エピローグ
ドクター・ヴァンスの事件が、幻影都市の根源的な秘密と共に、アゼルたちの前にその全貌を現してから、一年が過ぎた。
外界では、すでに「世界の病」が癒えて久しく、エレジア王国に若き宰相が誕生したことで、大陸全体が新たな時代の息吹に満ちていた。
その大きな変化の波は、これまで固く門を閉ざし、歴史の大きなうねりから隔絶されていた、この孤高の都市にも、静かに、しかし、確実に押し寄せていた。
アストラルムは、変わり始めていたのだ。内側からも、そして、外側からの風を受けて。
◇
ある晴れた午後。
アストラルム錬金術学院の一角にある、最も大きな研究室。
そこはかつて、ドクター・ヴァンスが使っていた場所だったが、今では「都市真理探求室」という、新しい看板が掲げられていた。
「先輩、今日の幻影安定度の測定値、過去最高を記録しましたよ!」
リリア・フローレスが、水晶の測定器を手に、嬉しそうに報告した。
彼女は、もはや単なる助手ではない。
この探求室の、副室長として、実践的な錬金術の腕を振るい、多くの若手研究者たちを束ねていた。
「そうか」
机の上の膨大な資料から顔を上げたのは、この探求室の室長、アゼル・クレメンスだった。
彼の表情は、以前のような影のあるものではなく、自らの進むべき道を見つけた者の、静かな自信と落ち着きに満ちていた。
彼の机の上には、ドクター・ヴァンスが遺した、暗号化された研究ノートが広げられている。
アゼルは、この一年、そのノートの解読に全てを捧げてきた。
そして、ついに、ドクター・ヴァンスが命と引き換えに証明しようとした、究極の秘術の、その一端を理解し始めていた。
「ドクター・ヴァンスの理論は、正しかった。だが、あまりにも急進的すぎた」
アゼルは、リリアに説明した。
「彼は、都市に満ちる『記憶の残滓』を、一度に浄化しようとして、その膨大な負荷に、自らの魂が耐えきれなかった。我々のやり方は、違う。薄紙を一枚一枚剥がしていくように、時間をかけて、慎重に、この都市の呪いを解いていく」
その時、部屋の扉が、控えめにノックされた。
入ってきたのは、ガイウス隊長だった。
その顔には、いつもの苦々しさと、ほんの少しの緊張が浮かんでいる。
「アゼル、リリア。急な話だが、エレジア王国から、重要な客人がお見えだ。宰相閣下と、その特使殿が、君たちに会いたいそうだ。この都市の、幻影の安定化技術について、意見交換をしたいと」
「宰相閣下が、直々に…?」
リリアが、驚いて目を見開く。
アゼルは、その名を聞いて、一つの噂を思い出していた。
エレジア王国で、偽りの英雄たちを断罪し、大陸を救ったという、若き宰相。
その名は、カイル・ヴァーミリオン。
◇
評議会の応接室。
アゼルとリリアが通されると、そこには、すでに二人の男女が待っていた。
一人は、歳の頃はアゼルとそう変わらない、鋭い鳶色の瞳を持つ青年。
その佇まいは、政治家というよりは、全てを見通す捜査官のようだった。
彼こそが、エレジア王国の若き宰相、カイル・ヴァーミリオン。
そして、その隣には、柔らかな亜麻色の髪を持つ、優しい雰囲気の女性が、興味深そうに、部屋の隅に揺らめく幻影の燭台を見つめていた。
彼女が、宰相特使のリィナだろう。
「はじめまして、アゼル・クレメンス室長。君の報告書は、読ませてもらった」
カイルは、挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。
その声には、余計な感情が一切含まれていない。
「この都市の幻影は、極めて特殊な法則に基づいているようだ。それは、観測者の存在を前提とし、確率論的にその姿を変える、一種の量子的な現象に近い。私の仮説では、中央の『幻影の塔』は、その確率を一定の範囲に収束させるための、巨大な安定装置として機能している。君の見解は?」
それは、政治家ではなく、一人の探求者としての問いだった。
アゼルは、初めて、自分と同じ言語を話す人間に会ったかのような、不思議な感覚に陥った。
「…あなたの仮説は、ほぼ正しい。だが、塔の役割は、安定化だけではない。封印でもある。この都市の幻影の根源は、過去の錬金術師たちが遺した、膨大な『記憶の残滓』…つまり、情報そのものだ。塔は、その情報が暴走しないように、常に、無意味で、美しい幻影へと、変換し続けているのです」
二人の会話は、瞬く間に、高度な理論の応酬へと発展していく。
その光景を、ガイウスは呆れたように、そしてリリアは、尊敬の眼差しで見つめていた。
一方、リィナは、応接室の窓に近づき、そっと、その石の壁に手を触れていた。
「…聞こえる…」
彼女は、小さく呟いた。
「この街、なんだか、ずっと、泣いていたみたい。でも、最近、少しだけ、歌い始めた気もする…」
その言葉に、リリアは、はっとした。
それは、かつて自分が感じた、この都市の「声」と、全く同じだったのだ。
「あなたも、聞こえるのですか?」
「はい、少しだけ」
リィナは、リリアに、優しく微笑んだ。
「私の故郷も、大地が病気になったことがあったんです。でも、今は、元気になりました。きっと、この街も、いつか、本当に心から笑える日が来ますよ。あなたたちのような、優しい人たちがいる限り」
二人の間には、錬金術の理論でも、政治的な駆け引きでもない、ただ、大地と、そこに生きる人々を想う、温かい共感が流れていた。
◇
短い会談を終え、カイルとリィナは、アストラルムを後にした。
「面白い都市だったな」
カイルが、帰りの船の上で言った。
「法則が歪んでいるようで、その実、極めて高度な法則に支配されている。学ぶべき点は多い」
「ええ」
リィナも頷いた。
「それに、とても、優しい人たちがいました。きっと、良いお隣さんになれますね」
その日の夕暮れ、アゼルとリリアは、再び、探求室のバルコニーから、眼下に広がる幻影都市を見下ろしていた。
夕焼けの光を浴びて、都市の幻影は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように、きらきらと輝いている。
「この街、本当に綺麗になりましたね」
リリアが、心から嬉しそうに言った。
「なんだか、前よりも、ちゃんと息をしているみたい」
「ああ」
アゼルは頷いた。
「ドクター・ヴァンスが望んだ未来に、少しは近づけたのかもしれない。…だが、道はまだ遠い」
「大丈夫ですよ、先輩」
リリアは、アゼルを見上げて、悪戯っぽく笑った。
「一人じゃありませんから。それに、エレジア王国の宰相様も、なんだか、先輩と似た匂いがしました。ああいう人がいるなら、これからの世界も、少しは面白くなりそうですね!」
彼女の底抜けの明るさに、アゼルは、思わず、噴き出した。
それは、彼が初めて見せた、心からの笑顔だった。
その時、学院の別の研究棟で、一つの爆発音が響いた。
大したものではない。
いつものように、オルフェウス・ゼニスが、新たな実験に失敗した音だ。
だが、その爆発音は、以前のような傲慢さに満ちたものではなく、どこか楽しげな、まるで、かつてのライバルであったドクター・ヴァンスの遺した謎に、果敢に挑み続けているかのような、そんな音色をしていた。
幻影都市の、本当の夜明けは、まだ、遠い未来の話かもしれない。
だが、その未来に向かって、共に歩んでいく、二人の錬金術師が、ここにいた。
彼らの探求の物語は、まだ、始まったばかりだ。