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父のアルバートが死んだ。
病弱だった母のために住んでいた孤島ロセッティ。そこであたしは一人暮らしていた。小さな島に住むあたしにその知らせが届いたのは、父の死後二日かかった。
父は軍人だったから、覚悟をしていなかったといえば嘘になるかもしれない。
それでも、ただただ突然だった。
これで両親がいなくなった。
あたしには、兄弟もいない。
これで、誰もいなくなった。
葬式は、軍隊式で行われた。任務中の死で、軍人が殉死した際に入る共同墓地に棺は埋められた。
あたしは、わけも分からぬままに葬式に参加させられ、父の顔を見た。まるで別人のようだった。死後二日たった人間の顔は色あせるどころか、かすかに緑色を帯びて見えた。父の顔をした、違う誰かが長い箱の中につめこまれていた。
涙は出なかった。
父を送る言葉は、軍人仲間の口から次々と出たけれど、それはあたしの知らない人だった。
親戚だという者も居たようだがほとんど初めて会ったような顔ばかり。
あたしはただ、脳みそが働いていない頭でぼんやりと一連の儀式を見ていた。
送魂。
父は、もうこの世界には居ないらしい。
あたしが唯一知る親戚、叔母イヴリンからの言葉で今日は軍の施設に来ている。お目付け役か何かは知らないが、今まで会った事すら忘れていそうな親戚の少年が一人、ついて来ている。
後見人になってくれそうな人に会いにきたのだ。里親や養親とは異なり、後見人の制度は親を亡くした未成年者の面倒を見るだけの存在だという。共に暮らしてもよいが、そうすべきという拘束力は持たない里親のようなものといえばいいのだろうか、叔母は言っていた。
母の妹である叔母は、あたしの後見人になりたがってくれた。しかし他の親族があたしを引き取ろうともしないくせにそれを反対し阻んだ。
親族とはいっても、誰もほとんど関わりのなかった遠い遠い親戚だ。元々、父も母も血縁関係の存在が少なかった。母方は特に絶縁関係にあったために父の葬式にも叔母以外訪れなかった。父が体の弱い母を家族から奪うように結婚したから、交流はなくなったと聞いた事がある。父は、代々軍人の家系だ。だからというのはおかしいかもしれないが、天寿をまっとうした者があまりおらず生きている者が少ない。
叔母が一番近しい親戚で、唯一の味方だった。彼女は働いているとはいえベンチャー企業に就職したばかり。それをよしとしなかったのが遠い血縁者たちだ。
自分がしない事を反対する権利がどこにあると、叔母はひどく憤り果敢に彼らに立ち向かった。しかし、彼らは必要な事は終わったとばかりに去って行った。後見人には、親族なら誰でもなれるわけではない。他人でも、ある条件を満たせば後見人になれる。叔母は悩んだようだったが大学を卒業したばかりの、安定した生活の望めない自分を分かっていたのか、あたしの後見人になれそうな人を他に探してきた。
それがこの施設に居る。父の同僚たちだ。軍人はこの国で少し特殊な扱いになり、一定の階級がある者なら他人の子供の後見人となる事が出来る。と叔母の話。
あたしは、ここに行けと言われたから来た。何も言われなければ来なかった。
ただ惰性で生きていた。
―――はやく、帰りたい。
どこに?
―――あたしの家、あたしの島に。
それで?
―――はやく……かえりたい。
どこに?
―――……あの日に
「おい」
苛立ちを押し出した声。不機嫌さを声でもって表現しようとする者のもの。
あたしが今まであなたの存在に気がつきませんでした、というような顔で見たからだろう。相手はやはり不満げに目を細めた。
「いつまでたらたらしてんだ。さっさと中に入るぞ」
はねた髪の少年は、あたしと年は変わらないくらいだが生意気盛りか反抗期のようだ。睨みつけるようにこちらを見ている。
彼が誰の従兄弟の叔父の息子だかは忘れた。そもそも紹介をされた事すら覚えていない。名前がイアンだったという事くらいしか記憶にない。
何の指令をもってここに居るのかは分からないが、不思議な事にイアンは今まで会った事もないあたしについてくる。誰かに頼まれたのだろうが、この分だと嫌々ながらというところだろう。
「後見人に会うんだろ」
腕を強く引っ張られ、施設の入口に連れていかされる。白い外壁の、一見事務員の職場と変わらない施設の中へ。
あたしの意思ではなく、よく知らない少年の意思であたしは歩いていた。見慣れぬ、しかし興味のわかない施設の景色を横目に、イアンは受付で言付かった場所へと向かっているらしい。
彼は一体、何なのだろう。行動からはあたしに同情している様子はない。むしろ、あの親類たちのようにあたしを厭わしく思ってさえいそうだ。
それなのに何故、あたしの手を痛いくらい引いて歩いているのだろう。
「ここか」
無愛想な中にも緊張をどこかにじませ、イアンは一つの扉の前で立ち止まる。
軍人が家族や知り合い、外部からの訪問者を迎える場所があるという。それがここだ。叔母の話によると、父の同期で一人、後見人にふさわしい者が居るとか。
イアンが扉を開いた。そこには、二人の人間が居た。いや、二人の軍人が。
こちらの姿を認めるなり立ち上がる。あたしはイアンに突き飛ばされるように部屋に飛び込む。
「こんにちは。君が中佐の娘さん…ルーシーだね。僕は、ウォルター・ホガース。階級は中尉だ」
部屋に居たのは比較的若い男性と、父と同じくらいの年の男性だ。若い方が真っ先に口をきく。
あたしは返事もせずに眼球のみで彼を見た。軍人にしては少し長い髪、紳士然とした穏やかな表情。朗らかで気さくそうな優男といったところ。クラスの女子が居たら恋に落ちそうな、整った容姿。それを少し悲しそうに歪めて言葉をつなぐ。
「中佐の事は…非常に残念だった。僕も式には居たんだけれど、覚えているかな?」
あたしは、ウォルター中尉を覚えてはいなかった。だからそのまま答えていいものかと、悩んだわけではない。あたしは何故、こんなところに居るんだろう。それが分からなくなったから口を開けないでいた。
「私はフォード・オーウェル」
二人の軍人が自己紹介をするのも耳に入って、再び同じところから出て行くようなものだった。
大佐と判明した父と同じ年ほどの男性が再び口を開く。
「私は、君の父親とは同期だった」
それは事実でも、あたしにはあまり意味をなさない。父はもうどこにもいないから。
「ルーシー。私と君は、一度だけではなく何度か会っている。もっとも君がまだ幼い頃だから覚えていないだろうが」
その通り覚えていなかった。まだ乳飲み子を脱したばかりの記憶ならほぼ残ってはいない。ただ滑舌良く話せるようになった頃には、何度か父の同僚の軍人に会ったような記憶がある。顔までは覚えていなかったが、それがこのフォード大佐なのかもしれない。
「今日はこいつの後見人をお願いしに来たんですよ」
ぶっきらぼうにイアンが言う。居たのか、と思う。
父親を亡くし天涯孤独になったあたしを気づかうように、どれだけあたしが口をきかずに悪い態度をとっても、三人の人物はあたしをたしなめない。それどころか、あたしをこいつ呼ばわりした少年をやんわりと訂正させさえした。
「女の子に対して『こいつ』はよくないな」
ウォルターは紳士ぶりを示すかのように。
対するフォード大佐は何も言わずにいる。四十代に見えるが父と同期ならもう少し若いかもしれない。もう取れそうにないしわが眉間に固定された顔。寡黙で堅物軍人という雰囲気の、表情筋を年に一度動かせばいい方というような表情をしている。ウォルター中尉も同じ軍人として筋肉のある引き締まった体をしてはいるが、フォード大佐の方が上背があるため貫禄がある。威圧感すらあり、目元の鋭い眼光は小さな子供なら後退りしてしまいそうなほどだ。
それが、あたしが見ていると分かるとわずか和らげられる。だが彼はあたしに対してどう接していいのか分からないようにも見えた。
「君の家の事情は承知している。私でよければ、後見人になってやりたいのだが…」
「僕も申し出てきちゃった、ってわけ」
いつの間にか話は核心に迫っていたようだ。イアンが不機嫌そうに二人の軍人を胡散臭い瞳で見上げるのも知らず、あたしは面倒だとだけ思った。
「中佐にはとてもお世話になったから、恩返しが出来たらと考えていたんだ」
叔母が言っていたのはどちらの人物なのか判断しかねた。
「私はアルバートの友人でもあった」
だから当然の事なのだと、続けるように。ウォルター中尉は目を優しく細めて、フォード大佐の言葉に頷くようにしてこちらに目をくれる。
「戸惑うのも分かるけれど、どちらも悪い話ではないと思うよ? だから、君が決めていいんだ」
どちらの者に引き取られるか。
後見人だからといって共に暮らすわけではないが、そうと望まれる事は少なくないらしい。しかし彼らは軍人で寄宿舎に泊まり込みのため、毎日同じ屋根の下で暮らす事はまずないはずだ。どちらが後見人になったとしても、叔母と暮らすという選択肢がないわけではない。
ただ、何もかも億劫だった。あたしは、叔母にすら放っておいてほしかった。
あの島で、暮らす。帰らぬ人を待って。
「お前、叔母さんにでも相談すれば」
意外にもアドバイスじみたものを口にしたイアンに、あたしは振り返った。彼はその事に驚いたように少し目を見開いたが、「電話でもしてさ。今日必ず決めなきゃいけないワケないだろうけど」とさっきまでの調子に戻って続けた。
決めかねてるあたしが分かったのだろう、二人の軍人も同意するように頷いた。
「それがいいよ。それに、あの子の言うように今すぐ決めなきゃいけないって事もないからね。今後に関わる大事な事だから」
あたしは、自分の爪先を見つめた。それから絨毯の目に視線を移す。穴があくほど見つめたわけでもなく、ただ一ところに視線を落として、そのままにする。
あたしの中に答えは生じない。
未来のあたしが描けない。例えば、父と同じ年頃の大佐が後見人になったとして、若い優男が後見人になったとして、結局は叔母と暮らす事になったとして。
ヴィジョンが描けない。あたしはどこにもいない。
「……おい?」
肩に違和感、それはイアンの右手。
どこか心配そうにこちらを見つめる六の瞳。
「…叔母さんに、相談してくる」
あたしがやっとの事で出した答えは他人に任せる事だった。叔母のイヴリンなら、あたしを悪いようにはしないはずだから。決めてもらうつもりでいた。
すぐ電話したいのだと分かると彼らは部屋の外にある公衆電話を教えてくれた。
『あら、まあ良かったじゃない、いい後見人が見つかって』
あたしが応えないので、叔母は続ける。
『でも二人もいるから悩んでいるのね。分かるわ』
しばらく叔母は考えこんだように黙っていた。廊下の公衆電話に、あたしが話をしていると知る人はここにはいない。この施設はあまり人影を見る事が出来ない。受付で会った女性以外なら、一人すれ違ったくらいだ。日の差し込まない廊下は静かだった。
『最後に決めるのは、あなたよ。それを忘れないであたしの話を聞いてね?』
あたしは小さく首を縦にする。電話なのだから相手に見えないとは分かっていながら口を開く事はしない。
『最近の軍部は、ちょっときな臭いって話なの。正直、疑うなんて嫌だけど……古株じゃないと信用出来ないわ。それに、同期のオーウェル大佐の方がやっぱり安心だわ。年も親子に近いし』
叔母は最初に後見人として当てにしていたしていた人物がどちらだったかは告げてこなかった。あたしが叔母の言葉を鵜呑みするのを懸念しての事なのだろうか。どちらにせよあたしはわざわざそれを問う気持ちにはなれない。
『あたしには、その若い中尉の方が疑問だわ。いくらアルバート義兄さんがかつての上司だったとしても、まだ若い人が十五の子供の後見人になるってどういうつもりかしら。あら、ごめんなさい。不安に思わないで。後見人の制度はあなたも分かっているとおり、やましい人間が後見人になれるようなものじゃないから』
逆に不安になるのではないかというような台詞、しかしあたしは叔母が導き出した答えにただ追随するだけだ。
「分かってる」
『それならいいんだけど、何も今日すぐ決めなくたっていいのよ? ルーシー。あなたの人生に関わるんだから』
労る声、叔母だけはいつも良くしてくれたが今日だけはやけに遠い。いいや、父の訃報を告げてきたあの日から。誰の声も遠いのだ。
「…うん」
それから短く挨拶をして受話器を下ろした。
あたしは、もう決めてしまった事を今日伝えるべきかどうか、受話器に置いたままの手の甲を見ながらぼんやりと考えていた。




