第一話 静かなる眠りの病
その日も、アゼルとリリアは探求室で、浄化実験の次の段階に取り組んでいた。
「室長、やりました!」
リリアが、水晶の測定器を手に、少し興奮した声で探求室に飛び込んできた。
「東第二区画の残滓濃度、ついに危険域を脱しました!これでまた一歩前進です!」
「…そうか」
アゼルは机の上の膨大な資料から顔を上げると、リリアが差し出す測定値に静かに目を通した。
そして、壁の幻影循環図に新たな印を書き加え、どこか遠い目をして呟く。
「ああ。これでまた一歩、ドクター・ヴァンスが望んだ未来に近づけた。…だが、ここに至るまで半年かかった。この遅々とした歩みが、時として俺を誘惑する…。彼のように、一度に全てを浄化する誘惑にな」
その言葉に、リリアは少しだけ表情を曇らせた。
「ダメですよ、室長。あの人のやり方は、あまりにも急進的すぎました。自らの身体が負荷に耐えきれなくなるほど…」
「分かっている」
アゼルは穏やかに返した。
「だからこそ、我々は薄紙を一枚一枚剥がしていく。時間はかかるが、これこそが、この都市の呪いを解く唯一の方法だ」
「はい!」
リリアは力強く頷いた。
この地道で、しかし確かな一歩一歩が、彼女の誇りだった。
そんな穏やかな日常に、最初の影が落ちたのは、その日の午後だった。
探求室の扉が、慌ただしく叩かれた。
入ってきたのは、都市守衛隊長のガイウス・ストーンだった。
その屈強な体に不釣り合いなほど、彼の顔には深い困惑の色が浮かんでいた。
「アゼル君、リリア君。奇妙な事件だ。君たちの知恵を借りたい」
ガイウスが語ったのは、にわかには信じがたい話だった。
市場でパン屋を営む老主人が、今朝、店先で椅子に座ったまま、深い眠りに落ちて、決して目を覚まさないのだという。
「医師の報告では、外傷もなければ、毒物の痕跡もない。病気の兆候も一切なしだ。原因不明だが、まるで老衰で眠り続けているかのようだ、というのが公式な見解だ」
「ですが、隊長はそうは思っていないのですね?」
リリアが尋ねる。
「ああ」
ガイウスは、苦々しげに頷いた。
「奇妙なのは、そこからだ。主人の妻が言うには、意識を失う直前、主人は『ああ、綺麗な鐘の音だ…』と、うっとりしたように呟いたそうだ。だが、その時、教会の鐘は鳴っていなかった。妻にも、周囲の誰にも、そんな音は聞こえなかったという」
「幻の、鐘の音…」
アゼルは、その言葉に、胸の奥が静かにざわつくのを感じていた。
アゼルとリリアは、ガイウスと共に、現場となったパン屋を訪れた。
店先には、まだ焼きたてのパンの香ばしい匂いが残っている。
だが、その温かい日常の香りとは裏腹に、店の奥からは、主を失った家族の、押し殺したような泣き声が聞こえてきた。
被害者が座っていたという椅子には、まだ彼の温もりが残っているかのようだった。
リリアは、特殊な試薬を染み込ませた羊皮紙を取り出し、周囲の空気に錬金術的な痕跡が残っていないかを調べ始めた。
「…ダメです、室長。毒物や、精神に干渉するような薬物の痕跡は、全くありません。魔力の乱れも、ごく僅か。これでは、原因不明としか…」
一方、アゼルは目を閉じ、その場に残る微細な幻影の残滓に、意識を集中させていた。
彼の並外れた幻影を見る能力は、常人には見えない世界の質感を読み取ることができる。
(…何かが、ない)
アゼルは、眉をひそめた。
人が意識を失う時、そこには必ず、その魂が最後に見た光景や、感じた想いが、『記憶の残滓』として微かに残るはずだった。
だが、この場所には、それがない。
まるで、魂がその最後の記録を残す暇もなく、綺麗に抜き取られてしまったかのような、不自然な「空白」だけが広がっていた。
「奥さん」
アゼルは、涙に暮れる主人の妻に、静かに問いかけた。
「ご主人が、鐘の音について、何か他に言っていたことはありませんか? どんな音だったか、どこから聞こえてきたか…」
「いいえ…ただ、とても澄んだ、美しい音色だったと…。まるで、天から降ってくるようだ、とだけ…」
その時だった。
「隊長!大変です!」
守衛隊の若い隊員が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「今度は、図書館の裏通りで!古物商の老人が、同じように、眠りに落ちて目を覚まさないと!」
ガイウスの顔が、険しさを増す。
「…まさか、連続しているのか?」
アゼルは、その報告を聞きながら、一つの恐ろしい可能性に行き当たっていた。
これは、単なる奇妙な現象ではない。
アストラルムの、いや、アゼルたち自身の研究の、最も深い部分に関わる、未知なる現象の始まりなのではないか、と。
その予感は、的中した。
翌日には三人、その次の日には五人。
原因不明の「眠り病」は、静かに、しかし確実に都市を蝕み始めた。
被害者たちは死んではいない。
物理的にも錬金術的にも、完全に健康なのだ。
だが、その意識だけが肉体から抜け落ちたように、決して目を覚まさない。
そして、唯一の共通点は、被害者たちが眠りに落ちる直前、他の誰にも聞こえない「幻影の鐘の音」を聞いていた、ということだった。
アストラルムの市民たちは、いつ自分にも聞こえるか分からない「鳴らない鐘」の音に怯え、都市には、ヴァンスの事件以来の、重苦しい不安の空気が漂い始めていた。