだったのに。

「…やつもよくそう言っていた」

 この話が続いても続かなくても、どちらでも良かった。あたしの話が、尻切れとんぼになったのを追求されるよりはましだとも思う。

 一陣の吹く風に、あたしは瞼を上げていた。目をつぶる前と変わらぬ風景。反射光を散らかす青い海、砂浜が白く泡立つ。空は透き通る水色。

 フォード大佐が父とちゃんとした友人なのだと、この時やっと分かった気がする。




 夕方になれば、彼は何故かバーベキュー道具一セットを借りて来た。どうやらこのままビーチでバーベキューを開催するらしい。

 あたしは正直予想だにしない出来事だったため、彼があっという間に道具を組み立て網をのせるのを見ていただけだった。肉や野菜までいつ買ったのかどっさりと存在する。

「いっぱい食え」

 まだ焼き上がってもいないのに、そんな事を口にする。

 少しだけ、面白い人だと思った。

 バーベキューで食事を共にしても会話ははずまなかった。今までにあの大佐の家でも一緒に食事をした事は数回あるが、場所を変えようとそこだけは変わらなかった。

 あたしはあんまり食欲がなかったけど、分厚い牛肉をあたしが食むと、彼はやけに目を細めてこちらを見ていた気がする。平時のあたしなら太らせて肉屋に売る気かと言ってやったかもしれない。

 普段からご飯は食べているから食が細いとは思われていないはずだが、あたしが食材に手を伸ばすたびに彼は刹那動きを止めた。それからこっそりと眼球だけでこちらを見る。

 あたしは、心配されているのだろうか。食事もまともに摂っていないのでは、と。

 週末にあの家に戻った大佐と食事を共に食べた時、今と同じ様だっただろうかと思いをめぐらす。あたしは覚えていない事に気づく。いや、覚えていないどころか食事中に彼を見た事はない。

 相手の動きなんて知るはずがないのだ。あたしはただ皿の上の食材を見つめ咀嚼する行為を繰り返していたから。

 だから覚えていないのも仕方がない。

「仕方がない…」

 ぽとり、こぼしていたものにも気づかずにあたしは食事を終わりにする事にした。

 会話はやっぱり、ほとんどないままに帰宅となる。




 バーベキューの後、週末のように泊まっては行かずに大佐は帰って行った。

 あたしはその夜、久しぶりに夢を見た。

 駅伝の大会の真っ最中。走って走って、どうしても一着になれない。走っても走っても、前の選手に追い付けない。

 あたしはそれが悔しくて、どうしてもどうしてもその選手を追い抜いてやりたくて力を入れて強く地を蹴る。

 あまりにふんばり過ぎたのか、走るうちにあたしはヒョウになっていた。両手が前足になり、四肢を使って大地を駆けていた。景色が素早く流れて行って、先行選手をみんな追い越したんだと歓喜する。

 あたしは、ゴールテープを切ったと思ったのに、そこに立ちつくしたら誰もいなかった。何も。切ったばかりのテープも、追い抜いた選手たちも、観客も。

 やけに世界は白くなって光り――――

 あたしは目覚めた。

 夢はそこで終わりだ。フロイトで精神分析する気がしないから、もう忘れる事にする。

 あたしはただ、夢を見ていただけなのだから。

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